317 その転移は危険
「おい、移動を始めたぞ」
酒吞の獅子王が動き出したとの言葉に、思考の海から出て、その獅子王の背中を見る。うごめいている者たちでさえ、切り刻んで、更に獲物を探すように血走った目で辺りを見渡しながら進んでいる。
「まるで狂化しているようですね」
茨木が聞き慣れない言葉を口にした。狂っている確かにそうだ。しかし、獅子王は明確な意思を持って剣を振るっているので、狂っているとは言い難い。
もしかして別の意味がある?
「ねぇ、茨木。狂化ってなに?」
すると茨木はこちらを向いて、ニコリと笑みを浮かべながら、二本の白い角を青みがかった髪の間から生やした。
「これが我々の普通の状態ですが、更に力を解放することが出来ます。それが狂化です」
ふーん。更に力を増すことができるということか。
「ただ、当然リスクもあります。これはそれぞれで違いますので口にはしませんが」
弱みになるので言わないと。まぁ、それはそうだ。誰も自分の弱点を晒そうと思わないよね。
獅子王の前方には王城が立つ高台が行く手を阻むようにせり上がっていた。恐らく生き残りの獣人たちだろう。高台の手前で固まって震えていた。
数としては100人いるかいないか。その獣人たちの更に前には獣人たちを守るように立っている黒狐の王妃がいる。
『βςζψνρμιι!』
『τπψνραταα‼』
『αμρυτςκ!』
『μρκκμιετ‼』
二人で言い合いを始めたけど獅子王の方は背を向けていてわからない。黒狐の王妃は「なぜこの様なことを!」と「王とはなにですか!」と言っている。
けれど、王妃の様子からは望む答えが得られなかったようで、不服な表情をしていた。
『οιφηρυω. φπρθu,ιθοφζψξηπκθε』
ん? 「それならば、わたくしがこの者たちの命を守りましょう」って王妃が王と戦うってこと?
すると王妃の背後で震えていた者たちの足元に金色の大きな円が描かれ始めた。その力が膨大なのか空間が歪んで見えるほどだ。
え? 空間が歪んでいる?
そして命を守ると言った。これを意味するところは……まさか!
「それはいけない!」
私は思わず叫んでしまった。これが過去の幻影に過ぎないというのに、叫んでしまったのだ。
「アンジュ。どうしたんだ?」
私を抱えているルディが聞いてきた。いや、神父様もファルも鬼の二人も私の方を見て、どうしたのだと視線で訴えてきた。
「もしかしたら、空間転移を使おうとしているのかもしれない」
「確かにそれは状況的に一つの策としては有用ですね」
策としては有用……それは世界に干渉できる神父様だから言えることだと思う。
私が言った空間転移。それははっきり言って出来ないことだ。
「神父様。私が神父様の背後をとった技、どういうものかわかりましたか?」
「アンジュが消えたように見えたものですか?」
「そう」
キルクスの教会で神父様に一撃を加えようとして、空間に滑り込んで背後をとった技だ。
「一瞬アンジュの得意な幻影を使ったのかと思いましたが、私が看破できなかったので、そうではなかったのでしょう。……そうですね。近場で転移を行ったという感じでしょうか」
「そんな感じ、わかりやすく言うと世界の裏側を通って移動した感じだね」
「お前、相変わらずめちゃくちゃだな」
ファル、酷い言い方だね。ようは考え方の問題だ。表の世界と裏の世界。光が満ちた世界と闇が支配した世界。二つで一つ。
これは影の移動でも同じこと。そう近場では移動できるのだ。
「転移はすぐ近くではなく。遠く離れたところに瞬時に移動する方法……なんだけど……私は出来なかった」
正確には出来なかったというより、転移を行おうと術を発動するまではよかった。でもいざ転移となると、得も言われぬ悪寒に襲われ、これ以上は駄目だと本能が拒否したという感じだった。多分転移を実行していたら、五体満足ではいられなかったと思う。
「どういうことだ?アンジュ」
「どういうことと言われても、説明が難しい。でも、見ていればわかるよ。ルディ」
私はそのまま見ているように言う。恐らく転移は発動する。なぜなら、術の施行者が王妃であり、王妃は転移をする者には含まれていない。あの恐ろしい感覚を感じることはないだろう。
黒狐の王妃は術を発動しながら、振り返って何かを言葉にした。恐らく別れの言葉だろう。そして……
『αιΗτψ!』
転移の術が発動した瞬間。金色の円の中に黒い闇が口を開けた。そう、常闇だ。
漆黒の闇に包まれた常闇に足場を失った獣人たちが落ちていく。その姿に慌てて黒狐の王妃は常闇の中に己の身を投じた。
「そういう転移はね。出来ないんだよ」




