第二話 旅立ちの日に、君に【土下座】
父上からの折檻の傷も癒え、僕は回復した身体の調子を確かめながら、父上の執務室を目指して廊下を歩いていた。
そう、いよいよこの公爵家から出る時がやって来たのだ。
執務室に辿り着いた僕は、嫌な汗を掻く掌をズボンで拭ってから、気持ちを落ち着けて扉をノックする。
「入れ」
中からは、簡潔極まりない父上の声。「失礼します」と断りを入れてから、僕はゆっくりと執務室の中へと入って行く。
「……覚悟は、出来ているようだな」
「はい。旅など初めてなので、このような服装で大丈夫かは判断しかねますが。これで平気でしょうか?」
「構わんだろう。華美な貴族服を着ても、長い旅では徒に朽ちさせるだけだ。それでも平民の服に比すれば、上等過ぎるくらいだろう」
「そう……ですか。ならば街で一度、衣服を調達した方が良いでしょうね」
本当ならすぐにでも叩き出したいところだろうに、律儀に僕の質問に答えを返してくれる父上――ゴトフリート・ヴァン・シャムール公爵閣下。
前世の、四ノ宮夏月の記憶が馴染んだ今ならば、このお方が、この人がどれだけ僕を……自身の子供を慈しんでくれていたのかが良く解る。
僕が八歳の時に、母上は馬車の事故で身罷られた。僕はその時母上の膝に乗って、馬車の窓から顔を出して、道行く先を眺めていたんだ。
そして突然路地から子供が、僕と同じくらいの子供が飛び出して来たから、僕は咄嗟に大声で『危ない!!』と叫んだんだ。
その声に御者は焦って馬車の操作を誤り、僕はその急制動によって呆気なく窓から投げ出された。
奇跡的に大した怪我も無く。
しかし身体を起こして振り返った僕の目に映ったのは、筋を逸れて猛スピードで角を曲がりその遠心力に振られて建物に突っ込む、母上が乗っていた馬車の姿だった。
馬は馬車から放れて暴走し、街は一時大混乱に陥った。
僕は泣き叫びながら、ぐしゃぐしゃに潰れた馬車の残骸を掻き分けて母上を見付けたけれど――――全身を強く打ち付け、夥しい量の血を流していたあの人は、既に事切れていたんだ。
その時から。
僕は自身への当て付けのように、操作を誤ったあの御者を憎むように、あの時飛び出して来た平民の子供を恨むように……言動を廃れた、荒いものへと変えていった。
思えばあの時から二年間、現在の義母上が嫁いで来るまでの間、父上は。
侍従が居るのはさて置き、男手一つで忙しい政務の合間を縫って、僕と兄上達三人もの子供の面倒を見てきたのだ。
義母上を連れて公爵家に帰って来た時は、どうせ僕の面倒を押し付ける気なんだろうと愚にも着かない捻くれた考えでもって、義母上と後の義妹のことを睨んでいたように思う。
だけど今の僕なら、当時の父上の気持ちも、何故義母上が父上について来たのかも、理解出来た。
父上は確かに限界だったのかもしれなかったが、母上を失い、兄達とは違って思うが儘に荒れる僕に、もう一度母親の愛情を与えたかったのだ。
僕は兄上達と比べても、特別母上に甘えていたから。だから子供のために夜な夜な酒場で踊りを披露していた義母上に、子供への強い愛情と責任感を感じ、娶ったのだろう。
そして義母上も。そんな子供への愛情を確かに感じ取ったからこそ、父上について来る事を決めたんだろう。
「父上。最後に、義母上とエリザベスに挨拶をさせていただけませんか?」
僕は真っ直ぐ、父上の目を見ながらお願いする。
戻って来るつもりはあるものの、旅とは何が起こるか分からないから。
前世の日本のように街のあちこちに交番が在ったり、行き先を示す親切な交通標識が溢れている訳じゃないんだし。そもそも旅だなんて、前世と合わせても生まれて初めてなんだしさ。
「良かろう。ただし見送りは禁じる故、応接間で待て。それと……」
その言葉にホッとする僕から視線を外し、執務机の引き出しを漁る。
取り出したのは、皮の袋だった。
「僅かだが、金貨が二十枚入っている。旅道具を買うなり路銀に充てるなり、好きにせよ。私も見送る事はしない故、此処で最後に言葉を伝える」
「謹んで拝聴致します」
「うむ。サイラスよ…………達者でな」
僕は深く頭を下げ、どこまでも情けの深い父上の執務室を後にした。
◇
応接間のソファに座る僕の耳に、ノックの音と、勢い良く開かれる扉の音が届いた。
「サイ兄様ッ!!」
返事も待たず顔を上げた僕の胸に飛び込んで来たのは、六歳離れた義理の妹――エリザベス・ヴァン・シャムールだった。
慌てて抱き止めつつ扉に目をやれば、困った顔をして入室してくる義母上の姿もある。
エリザベスはカサンドラ義母上の別れた元夫との子で、公爵家の血は一滴も入ってはいないため、家の相続権は持っていない。
白いその肌は義母上の小麦色の艶やかな肌色とは違うが、他は美しい義母上とそっくりな、将来に非常に期待が持てる十二歳の自慢の義妹だ。
「サイ兄様、このお家を出るというのは本当なのですか!?」
母親譲りの漆黒の長い髪を揺らし、こちらも黒くクリンとした瞳に涙を湛えて、僕の胸の中から悲しげに見上げてくるエリザベス。
「エリザベス、サイラスお義兄様を困らせてはいけません。これはお義父上様のご決定なのですから」
「でもっ、母様……ッ!!」
振り返って、同行した母親であるカサンドラ義母上に抗議しようとするエリザベス……エリィを、僕は抱き締めて止める。
「エリィ、座って」
そう言って、遂には瞳から涙を溢れさせてしまったエリィを、僕はソファに座らせて、指でそっと涙を拭ってやる。
「本当に、ごめん」
そうしてエリィと向き合ってから、心からの〝謝罪の言葉〟を口にする。
《心よりの誠意ある謝罪を確認しました。ユニークスキル【土下座】をアクティベートします》
あの日父上に謝罪をした時と同じように、頭の中に無機質なアナウンスが響き渡る。それと同時に、僕の身体はまるで操り人形のようにスルスルと動き、その所作をなぞっていく。
対面にエリィを見据えて姿勢を正し、両膝を揃えて着いて床に座る。両手は淀みなく動き、床に突いて僕の伏していく上体を支える。
僕の身体は父上の時とは違ってしっかりとエリィの顔を見詰めてから、ゆっくりと頭を下げて、額を床に擦り付けた。
「さ、サイ兄様!?」
「サイラス!?」
母娘の驚いた声が重なって、僕の耳朶を叩く。
「エリィ。僕は最低の兄だ。君と楽しく暮らしていた裏で僕は我儘放題をして、カサンドラ義母上や公爵領の領民達……そして何より父上に、酷く迷惑を掛けてきたんだ。僕は自分の悪行を精算するために、旅に出ないといけない」
「サイ兄様、そんな……!」
《ユニークスキル【土下座】の効果波及を確認。対象:エリザベス・シャムールの動揺が50%、悲愴度が26%上昇しました。危険は感知されませんでした》
凄いなコレ。他人の動揺とか、心の動きまで判るのか。
「僕はエリィが大好きだよ。最愛の母上を亡くして独りぼっちだった僕にはね、当時エリィがカサンドラ義母上を困らせないよう、必死に不安を隠していた姿が、どうしても自分に似て視えたんだ。この大きな公爵家の中で、同じ独りぼっちの仲間が出来たように思えたんだ。だから、せめて不安に思う事が無いように守ってあげなきゃって、そう思ったんだ」
床に額を擦り付けながらの独白。
傍から観たらどんな風なのかななどと、しようもない事を頭の片隅で考えながらも、僕の口は僕の心情を余すこと無く吐露していく。
「エリィが初めて見せてくれた笑顔は、今でも大切な僕の思い出だよ。僕はエリィと一緒に居る時だけは、亡くなった母上の事を忘れる事ができたんだ。だから、そんなエリィとお別れをするのは、本当に辛い。でも――――」
《ユニークスキル【土下座】の効果の追加波及を確認。対象:エリザベス・シャムールの動揺が11%、悲愴度が12%追加上昇しました。危険は感知されませんでした》
……危険が無いなら少し黙っててくれないかな。エリィが益々悲しんでいる報告なんて聞いてたら、謝れないじゃないか。
「本当に、ごめん。僕は公爵家に、父上に掛けた迷惑を精算してこないといけない。それにエリィにも、これから大きくなってから僕のせいで迷惑を掛けるかもしれない。だから、僕は行くよ。僕自身の手で、僕の不名誉を拭ってくるから。それが済んだら、また必ずこの家に戻って来るから……。だから……ごめん」
心から謝ること。
それがこんなにも辛く苦しい事だなんて、僕は十八年も生きてきて、初めて知った。
きっと、エリィを悲しませてしまっているだろう。
僕は所作のせいだけでなく、自分の弱さのせいでも頭を上げられなかった。
「サイ兄様、お顔を上げてください……!」
そんなエリィの言葉に、どうしようもなく身体が強張る。僕は震える声を出すエリィの顔を見るのが怖くて、なかなか顔を上げられないでいた。
しかし――――
「サイ兄様!」
そう、一際大きなエリィの声と共に、僕の両脇に手が差し込まれた。そのまま上体を起こされる。
「サイ兄様ぁ……!」
そこには、目を真っ赤にして涙を流しているエリィの顔があった。【土下座】をしている僕の身体を起こさせて、泣きながら、真正面から僕の顔を見詰めるエリィ。
「エリィは……っ、エリィはぁ……っ!」
「ごめん、エリィ。ダメなお兄ちゃんで、本当にごめん」
僕と同じく公爵家で独りぼっちなエリィ。
その可哀想で愛おしい、血の繋がりは無くても大切な僕の宝物を、抱き締める。
「行ってくるよ。必ず帰って来るから。カッコよくて、エリィが自慢できるようなお兄ちゃんになって、お土産も持って来るよ。だから……行ってきます」
「はい……はい……っ! エリィは、待っています! ずっと、サイ兄様がお帰りになるのを……待って……うぐっ! うああああんッ!!」
遂に声を上げて泣き始めてしまったエリィを、僕は強く抱き締めて。
しばらくそうしていた僕は、カサンドラ義母上にエリィをお願いして、義母上にも改めてお詫びの言葉を伝えてから、そっと応接間を後にした。
これで未練は……未練だらけだけれど、この家とは本当にお別れだ。兄上二人は荒れた僕とは距離を置いていたし、そもそもここには居ないからね。
僕は背負い袋一つという身軽な格好で、公爵家の玄関をくぐる。
空は良く晴れていた。
これから、ここから。僕の、謝罪の旅が始まるんだ。
そう思いながら、いつ帰って来られるか分からない我が家の庭園を目に焼き付けながら、アプローチを門まで歩いて行く。
「サイラス様」
そうして門をくぐろうとした僕の耳に、聞き慣れた、抑揚に欠ける声が掛けられたんだ。