閑話 ある日の教会の朝 3
アンジュは肌を刺すような寒い屋外から、暖炉の火が燃えている暖かな室内に連れて来られていた。そこでは、灰色の寒々しい衣服の上から暖かな大きめの上着を着せられ、目の前には朝からは豪勢すぎる朝食が並んでいた。
「るでぃ兄。アンジュ、朝からこんなにいっぱい食べれないと毎日言っているよ?」
この状態が毎日続いているようだ。それもルディの個室に連れてこられての朝食だ。
「アンジュは食べたいものを食べたいだけ食べたらいいんだ」
ルディはそう言いつつ、フォークに果物を刺してアンジュに差し出している。豪勢な食事が出されている中で、果物を一番に差し出している理由も分からないが、幼子を膝の上に抱えて食事をしようとしているルディの心境も理解不能だ。
だが、アンジュはその状況には全く文句を言わず、食べ物に対してのみ苦言を呈していた。それはこの状況に慣れてしまったのか、それとも諦めてしまったのか。
「るでぃ兄。言っても無駄かもしれないけど、私を抱っこする意味あるの?邪魔だよね」
アンジュの言葉にルディは空いている左手でアンジュの小さな手をとる。
「こんなに冷えてしまっているのだから、俺が側に居たほうが温まるだろう?」
「この部屋が暖かいから必よぅ···だから、暖炉の火はつけておいてよ。寒い状況を作らなくていいから。もう、このままでいいよ」
どうやらアンジュは諦めしまった方だった。そして、アンジュの言葉を聞いたルディは暖炉の火を消そうと行動を移したところで、アンジュが止めに入った。アンジュもルディの行動に慣れているのか、ため息混じりで言っている。
「果物とスープだけでいい」
「肉も食べろ」
「朝から無理」
「お前ら飽きもせずに毎日同じことをよく繰り返すよな」
食べる食べないの攻防をしているアンジュとルディに呆れた声をかける者が居る。そう、この部屋にはもう一人居たのだ。アンジュとルディの向かい側に腰を下ろしているのは、金髪のルディと同じ年頃の少年だ。その少年は黙々と食べてはいたが、アンジュとルディの毎日繰り返されることに、呆れているようだ。
「シュレイン。暖炉の火は消すなよ。聖水作りで身体が冷えているんだから、これ以上冷えるのは勘弁だ」
聖水作り。それはあの水場で行っていた作業のことだろう。貴族の子供と思われる者たちは水汲みはしなくていいが、その水から聖水を作る作業を朝日が昇る前から課せられているのだろう。それは身体も冷え、暖かい部屋で温かいスープでも飲んで身体を温めなければ、かじかんだ身体を動かすことはできないというものだ。
「ファルークス。どうせ、今から外で訓練するのだから、それで身体を温めたらどうだ?」
「うわっ!酷いなぁ。シュレイン、訓練免除されたからって、その言い方はないよな。今日の訓練で身体が温まるはずないだろう?」
ファルークスは嫌そうな顔をしている。そんなに訓練が嫌なのだろうか。
「今日は上の人たちは何をするの?」
アンジュは興味津々で聞いてきた。ファルークスの言い方だと、ルディの事を羨ましがっているようにも聞こえるからだ。
「北の森の凍った泉で寒中水泳だ」
寒中水泳と言いつつ、凍った泉でどうやって泳ぐのだろうか。
「あの鎧を着て氷に開けられた穴から穴へ通り抜けるっていう楽しそうな訓練だね」
楽しそうだとアンジュは言っているが、鎧を着て水に潜る時点で、死にかける訓練だと思える。
「何処が楽しいんだ?重いし、冷たいし、心臓が痛いし、苦行だ」
ファルークスの言葉の方が理解できるが、心臓が痛いの意味がわからない。
「ファル様。鎧の中を暖かい空気で満たせば楽だよ?空気の浮力で浮くし、水の中でも息ができるし、濡れなくてもいいからね」
「アンジュの言っていることが、いつもながらわからん。そもそも空気ってなんだ?魔素のことか?」
「ん?この何もない空間に満ちている目には見えないもの」
アンジュが空気の簡単な説明をしているが、ファルークスはこいつ頭は大丈夫なのかという感じの顔をしている。いや、ただ単にいつもながら理解不能なことを言っているなと思っているのだろう。
「何もない空間に満ちているものか」
アンジュの適当な空気の説明にルディは真剣に考え始めていた。アンジュに温かなスープをすくって差し出しながら、頭ではアンジュの言った事をどうすれば再現できるかと思案している。アンジュの考えを理解したいということだろうか。
「じゃ、俺は行って来るから、お前らはちゃんと謹慎してろよ」
ファルークスは立ち上がって目の前のアンジュとルディに向かって言ったが、これは昨日起こしたことに対するお仕置きの一環のように聞こえる。
「ファル様、いってらっしゃい。楽しんできてね」
「あんな訓練を楽しめるのはアンジュぐらいだ」
ファルークスはそう言って、部屋を出ていった。今から鎧をまとって、北の森の中を移動していくのだろう。それは身も凍る寒さの中、重い鎧をまとい芯から冷えきったところで、凍てつく水の中に入るのだ。それは心臓も痛くなるのかもしれない。
そんなファルークスの背を見送ったアンジュはルディを見上げて言う。
「るでぃ兄。もうアンジュお腹いっぱいだよ?」
「もういいのか?まだ残っているけど?」
「もう入らない。毎回言うけど、食材の無駄だからこんなに用意してもらわなくていいっていってるのに」
アンジュとルディの目の前にはまだまだたくさんの料理が並んでいる。はっきり言えば大人三人前よりも多い量だ。流石に幼子の胃袋には入り切らないだろう。
「そうか」
ルディはそう言って立ち上がり、ダイニングテーブルから座り心地がよさそうなソファに身を沈めた。勿論、アンジュを膝の上に乗せたままでだ。
「はぁ。後一年しかここに居られないなんて、嫌すぎる」
ルディはため息を吐きながら、アンジュを抱きしめている。そのアンジュと言えば、困ったかのような、はにかんだ笑顔を浮かべていた。
「アンジュを王都に連れて帰ったら駄目だろうか」
「それはアンジュには答えられないかなぁ。神父様に聞いてみたらどうかな?」
それはまるでこの教会から出ていくことに対してアンジュに決定権が無いような言い方だ。それをルディもわかっているのか。アンジュの言葉を否定しない。
「わかっている。わかってはいるが、アンジュと離れるのは嫌なんだ。アンジュだけなんだ。アンジュだけが「るでぃ兄苦しい」」
アンジュはぎゅうぎゅうに抱きしめられ、流石に息苦しいと文句を言った。しかし、怒ってはおらず、いつもと同じだとはにかんだ笑顔を浮かべている。
「るでぃ兄。いつも言ってるけど、アンジュだけじゃないよ?神父様もファル様もるでぃ兄のことちゃんと見ているよ?ふぁふっ···」
アンジュはルディの頭を幼子の頭をヨシヨシと撫でるように手を伸ばし、撫でながらあくびをしている。
日が昇る前から寒い外での重労働をして、暖かい部屋で温かい食事を取った後だ。それは幼子のアンジュにとって眠気を促すことだろう。それにルディが抱きかかえ、更にポカポカと温まって来ているのだ。
「くすっ。アンジュ。少し眠ってから勉強をしようか」
先程までウジウジと幼子であるアンジュに縋っていたルディだが、舟を漕ぎ出したアンジュを愛おしそうに見て微笑む。
そして、そのまま立ち上がりルディとアンジュは奥の扉の向こうに消えていった。この時間を誰にも邪魔をされないようにと。




