夢幻
無銘の刀
「つゆと落ちつゆと消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢」秀吉辞世
慶長19年の11月。徳川家康は、難攻不落と言われた大坂の城を蟻の這い出る隙間もないほどに、30万の大軍勢を日本中から集めて四方八方から包囲した。対して大坂の城には10万もの牢人が籠もっていた。
その中に家所伊右衛門。
と呼ばれる男がいた。生年不詳。没年は翌年の慶長20年夏。遠江大須賀康高に仕えた天真正伝神道流の剣術家水谷八弥の弟子という。
「家所伊右衛門」
籠城の最中のこの日、伊右衛門は大野治長に呼ばれた。
「秀頼様にお目通りしてもらう。」
大坂城中では、先頃、何者かに足軽が斬り殺されるという事件が起こっている。斬り殺された足軽は徳川の間者であるとも噂された。
「多いときは三夜続けてだ。」
諍いのよるものだとも噂されたが、その噂の真偽は定かではない。牢人たちにとっては、噂の真否などはさして重要ではなかったし、その被害者の足軽たちが皆、自分の指していた刀で斬り殺されていたということも彼らにとってはどうでもいいことであった。
「伊右衛門は神道流の使い手だという。」
その理由で夜間城中警護を任命された。
「この刀は父太閤殿下が美濃墨俣に一夜で城を建てた折、信長公より賜ったものだという。」
無銘の一振りであった。
「足軽たちは、皆、夜半一人でいるところを狙われておる。」
大野治長は去り際に言った。
伊右衛門の体調
家所伊右衛門は体調が優れなかった。それは昔からそうであった。彼は時折、言いようのない倦怠感と吐き気に催されることがあった。一時、遠江横須賀城に仕えたこともあったが、職務懈怠を理由に牢人された。神道流はそのときに水谷八弥から習った。
「おぬしの手技は初めてとは思えぬ。」
師はそう言っていた。
腰には秀頼からもらった無銘の刀が差さっている。夜空には月がか細く出ていた。
「無銘の一振り。」
伊右衛門が寒風の中、石垣を縫って城中を歩いて行く。牢人衆は眠っていたり、起きていたりである。どこから運んで来たのであろうか石垣の石は巨大に暗く黒く薄く光っていた。
台盤所から少し離れた人目につきにくいところに一人の足軽の姿がある。
「うむ。」
怪しいと思った。その足軽の後ろに影がひとつ増えた。
「う…。」
伊右衛門は、言いようのない倦怠感と吐き気に襲われて、一瞬、気が遠くなった。
関ヶ原
「う…。」
そのまま倒れそうになったが、なんとか持ちこたえた。目の前に新たな視界が開けたような気がした。
「今は役目に集中しよう。」
腰を見ると刀が差さっている。それは当然のことなのだが、その刀はそこに今まであったのではなく、突然、そこに現れたような気がした。それは既視感であった。
霧が晴れると辺りが見えて来た。敵の先方は明石、小西らの軍勢であろうか。伊右衛門は蜂須賀至鎮隊にいた。牢人後、なんとか得た仕官の口であった。
「我が命運如何に如何に。」
再び伊右衛門は倦怠感と吐き気に襲われた。
小田原
「おい。」
誰かが肩を叩いている。
「四郎殿。」
伏見四郎秋定。伊右衛門の上役である。彼はもとは野盗まがいの足軽であったが、いつの日か北条家の足軽になった。生涯四十三の合戦に出て死ぬことはなかったという。人は彼を『不死身の四郎』と呼んでいた。彼の体は傷跡だらけであった。今もその右腕にどこで作ったのか分からない古傷があった。そんな彼も今は足軽頭である。
「もうすぐ始まるぞお。」
この小田原城は関白秀吉の軍勢に包囲されていた。
「おれは此度で死ぬだろうが、おまえはまだ若いから死ぬなよ。」
不死身四郎は言った。
「お前良いもの持ってるな。」
腰に差している刀だった。
「おれは野盗稼ぎもしていたからな、見たらだいたい分かるよ。」
「ああ。我が家宝だ。」
「そうか。」
鉄砲の音がした。瞬間、不死身四郎は額を打ち抜かれて倒れた。伊右衛門は土俵の後ろに隠れた。武者たちの声が聞こえる。伊右衛門が籠もっている山中城は最前線である。城方も鉄砲を撃ちかけている。伊右衛門も火縄に火を点けると、土俵から顔を出して狙いを付けた。引き金を引く。伊右衛門の横顔を弾丸がかすめていった。伊右衛門は再び、土俵に隠れた。玉込めをしていると、突然、目の前に一人の武者が降り立った。
「はあ。はあ。」
伊右衛門は刀を抜くと武者の脇腹を突き刺した。後ろから突き刺された武者は、伊右衛門を投げ飛ばすと、槍を捨てて刀を抜いた。そのまま、土の上に倒れている伊右衛門を土ごと斬る勢いで四回、五回と斬りつけてくると、伊右衛門は土を引っかき回しながら逃げた。やがて、武者は左右から二人の足軽に槍で突き刺されて事切れた。足軽の一人は鉄砲にあたって倒れた。
「はあ…。はあ…。」
伊右衛門の体を倦怠感が襲う。
「(今、倒れたら、俺は死ぬ。)」
必死で耐えようともがいたが、伊右衛門の意識は遠のいていった。
根来寺
「(また倒れていたのか。)」
体が熱い。辺りは炎で包まれている。根来寺は豊臣秀吉の紀州征伐を受けて、本堂、その他の伽藍は灰燼に帰する勢いだった。
「(如来像はどこだ。)」
伊右衛門は焼け落ちる堂塔の中で、如来像を探していた。突き出されて来た槍の手元を切り落とし、足軽の喉を突いた。
「(この刀は…?)」
やけに手に馴染む感覚だが見覚えがない。おそらく無銘の一振りではある。薬師堂のところへ行った。地面に一体の1尺ほどの金像が転がっていた。
「(これか…。)」
伊右衛門は何故これが目的のものなのか、何故自分がこれを探しているのかも分からなかった。
「(そういえば、俺はどうしてここにいる?)」
記憶がなかった。
「(家所伊右衛門。それが俺の名のはずだが…。)」
豊臣の兵に見つからないように林の中に入る。背には炎が迫って来ている。しばらく行くと川が流れていた。川の半ばで足を冷やした。血が流れている。上流の方に足軽か根来寺の僧兵のものか分からない姿が倒れていた。
「(息があるのか?)」
それは呻いているようだった。伊右衛門が近くに行くと、それは寺男のようであった。
「(上から落ちたのか…。)」
あちこちを打ってはいるようだが、右腕を木か何かで深く傷つけたようである。運がよければ助かる。伊右衛門はその小男を担ぎ上げると岩場の陰に運んだ。
伊右衛門は腹巻きを脱いで、仏像を胸に縛りつけると、男を背中に担いで川を下って行った。夜半、歩き通し、明け方に山道付近に出たとき、伊右衛門は突然の倦怠感と吐き気に襲われて倒れた。
本能寺
遠くで燃え盛る炎に照らされて、伊右衛門は気がついた。早く本能寺へ向かわなければならなかった。主君信長は明智の軍勢が攻め寄せる中、本能寺にいる。死は覚悟していた。主君とともに討ち死にすること。それが本懐である。伊右衛門は走った。が本能寺は既に、明智の軍勢が取り囲んでいて、中に入る隙間もない。
「(三法師様は…。)」
信長の孫である。三法師は今、父、信忠と二条御所にいるはずであった。伊右衛門は二条御所へと走った。
「(息が…。)」
途中、再び倦怠感が伊右衛門を襲った。突然の吐き気で、胃の中の物を吐いた。それでも伊右衛門は持っていた刀を杖にして二、三歩歩いたが、やがて倒れた。
「(この刀は…?)」
消えゆく意識の中、その刀はどこから持って来たのだろうか。何故かそんなことが気になっていた。
甲斐
「おい。」
声が聞こえる。
「すまない。」
気を失っていたようだった。伊右衛門は歩き始めた。今は倒れている暇はなかった。信長の軍勢がそこまで来ている。主君武田勝頼は新府城に火を放ち、岩殿城へと退却していく最中である。最近、伊右衛門は体調が優れなかった。突然の倦怠感と吐き気に襲われることは昔からよくあった。しかし、それが治まると、視界が妙に広がる感覚がした。今、伊右衛門は武田勝三の一行に同行していた。勝頼の三男、勝三は父とは別れて他へ逃れることになった。
「おい。如来像を落とすなよ。」
隣を歩いていた足軽にそう言われた。伊右衛門の背中には1尺ほどの仏像が結びつけられている。
「(お方様の形見か…。)」
勝三はまだ赤子である。勝三の母親は今頃、勝頼と行く先をともにしただろうか。一行は甲斐の山道を抜けて、越後を目指した。
「(無事、越後へ辿り着けるだろうか…。)」
一行は皆、不安だった。越後の上杉景勝には勝頼の妹の菊姫が嫁いでいる。それを頼ろうという。夜半、一行は山の途中で休むことになった。
「今度は俺が持つ。」
隣にいた足軽が仏像を持ち上げた。
「有難い。」
そういうと、伊右衛門は、襲ってくる倦怠感と吐き気の中、眠りについた。
本願寺
「伊右衛門。」
坊官の下間頼兼に呼ばれた。
「俺は、眠っていたのか?」
「具合が悪そうだが。」
「持病だ。」
「明日、信長が攻めて来るらしい。」
「そうか。」
「二百人を引き連れて今井に出てくれ。」
その日の夜に伊右衛門は武装した門徒ら二百人を連れて、今井へ向かった。今井町は本願寺道場を中心にした寺内町であり、武装した門徒らが町を守り信長に抵抗していた。
「本願寺より門徒二百人を連れて馳せ参じた。」
今井兵部に目通りした。
「有難い。今日はゆっくり休まれると良い。」
門徒らは道場の隅で休息を取った。
「具合が悪そうで。」
門徒の一人が尋ねてきた。
「うむ。」
突然の倦怠感と吐き気が伊右衛門を襲った。
「信長や!信長が来たで。」
門徒らは慌てて走って行く。伊右衛門はなんとか持ち直して、道場から出た。銃声と発砲煙が激しい。今井町は濠が周囲を巡らせてある。伊右衛門は中央の櫓に登った。町の周りは織田の兵が囲んでいた。
「千、二千…。」
伊右衛門は人数を把握すると、大将らしき者を探した。
「(あれか…。)」
羅紗の陣羽織を着た者の姿が目に入った。
「(二十間程か…。)」
目測で距離を測ったが、少し遠かった。伊右衛門は櫓を降りて、その方向に行こうと思ったが、またも倦怠感と吐き気が襲った。伊右衛門は吐き気に耐えられず、その場に倒れ込んでしまった。
刀根坂
雨に濡れた地面に転げ落ちていたまま、気を失っていたらしい。手で顔の土を払うと走った。どの位倒れていたのだろうか。敦賀へ逃げる朝倉軍を追って街道を走る。
「(後ろから来る馬にでもぶつかったのだろうか。)」
伊右衛門はそう思ったが、たいした怪我がなくて済んだからよかった。代わりに手槍を無くしていた。あるのは腰刀一振りである。家宝として父から受け継がれたものである。名は無いがなかなかの業物であった。
「(途中で槍を分捕れば良いか。)」
そうこう考えていると、前の方から声が聞こえて来た。
「(間に合ったか。)」
刀を抜き突進した。雨は止んでいたが、地面が泥濘んでいる。伊右衛門は辺りを見回した。名のある侍を探した。
「(もっと奥か。)」
乱戦の中を駆けて行った。
「下がれ!」
突然、騎馬武者が横から飛び出して行った。あとからは二、三人の足軽と侍が騎馬武者を追って行った。
伊右衛門はその場に倒れた。頭を打ったのか吐き気がした。伊右衛門はそのまま気を失ってしまった。
桶狭間
「何が起こったのだ…。」
激しい風雨である。誰かにぶつかったのだろうか。辺りは混乱を極めている。
「御謀叛!御謀叛!」
雑兵たちが叫んでいる。
「おい。」
兵を一人捕まえて聞いた。その兵は突然斬りかかって来た。
「(敵か…。)」
伊右衛門は一刀のもと斬り伏せた。先祖伝来の無銘の一振りである。
「(織田か…。)」
見ると辺りは織田らしき兵たちの姿がある。伊右衛門は兜を脱いだ。風雨で辺りが見えない。一人、二人と斬り伏せては進んで行った。
「うお…!」
何かにつまづいてしまった。今川の兵である。伊右衛門は立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。吐き気を催し倒れた。
及び川
「痛っ…!」
誰かに踏まれてしまった。伊右衛門はそのまま倒れた格好で辺りを見回した。銃声が聞こえた。
「(今しばらく、倒れていた方が良いか。)」
言いようのない倦怠感があった。
「(織田は舟で逃げたか…。)」
伊右衛門は腰に手をかざした。刀は差さったままである。伊右衛門はほっと一息ついた。
「(はて…。何故、刀を気にしたのだろうか…?)」
伊右衛門はやがて眠りについた。
小豆坂
「(眠っていたのか…。)」
今川勢はその日の内に藤川を出発した。目指すは上和田砦である。
「(騒がしい。)」
小豆坂に差し掛かったところで前方が騒がしくなった。やがて、前の方から兵たちが退却してきた。
「退け!」
先陣の大将朝比奈泰秀が叫んでいた。伊右衛門は朝比奈のもとへ駆けつけた。
「御大将。」
槍で一人を突き倒した。
「お引き下され。」
朝比奈は後退していった。
「ぬおっ!」
先ほど倒した兵が伊右衛門の腹に組みかかって来た。伊右衛門は槍を捨てて。その者の体を上から押さえつけた。そのまま、投げ飛ばした。
「(刀…!)」
大刀を抜かれていた。次の瞬間、伊右衛門は自分の刀で兵に斬られて倒れた。
「死ぬのか…。」
感じたこともないような倦怠感と吐き気が襲う。視界が消えた。
大坂城
伊右衛門が気がついたときには足軽は倒れていた。足軽の刀は抜き取られていた。近くにはその足軽のものと思われる刀が血に染まっていた。伊右衛門の刀は腰に差さったままである。
「(影の主は…。)」
辺りを見回したが誰もいなかった。
「(取り逃がしたか。)」
伊右衛門は宿直の者を呼び、足軽を葬った。
「(汗が凄い…。)」
伊右衛門の掌は汗で濡れていた。
その後も、幾日か伊右衛門は夜間城中警護をしたが、そのうち、徳川方の攻撃が始まり、犯人探しはうやむやになった。
ひと月後、徳川と豊臣は講和を結んだ。講和の後、図らずも城の堀は徳川方に埋められてしまい。大坂城は裸城となった。難攻不落の城は消えた。
翌年の夏。豊臣、徳川は最期の決戦に及んだ。その戦において、家所伊右衛門は戦死したと伝わる。大坂城も徳川の間者によって火を放たれて落城する。かつて栄華を極めた秀吉の城は紅蓮の炎に燃えて天を焦がし崩れ落ちていった。その焼け跡の中で、秀頼、淀母子も自害して果てた。
伊右衛門が秀頼から賜った無銘の一振りがどうなったかは分からない。