多いモノ
それは突然にやってきた
俺たち4人は身を寄せ合って暮らしている。
風呂に入る時も寝る時も皆が絶えず一緒だ。今もトイレの中で他の3人に囲まれながらレミが用をたしていた。
そんな暮らしをしている理由。それは怖いからだ。
みんな平気なふりをしてるが怖くて一人じゃいられないからだ。
あれは一ヵ月まえだった。
4人が乗った車は低くて心地よいエンジン音を響かせながら快調に走っていた。
運転しているのは友人の秋田谷。助手席には秋田谷の彼女のレミ。
レミは金髪で殆ど外人の顔をしたハーフの美人で、極端に短いホットパンツを穿き、細くて長い足を組んで助手席でふんぞり返って煙草をふかしている。
俺の名前は田島海。運転している秋田谷の真後ろに座り、その横には最近つきあい始めた良いとこのお嬢さん――神無月がちょっと緊張気味な様子でちょこんと座り、さっきからずっと喋り続けるレミの話に笑顔を絶やすことなく相槌をうっていた。
「おめぇ、カンナヅキ…だっけかあ? いづからタジマウミと出来でんだぁ?」
どこの誰から言葉を習ったのか聞いた事はないが――きっと親だろうが――レミの喋る言葉は妙に語尾を伸ばした訛がある。おまけに英語もスペイン語も全く喋れない、見掛け倒しの顔と身体を持つ金髪女だ。
「ぇ…あ…はい…まだ付き合い始めたばかりで…できちゃったとかは…」
「カッコつけでーー! やっでんだべえ! あ~聞いでるがあ? オレもタジマウミとやっだごどあっから。こういうのってなんで言うんだあ? とにがぐオレとオメエはなんだか姉妹だあ。ながよぐすっべや」
レミはれっきとした女なのだが自分のことをオレと言う。
「はい…???」
「ダイジョブだあ、ビョウーキ持ってねえし、なんべんかしかやっでねえがら。そもそもよお、オレのパートナーはアキタヤだからよお。オメエだってよおぐなるべや、なんかわかんねえけどムラムラすんの。発情っで言うのかあ? そんどき傍にアキタヤおればええけどよお、いねかっだから困っちまっでなあ、見だらタジマウミおってよ。そんだけだあ。オメエも困っだらアキタヤとやってもええど。ところでよお、オメエ一人んどき、どおしてんだあ? 指かあ? それども機械かあ? そんだあ! ほれ、なんていっだっけ…あの女……クマなんだかっでテレビ出てる女。あいつ使っでだ機械オレ持ってんだあ。貸してやっでもええどお」
「いっ…いえ…だっダイジョブです…貸さなくても…」
車内は激しいロックが大音響で鳴り響いているせいで、神無月は助手席に座るレミに顔を寄せるために身体を起こして話を聞いていたのだが、ギョッとした顔で振り返っては俺を見て、そしてレミを見るを何度も繰り返している。
運転している秋田谷がレミに何かを言ったようだ。
レミは咥えていた煙草を一度大きく吸ってから、その煙草を秋田谷の口元に持っていった。そんな時にルームミラーが光った。俺が振り返ると凄まじい勢いで迫ってくるライトが目に入った。
ずいぶん飛ばしてくるな。それにしてもハイビームのままかよ、落とせよな。
秋田谷も気づいたようで、レミに一言二言告げると、レミも振り返り「だらああ! アキタヤーーーふり切れえええ!」と顔を歪めて怒鳴り始めた。
直列6気筒でツインターボの秋田谷の愛車。ガツンっと車体に衝撃が走り、エンジン音が変わって回転数を示すメーターの針が一気にレッドゾーンに叩き込まれた。
もともと時速120㎞は超えていたのが、高速からでもグングン加速する化け物のようなエンジンが乗っている者に容赦なくGを加えた。
時速150㎞を超えても加速に衰えがなく、あっという間に180㎞を超えた。
真夜中の高速道路は観光シーズンでもない平日のためか異様なほどに空いていた。
左カーブに差し掛かったが更に加速する。秋田谷は身体を僅かに左に倒しながらハンドル切っていた。
高速道路のカーブは緩い。それでも極端な扁平タイヤのせいだろう、激しい音楽に被さるようにタイヤの悲鳴が聞こえた。
その後も秋田谷はアクセルを緩めるどころか更に愛車に鞭を入れ続けた。助手席のレミは身体を捩じって後ろを振り返り続けており、血が出るほどに唇を嚙んでいた。それに釣られるように神無月も後ろに目をやった。
さっきよりもかなり引き離したはずだが、それでも相変わらず眩しい。
秋田谷の愛車は後部座席が狭い。その為、俺と神無月は顔が近く、呟きまでもが聞こえる。
「うそ…近づいてる…」
レミが再び怒鳴り始めた。
「アキタヤーー! どしたああ! 新幹線でも勝でるって言ってたべえ!」
迫る後続車はハイビームのせいで光しか見えない。ずっと見ていると目がおかしくなりそうだが俺もレミも神無月も目を離せないでいた。
「はっ……ハチ……キ……ツ…ツッ……ツツツ…ツイ……ボ……なっ…なっ…な…め…やがっ……て…あお…あお…あお………」
秋田谷は吃音だ。酒を飲んだり歌えばそうでもないのだが、普段はなかなか言葉が出てこない。要約すると「あれはきっと8気筒のツインターボエンジンの車だ。なめやがって、アオれるもんならアオってみやがれ」と言っている。
スピードメーターが220㎞を超えた。それでもグングン近づいてくる後続車。ハイビームが突き刺さってくる。
かなり車高の低い車だとは何となく分かった。秋田谷が言うように8気筒エンジンを搭載した最新鋭のスポーツタイプの車なのだろう。
「うだらあああ! △◇※■〇!!」
唾を飛ばし怒鳴るレミの言葉は日本語なのだろうがさっぱり分からなくなった。
ルームミラーにちらちら目をやりながらハンドルを握る秋田谷が座るシートの角度を起こし、そして音楽をミュートにした。
空気抵抗によってぶれるハンドルを抑えようと強く握る秋田谷の手が小刻みに震え、それが腕を伝わり頬までもブルブルと震わせている。
後続車はいっこうに離れず、恐ろしいほどの発光を強制的に伝えてくるなか、どこまで寄られているのか見当もつかない。
視線を前方に戻すと、はるか遠くに見えたテールランプがあっという間に近づいてくる。ハンドルを深く切ると致命傷になる。否が応でも慎重にハンドルを切っている秋田谷。そんな緊張が伝わり誰もが口を閉じて後方をにらみ続けた。
「だあらあああああ!!」
それは視線を前方に戻したレミの絶叫だ。
見ると、すぐ目の前に2台の乗用車が並走していた。遅い車を抜こうと右側車線に出たタイミングに俺たちが追いついてしまったのだろう。
「な…な…な…」
要約すると「なめんじゃねえ」と秋田谷が言っている。
スピードを緩めずに真ん中を突っ切った。
せいぜい100㎞程度で走行していただろう2台の乗用車の間を220㎞を超えた車がすり抜けたのだ。何人が乗っていたのかさえ見えなかった。
「ど…どっ……」
要約すると「どうだ、これで…」と言いかけて次の言葉を飲み込んだのだ。
後続車はふり切られるどころか、こっちと同じように2台の乗用車の間をすりぬけ更に迫ってきている。
ハイビームがこちらの車の下に潜り込みかけているのか、むこうの車体が見えてきた。相当に接近している。
意味がわからない…
いったい何をしたいんだ…
突然どここからか現れた強烈なエンジンをしょった車が執拗に追ってくる。
以前、秋田谷が挑発したことのある相手なのか…
それにしてもやり過ぎだ。
はなっからハイビームを当てて、ビッタビタくっ付いてくる。
どうかしてる。無性に腹がたってきた。
高速道路上だろうが車を止めさせて引きづり出してやらなければ収まらない。
何人乗っているのだろうと目を凝らしていると、隣の神無月が何かを見て息を飲んだのが分かった。そして俺もそれに気が付いた。
バカな…
あり得ない…
絶対に見間違いだ。
それを見たまま俺は動けなかった。
そんな俺のシャツを誰かが後ろから引っ張ってきた。振り返るとレミだ。レミも俺たちと同じように何かを見たまま息を飲んでいる。そして呟くように口を開いた。
「アキタヤ………逃げれ…」
だが秋田谷は前を見たまま気づかない。
「ぐ…ぐ……ふっ…ふ…」
要約すると「ぐぐぐ」と唸りながら「ふり切れない」と呟いている、などと翻訳している場合ではない。俺も耐え切れずに叫んでいた。
「秋田谷!! 普通じゃねーぞ! とにかく逃げろ!」
「イヤーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
神無月の叫びが車内に響き渡った。
「な…な……なに…なっ…お……お…」
やはり要約しよう。「なにが起こった? おい、おいって」と言っている。
「イヤーーーーーーーーーーーー!! イヤ、イヤ、イヤ……イヤダああああああああああ!!」
「あらだあああ!! だまれええ! ぐされアマがあああ!! パニくんじゃねええ!! アキタヤーーー!! アクセルだべや! どっつり踏めえええ!!」
二人の女が叫び続ける中、吃音の秋田谷は口を挟めずにいる。何を言いたいか推測すると「田島海なにがあった? どうしたんだ? レミ落ち着け、あんたも叫ぶな。おい田島海」と言いたがっている。
「人だあああああああ!! 人が乗ってんだああああ!! アキタヤーーー! オメエなしてアクセルもっど踏まねえんだあ! 踏めえええ! 踏めえええ! 踏み抜けええええ! うっせい! クソおんな黙れ! うだらうだら騒ぐなあああ!」
レミのヒールが神無月の股間にぶち込まれた。
「グエ……なにしやがんだ! この~…金髪露出狂の公衆便所が!! ざっけんじゃねええ! その足どけろ! そこからどけええええええ!」
良いとこのお嬢さんの神無月が股間を蹴られたせいでパニックが収まり、そしてブチ切れた。
「よせ二人とも。レミ足をどけろ。神無月、レミの髪の毛を離せって」
秋田谷も何かを言おうと口をパクつかせていたが言葉が出ない。言いたいことを推測すると「田島海、二人を止めろ。おっ、危ない、押すな、押すんじゃないバカヤロ」と言おうとしていると思われる。
「誰が公衆便所だあ! どうせオメエなんかお手手が恋人だったんだべええ。その手エ見してみろおお。ふやけてんだべええ!」
助手席から後部座席に身を乗り出しながら神無月の股間に足を捩じり込み続けるレミの肩を掴む秋田谷がまだ口をパクつかせている。言いたいことはわかる。それは「レミいいかげんにしろ。人が乗ってるっていったい何がだ? わかるように言え」だ。
以心伝心というのか、単語らしい言葉を全く発していない秋田谷の言わんとしている事を理解したレミが返事をした。
「何がだもクソもあっかあ! オメエの目ん玉ヤニクソに埋もれでんのかあ! 屋根だー屋根見ろーー! おどご乗ってるべえ!!」
それを聞いて何かを言おうとした秋田谷だったが遮られた。
「喋んなあ! 口閉じて黙ってアクセルば踏めーーボケ!」
レミの言葉によって自分の見たモノに自信が持てなかった俺も「秋田谷! いるんだ車の上に! 男が乗ってんだ!」と叫んでいた。
神無月もレミに股間に足を突っ込まれながらも負けじと怒鳴った。
「あんた! トロくさいんだって! もっとスピード出せないの! 玉ついてんでしょ!!」
「な…な…なっ……と…とっ…とろろろ…ろ…たっ…たっ……」
秋田谷だ。要約しよう。「なんだと。とろくさいだと。玉だって2つある。テメぇいっぺん犯されなければわからないのか。ふざけんな」と、今も言いかけている。なぜ言いかけなのかは、いきなりガツんときたからで、俺はその衝撃で鞭打ち症になるほど首が後ろに倒れた。
煽るだけではなく追突を仕掛けてきたのだ。
その衝撃は激しく、神無月に髪の毛を引っ張れながらも足での攻撃を続けていたレミは後部座席に頭から突っ込んできて神無月の顔面に頭突きを食らわした。
「あぎゃ!」
レミなのか神無月なのかわからない悲鳴。訛っていないからきっと神無月だ。
秋田谷はルームミラーを睨んで「そこまでやるか」と言おうとしている。レミもそれが分かったようで返事をしているから間違いない。
「そこまでもどこまでもあっがーーー!! ええがら逃げろお! アクセルば踏めえ! 踏めえええええ!」
「秋谷田! 躊躇うな! とにかく逃げろ!」
「いっ、いやあああああああああああ! ちぃ…ちぃ…鼻血ぃ出てるうううう!」
レミに頭突きを食らわされた神無月が鼻血を出したようだ。見ると鼻が曲がり、ドボドボと滝のように鼻から血が流れ出てる。きっと太い血管が切れたのだろうが俺はそんな神無月を放っておいて後方を振り返った。
そいつが見えた。
「あ……あ……ああああ…」
車高の低い外車だ。その外車の屋根にへばりついているヤツ。
表情がない。
まったくの無表情でこっちを見ている。
頭の毛も眉毛もない。顔が長い、そして巨大な頭だ。
肩幅も極端に広い。
肘を深く曲げて胸や腹を屋根にくっつけるようにして顔をこっちに突き出している。
腕が妙に長い気がする。
車幅の広い外車の屋根を楽々と両側から掴んでいる。
人間の腕はあんなに長いか?
それだけ背が高いということか?
秋田谷の愛車の後部座席は狭い。その狭い後部座席に座る俺と神無月の間には助手席から飛んできたレミまでがいる。さっきまで醜い攻防を続けていたレミと神無月。未だに神無月はレミの髪の毛を掴んでおり、レミはレミで神無月の股間を鷲掴みにしているようだ。見ようによっては抱き合っているようにも見える。そんな二人も俺と同じくヤツを呆然と見ている。
運転している秋田谷にもようやっと見えたようで、口を大きく「あ」の字に開けていた。
レミが最初に我に返った。神無月の身体に足を掛けて蹴るようにして助手席に戻りながら叫んだ。
「アーーーキーーターーヤーーーーー!!」
蹴られたせいで我に返った神無月。大きく足を開いて助手席に戻ろうとしていたレミのケツに手刀をぶち込んだ。
「うんギャ…」
秋田谷も我に返ったようで強烈な加速がかかった。その拍子に再び後部座席に戻されてきたレミ。
後部座席で女同士の掴み合いの嚙みつき合いがまた始まった。俺はそれに巻き込まれ後ろを確認することができない。
「よせ止めろ! 痛い…痛い…いててて…嚙みつくな! それは俺の手だ! ふり切ったか秋田谷!」
再びガツんときた。
見なくてもわかった。またぶつけてきたのだ。だが今度のは一度きりではなく、ガン…ガン…ガンと続けざまに衝撃がくる。そして衝撃と衝撃の間隔がどんどん短くなり、ついには、ガガガガガガガガガガガガガガ…と完全にくっついた状態で押し付けられている音と衝撃に変わった。
レミと神無月はもう暴れていない。抱き合って言葉を発しない二人。車内は車が凹む異様な音だけとなった。
「ま…ま…」
秋田谷だ。
前方に目をやると、また2車線を塞ぐように並列で走行している車両のテールランプが遥か遠くに見える。緩く大きな左カーブ。左車線に3台の大型トラックが縦走していて、それを大型バスが右側車線から抜こうとしているのだとわかった。車内は相変わらずガガガガガガガガ…という嫌な音が響いている。
後部座席の3人ーー俺とレミと神無月は抱き合っいながら、物凄い勢いで近づく3台のトラックとそれを抜くバスを見ていた。
レミが後ろを振り返った。そして俺と神無月も後方を見た。
這い寄ってきた。
両腕を大きく広げ車を両側から掴んでへばりついていたヤツ。そいつが前に前にと這っている。
どうして振り落とされない。
頭からフロントウインドウを這い降りてきた。そんな姿勢なのに顔を上げてこっちを見ている。
なんであんな姿勢ができる。
首が長いのか。
全てが人間離れしてる。
唖然と魅入っていた。
気が付くと、こっちから2メートルも離れていないところまで這い寄ってきていた。
真っ赤に充血した目が俺たち3人を見ている。
秋田谷の車はサイドもリアもプライバシー仕様だ。外から車内が見えるはずがない。
だが見ている。
ヤツは俺たちを見ている。
目が合っている。
ヤツは完全に見えている。車内にいる俺たちの顔が。
ガガガガガガガガガガ…
ガガッガガガガガガガガ…
車内に響く破壊音が遠い気がする。ヤツの目に意識が持っていかれていた。
ボンネットまで降りてきた。
妙にゆっくりと右手が挙げられた。
神無月の喉の奥から「ヒぃ…」と空気が漏れるような音がした。
ダーーーン
ヤツの右手がこっちの車の後部を叩いた。
長い。
腕が長いのは気が付いていたが、想像を超えた長さだ。
こんなに腕が長い人間などいるのか。狂ってる。
そして細い。
まるで骨と皮だけで筋肉など一切ないような細い腕。
後部座席の3人ーー俺とレミと神無月は迫ってきている人間離れしたモノから僅かでも離れようと、後ろ向きになって足を突っ張らせ、前列シートの背に身体を張り付けた。声も出せずに、だけどヤツから目を離せない。
ヤツも俺たちから決して目を離そうとしない。それは俺たちのどんな些細な動きすら見逃すまいとしているようだ。そんなヤツの右手がこっちの車に届いている。そしてその手が右に左にーーつぶれて凸凹な車両後部の上を探るように動いている。
取っ掛かりーー掴む場所を探している。
掴んでどうする?
まさか…
まさか、こっちに…
右手の動きが止まった。
掴めるところを見つけた。
次の瞬間もう片方の手ーー左手も挙げられた。
今更ながら、こっちに乗り移る気だとハッキリした。
乗り移った後は…何をするつもりだ…
ガガガガガガガガ……
ガガガガガッガガガガガ……
急におかしな映像が俺の頭に流れ込んできた。
アスファルト舗装の上で、衣服を破かれた半裸の女にヤツが覆いかぶさっている。
そして身体を仰け反らせ獣のように吠えていた。
その女は神無月だったがレミでもあった。
ガガガガガガ……
ガガガッガッガガガガガガガ……
音が激しくなり俺は我に返った。
慌てて横を見ると、神無月もレミも同時に俺を見た。二人とも目から涙を溢れさせ顎を激しく震わせている。
お前たちも同じものを見たのか。
あれはヤツが頭で描いたものか。
それが俺たちの頭の中に流れ込んできたのか。
ヤツはお前たちを…お前たちを……腹ませたい。
それが望みだというのか。
子孫を残すという本能。それを達成するためだけにヤツは動いている。いや生きている。凄まじい本能。おそらくヤツの思考はそれ一色なのだろう。それ故にその強烈な思考が近くにいる俺たちに流れ込んできた。
レミが言った。
「いやだ……アイツにやられるぐれえだら……しぬ」
神無月の手が俺の手を探し当て強く握ってきたが、その手はガタガタと激しく震えている。
ガガガガガガ……
ガガッガッガガガガガガッガ……
バキ、バキという音が混じってきた。日本車に比べ外車の頑丈さは凄い。おそらくこっちの車が壊されてきた音だろう。
「アキタヤーーーー! オレを守れえええええええええええええ!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
秋田谷の雄たけびと同時に車内に響いていた破壊音が変わった。その途端、後ろ向きで足を突っ張らせていた俺たち3人にGが加わりケツが僅かに浮いた。
後続車が離れた。
両手をこっちの車に掛けていたヤツが慌てたように見えたが、それは一瞬だった。
ガン…ガン…ガガガガッガッガ……
ガガガガガガガガッガガガガガガ……
再び破壊音が車内に響き始めた。
無理だ、後続車を引き離すのは無理だ。おそらく強烈に改造したエンジンを搭載している。
上に乗ってるヤツが更に迫ってきた。少しづつ少しづつ、掴めるところを手で探りながら、見つけては掴み、そしてグイっと自分の身体を引っ張り上げてくる。
近い、距離が相当に近い。ヤツの身体の特徴が見て取れた。
青い血管が網の目のように浮き出ていた。
頭からも顔からも肩からも腕からも手の甲からも無数に浮き出た青い血管。
充血していると思っていた目。それは充血どころが実際に出血していた。
目玉の血管を切り、目から鮮血を流しているのに瞬きもせずに着実に迫ってくる。
もういい…
やめろ…やめてくれ…
来るな…来るな…こっちに来るな…
バン……
ヤツの右手が俺たちが乗る車のリアウィンドウを叩いた。
バン……バン……バン……バン……バン……
何度も何度も何度も…叩き続けている。
きっと割れるまで叩くつもりだ。
割れる?
割れるのか、素手で? まさか…
いや、ヤツならきっと割る。
俺と秋田谷は何をされるのだろう?
邪魔なだけだよな…
ヤラレチマウ…
武器になるものを探そう…
でも…きっと…やられる…
俺は頭が痺れていて、そんな事をボンヤリと考えていた。
何か今までにない音がしたような気がした、と同時に身体が浮いた。そして次の瞬間には身体を激しくどこかにぶつけた。
誰かの下半身が俺の顔に乗っている。スカートが捲れあがっているようだから神無月だろう。なぜかパンツを穿いていない。レミにはぎ取られたのか。そんな神無月の股の間からそれが見えた。リアウインドウにへばりつくアイツが。
「◎×△※◇!!」
通訳が必要なレミの怒鳴り声の間に、秋田谷の声を聴いた。そしてキュルルルルルル…というタイヤの悲鳴の直後に身体がリアに向かって持ってかれた。
前を走行していたバスやトラックとの追突を避けるためだったのか、それとも別の理由からか、秋田谷がドッカンブレーキを掛けたのだ。そして右側車線を走行していたバスが3台のトラックを抜いて左車線に戻った瞬間に加速し、S字を描くように抜き去ったのだ。
激しいブレーキの衝撃でアイツの身体は一旦こっちのリアウインドウに張り付きそして凄まじい加速によって振り落とされ高速道路上に叩き落ち、もともとヤツが屋根にへばりついていた外車によって撥ね飛ばされた。
「だらああああ!」というレミの雄叫びと同時に「ぎゃっ!!」というカエルが潰されたような声がした。見ると逆さまになった神無月と、その横でガッツポーズを決めているレミ。そのレミの拳には縮れた毛の束がぎっちり握られていた。
誰かの溜息が聞こえた。
車内に張り詰めた空気が徐々に緩んでいくのがわかる。それでも無言でアクセルを深く踏み続けている秋田谷。
さっき抜き去ったバスとトラックのヘッドライトが遥か遠くに見えた。
何も考えることができない。
あっちこっちに身体をぶつけったはずだか痛みは感じない。
横を見ると鼻の曲がった神無月がまだ鼻血を出していて、握った拳を開くことが出来ないのかレミは未だに神無月の陰毛を握りしめている。
なに…?
一つ目の何かが遥か後方に見えた。
まさか…あり得ない…
きっとバイクだ…
だかその一つ目ライトは物凄い勢いで近づいてくる。
車内の空気が再び凍り付いたが誰も口を開こうとはしない。
秋田谷が無言でスピードを上げた。
どんどん近づいてくる。
それが見えてきた。
フロントグリルが酷くつぶれ、右のライトだけの車高の低い車だとわかった。
偶然だ…
さっきの外車の訳がない…
壊れかけた別の車がたまたま…
だが速い。凄まじいいスピードで追いついてきた。
見るとスピードメーターは200㎞を超え更に速度を上げている。運転している秋田谷は何も言わない。
片目のせいで上に乗っているモノが見えた。今度は最初っからボンネットの上にいる。
あっという間に寄られた。
もう誰も叫んだり騒いだりしない。
ただ茫然と見ていた。血だるまで、地獄の底から這い出てきたような姿のそれは、間違いなくヤツだ。
生きてる…
動いてる…
神無月が嘔吐した。
レミは口角を上げーー笑った表情を顔に張り付かせている。
ガン…ガン…ガン…
同じことの繰り返しが始まった。
一回一回の衝撃に、後ろ向きの俺たちの首がガクン…ガクンと前に折れる。次の展開が読める。そしてその通りになった。
ガガガガガガガガッガガガガ……
ガガガガガッガガガガガガ……
恐ろしく長い腕がダラダラと流れる鮮血を振りまきながらゆっくりと上がった。
ダーーン……
細い腕が俺たちが乗る車に届いた。
そしてもう片方の腕が上げられた。
ダーーン……
両手でがっちりと掴まれた。
爪が剥がれた指先まで見える。
神無月の脚が濡れていることに気が付いた。漏らしていた。
レミを見ると笑った顔のままやはり漏らしていて、俺も同じだった。
ヤツが二本の細くて長い腕をたよりに身体全部をこっちにズッ…ズズズズっと引っ張り上げてくる。
上半身がこっちにきた。
腹ばいの姿勢でケツが上がった。
向こうの車のボンネットに残っている足をこっちに移動させようとしているのだろう。右足を胸の下で折りたたみ前に出そうとしている。
下半身も裸なのだと改めてわかったが驚きもしなかった。
ヤツは右足を前に出す事に難なく成功した。
身体が軟体動物のように柔らかい、というより関節がないのか。簡単に外せるのか。
また吐き気をもようす映像が頭の中に流れ込んできた。
化け物が神無月に種を仕込んでいる。
化け物がレミの両足を広げ中を覗き込んでいる。
これはきっと止められない。実際に起きる。
俺と秋田谷で抵抗しようが逃げ出そうがヤツは必ずやる。それしか頭にない。レミと神無月が持つ子宮の事しかプログラムされていないロボットのように、ただひたすら実行に移してくる。
道徳感もなければ罪悪感もない、あるいみ純粋だ。
俺は呆然とそんなことを考えていた。
急に横方向に強烈なGが掛かった。車が横転するほど右に大きく傾いたのだ。
後部座席の右端にいた俺に向かって女二人が一気に圧し掛かってきてアバラが悲鳴を上げた。
左後輪が浮いている…
右後輪から煙が出ているのが僅かに見えた。
すぐ目の前のリアウインドウ。ヤツの姿が消えた。そして後続車のボンネットに手を掛け、しがみ付きながらも引きずられているのが見えた。
秋田谷がスピードを緩めないままにサービスエリアに向かって急ハンドルを切った事が、車が停まってからわかった。
あの外車はしがみつくヤツをぶら下げながら本線を走り去って行った。
後部座席で震えながら固まっていた俺と神無月とレミの3人。それぞれの顔を見て、少しずつ少しずつ声を出して――震えた声で笑い、そして抱き合って大声で泣きながら笑った。3人が3人とも湯気をたてた小便を壊れた水道のように漏らし続けている。
運転席の秋田谷。ハンドルからゆっくりと手を離しシートにもたれ掛り、そして窓を開けた。
1台の車も停まっていない深夜のサービスエリアはまるで静止画面のように動くモノも無ければ音もしない別次元の場所だった。
もういい…
ヤツが何であろうと…
もうどうでもいい…
考えたくないし、思い出したくない…
秋田谷が車から降りてフラフラと歩き始めた。見ると秋田谷も漏らしている。
本線の方に顔を向けながらタバコを取り出し火を点けた秋田谷。それを見ていると俺も外のひんやりとした空気の中でタバコが吸いたくなった。
車を降りようと姿勢を直した時だ。秋田谷の後ろ姿ーー背中が僅かに、だけどハッキリとビクっと動いた。
車内に残る俺たち3人にもそれは見えた。
サービスエリアの出口から何かが走ってくる。
それは街灯に照らされ異様に光って見えた。
どんどんこっちに来る。
突っ立ったままの秋田谷の背中。
動けないのか。戻ってこようとしない。その遥か向こうから凄い勢いで走ってくる何か。
うそのように背が高い。
衣服は何も身に着けていない。裸だ。
身体が異様に細い男。
両手を高々と上げながら走ってくる。
万歳をしたような恰好。まるでこっちに両手を振って合図をしているようだ。肩幅が極端に広い。そのせいで胴体の細さが際立っている。そしてあり得ないほどに首が長く、その首には巨大で長い頭が乗っていた。
首が細くて長いせいなのか、それとも頭が大きすぎるせいなのか、走る振動で頭が右に左にグワン…グワンと大きく揺れているが、それでも強烈な速度でどんどんどんどん近づいてくる。
見えてきた。全身血まみれの裸の男。まだ遠いがそれがオトコだとわかった。
上げている腕と走る脚がバカみたいに細くて長い。身体のいたるところから血を吹き出している無毛の男は胴体もミイラのように痩せていた。
だが何かが変だ。
高速で走行する車から叩き落ちて後続車に引きずられ血まみれになっているのに走れるのも変だ。
そもそも時速200㎞で走る車の屋根にへばりつけたのも変だ。
更にそのスピードで前を走行する車に乗り移る事なんてもっと変だ。
だけど、変なのはそれだけではないような気がする。俺は世間話でもするよう言った。
「なんか…変じゃないか?」
神無月が口を開いた。
「でかすぎるよね…うまなみ…って言うか…種馬?」
確かにそれも異形の部類に入るほどに変だ。しかしもっと別に変なとこがあるような気がする。
レミが気づいた。
「うげ……なんだああああ……あれええ…腕ってよおお…あれがふつうだったかあ…」
裸で血まみれで走る痩せすぎの男ーーヤツは両手を高く上げているのに動く足に合わせて両腕も前後に振られていた。
腰の上あたりから生えた、やはり細くてかなり長い腕が身体の左右に1本づつある。
後ろ姿の秋田谷もそれに気づいたせいなのか全く動こうとしない。あまりの事に動けないのか?
俺も車内で動けずにいた。
「逝ねええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
レミの雄叫びで我に返った。
いつの間にか運転席にいたレミ。踏み抜いてしまうほどにアクセルペダルを力の限り踏んだのがわかった。
キュルルルルルルルルル…
タイヤが煙を上げながら鳴いた。車はまだ動かない。
キュルルルルルルル……
タイヤがアスファルトを掴んだ。その途端、目いっぱい伸ばしたゴムを開放した時のように、レミが運転し俺と神無月が後部座席に座る車のロケットスタート。ハンドルを握るレミですら首が後ろに倒れた。
立ち尽くす秋田谷がゆっくりとこっちを振り返った。その脇を加速をしながら突っ切った。秋田谷がまだタバコを咥えていたのが見えた。
腕が4本あって巨大な頭をした裸の男。脇目もふらずにこっちに向かって走ってくる。よける気など全くないようだ。レミの歯ぎしりが聞こえた。次に、もの凄い衝撃と音がきた。
その後、4人は一言も喋らなかった。
秋田谷が運転を代わり、最初に神無月が親と住む豪邸に寄り、そして俺は自分のアパート前で車から降りた。レミは秋田谷と同棲しているから二人でそのアパートに帰っていった。誰も挨拶はしなかったが、全員がすがるような眼をして別れた。
それから二日後の夜中だった。
俺はあれから眠ることができないでいた。あの時の事が脳裏から離れない。忘れられない。
高速道路上に設置されたサービスエリア。
恐怖のためかそれとも怒りのためか顔を引きつらせ雄叫びを上げ、歯を食いしばりながら車で突っ込んでいったレナ。俺と神無月の叫びも重なっていた。
走って来るヤツが見える。
ヤツは避けようとしない。真っすぐに向かって来る。
レナもハンドルを切らない。アクセルペダルから足を上げない。
俺は叫び続けていたはず…
「もっとだ! もっともっとスピードを上げろ! 殺せええええ! 息の根を止めろおおおお! ハンドルを切るな!」
腕と脚を突っ張らせ身体をシートに押し付けるようにしてハンドルを握り、瞬きすらしないレナの横顔。目尻が裂け、頬に血を滴らせながら歯をむき出し、そしてやはり叫んでいた。
恐ろしい衝撃。
ボンネトに撥ねられたヤツがフロントガラスに叩きつけられてきた。時間が止った気がする。
ひしゃげたヤツの顔が助手席側のフロントウインドウに張り付き、中の俺たち一人ひとりの顔を確かめるように赤い目が動いた。
次に胴体がきた。
運転席側のフロントウインドウにヤツの男性器が押し付けられ、つぶれ、睾丸が飛び散ったのまでわかった。
そして肉片と血痕を残し屋根を超えて後方へと弾け飛んだ。
止った車の中で俺たち3人は振り返る事ができないでいた。ただ、誰ともわからないーーもしかすると自分かもしれない激しい息遣いを聞いていた。そんな中、俺はある事を無理やりに思おうとしていた。
こんなのはウソだ。あり得ない。
全部ウソで偽りだ。
だが、ひび割れたフロントウインドウや、そのひびに沿って流れ落ちてくる肉片と血が現実だと告げてくる。
突然、運転席側のドワが開けられ、俺たち3人は一斉に悲鳴を上げた。
全身を激しく震わせた秋田谷が一切の口を利かないままレナを助手席に押しやり車を発進させた。
サービスエリアを出る間際、俺は見た。見たくはなかった。あえて目を逸らしていたのだが、どうしても目がいった。跳ね飛ばされたヤツの姿に。
動いていた。
4本の手を使って。
腕立て伏せでもやるように自分の身体を4本の手で押し上げ、起き上がろうとしていた。
あれでも死なないのか…不死身なのか……
あまりの事に俺は身体を捩じって振り返って見た。そして慌てて顔を伏せて身体を元の姿勢に戻した。
誰にも言わない。ヤツが起き上がったなんて。
俺が振り返ってまで見た事も知られたくない。
もしかすると神無月もレミも振り返って見たのかもしれない。秋田谷もルームミラーで…
でも…誰も何も言わない。きっと見ていない。見たら絶対に口にするはず…
だから誰も見ていないし、俺が振り返ったのも知られていない…
二日後、眠れないままで横になっていた俺のところに秋田谷とレミが突然に訪ねてきた。相当に慌てていた。
二人が住んでいたアパートが破壊されたという。
2階建ての6家族が入っていたアパート。レミと秋田谷は運よく留守だったらしく、帰宅すると何台ものパトカーと消防車。それと何人もの警官によってアパートには近づくことができなかったらしいが、遠目にも1階部分が潰れて2階部分が落ちているのがわかったと言う。大勢の野次馬が声高に喋っていたらしい。
俺は近所に住んでんだけどスゲーー音で飛び起きて見たんだ。ダンプよダンプ! ダンプがアパートに突っ込んで来たんだって…それも1回じゃなくて何度も何度。そうそう、突っ込んではバックしてまた突っ込むの繰り返しよ……ぇええ? うんうん、あれはアクセルとブレーキの踏み間違いじゃねえって。居眠り?? んなわけねえわ。絶対に狙ってやんなきゃ、あーわなんねえって! ……っでそのダンプはどこ行ったって? いいだけ突っ込んで……そうだ! ダンプの荷台に乗ってるヤツいてよ。あれは……すげえデカいヤツ……巨人だ巨人、素っ裸の巨人の男だ。アレおっ立ててた。そんなのがダンプの荷台に乗っててよ。突っ込まれたアパートの住人、慌てふためいてバラバラ飛び出してくるだろ。着の身着のままで。お~お~下着姿で飛び出してきた若いねえちゃんもいたわ。そんな住人の様子、ダンプの荷台のに乗ってたヤツ……なんていうのか…じーーーっと見てた。っで、もう誰も出て来なくなった頃にダンプの荷台から飛び降りてよ、壊れたアパートの残骸……柱やらドアやら家具ぶん投げて何か探してるみたいだった。すんげー力よ。だってな、けっこうデカい冷蔵庫やら箪笥だって片手で軽々と放り投げんだぜ。ほらよく見てみろ、アパートからけっこう離れた場所に大型家具が散乱してるだろ。全部あの巨人がぶん投げやがったのよ。そんでしばらくしてまたダンプの荷台に乗ってどっか行きやがったわ。だいだいよ~、警察くるの遅せーーわ。
俺と秋田谷とレミの3人。電気を消した俺の部屋の中で互いの顔をじっと見ていた。何もしゃべらずに。
朝方ーーもうすぐ日が明ける時間に今度は神無月がタクシーで来た。親が建てた豪邸に同居していた神無月。その豪邸にダンプが繰り返し突っ込んできてグチャグチャに壊されたという。家族全員で裏口から逃げ、神無月だけが俺のアパートまで来たのだ。
「わたし3階の窓から見た。アイツだった。アイツがダンプの荷台に乗ってた……わたしを追いかけてきたんだ……わたしのせいでお父さんとお母さん、それと弟……殺されるとこだった。でもどうして……どうやって…わたしが住んでるとこ見つけたの……それに…ここまでやる理由ってなに……やっぱりアレ…なの……あの時…頭の中に流れ込んできた映像……私をレイプするため…それだけでここまでやる訳……ははは……バッカみたい……狂ってる…あははははは……なに? なんで黙ってんの? なんか言ってって……そんなことある訳ないでしょ…違う? どうして何も言ってくれないの……」
神無月はその後も喋り続け、そして急に泣き始めた。そんな神無月の泣き声が聞こえる中、他の3人の誰もが口を利かない中、俺は思い出した。
俺は聞いた事があった。いや、何かの本で読んだのか?
ずっと昔、俺がまだ子供だった頃だ。
腕が4本あるヤツの話だ。
そいつは何かに追われているようで、逃げているように見えたという。
助けをを求めるように長い両腕を上げて左右に大きく振りながら、「自分はここにいる、助けてくれ」と訴えているようだったらしい。
凄くデカい男で、ゆうに2メートルを超えていたそうだが、その身長を考えても長すぎる腕を上げて走る姿は異形そのものだ。
両腕を上げた状態でよく走れるものだと目を凝らすと、腰骨の少し上あたりから別の腕が生えていて、それを前後に激しく振りながら走っていた。
衣服を全く身に着けていない素っ裸の男。
日の光を浴びたことが無いほどに皮膚は白く体毛が一切なく、青い血管が網の目のように浮き出ている。
苦しそうに走って逃げていたというが、確かもっと北の方の地域で日本海側だったはず。
俺たちが遭遇したヤツは何処から来た? 北からか?
あれ……?
この話って誰から聞いた話だ? 本で読んだ? 妙にリアルに思い出したけど…これって俺の体験なんじゃ…
俺が子供のころに見たのかもしれないし本で読んだのかもしれないが、その話に出てくる裸の巨人は本当に逃げていたのか? もしかすると両手を振って呼んでいたんじゃないのか? 誰を?
オンナ…
神無月がいつのまにか泣き止んでいた。俺は3人に、さっき思い出した話をした。そして最後に「もしかすると子供の頃に実際に俺が見たことがあって、それの記憶かもしれない」と付け加えた。
3人とも――秋田谷もレミも神無月も口を閉じたまま何も言わなかったが、そろいもそろって眦が裂けるほどに目を見開いていた。
その目は「まさかお前もなのか…」と語っていた。
その時もそれ以降も、その件を口に出して互いに確認した事はない。ないが、次の日に俺たち4人は当たり前のように家を引き払った。そして海を渡り北海道から出ていった。
神無月が言った。
「本州もやめよう。もっと遠くの方が絶対に安全」
レミが言った。
「日本海のちがぐもやめっべえ」
そこで本州から瀬戸内海を挟んだ四国のとある町に、きのみきのままで移り住んだ。
俺たち4人は夜になると布団の中で抱き合って目を瞑る。
だが、きっと今日も眠れないだろう。