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第32話『愛と陰謀』

(じい)なのか? 爺がこやつらに神なる竜の話をしたのか?」

「すべてはクインゼルのために御座います」


 小鬼(ゴブリン)の老人は悪びれもせずに答えた。


「自分が何をしたのか、解っておるのか?」


 エルルルはハーヴィー半島の末路は見ていない。だが、彼女の不幸なほど明晰な頭脳は事の顛末(てんまつ)を容易に想像することができた。


「土地を愛するハーヴィー半島の者たち、敵とは言え1万の命……、これだけの犠牲を出して、お主は何を望む?」

「わたくしめの願いは常に1つ。クインゼルの永遠の繁栄に御座います」


 老人がエルルルに近づく。魔王配下の五将軍がひとり、古時計(オールドクロック)。クインゼル最高の魔術師にして、エルルルの教育者。


 枯れた手が、エルルルの髪を撫で、頬に触れる。


「爺……」


 泣き虫なエルルルをいつも慰めてくれた、温かい手だ。


「お別れしていたのはほんの短い間でしたが、大きくなられた……」

「パメラにも言われたが、(わらわ)には分からぬ。相変わらず逃げてばかり、敗けてばかりじゃ」


 老人はまたファ、ファ、と笑った。


「何の。勝敗の行方などまだまだ分かりませんぞ。この命がある限り、いや、我らの意志が子々孫々に受け継がれてゆく限り、戦いは終わりではございませぬ。最後の最後に笑ったものが勝者、それは(さかのぼ)って我らの勝利でございます」

「分からぬ。妾には爺の考えがまるで分からぬ。なぜ、教会と交渉に向かったはずの爺がここにおるのじゃ。なぜ妾たちを追い詰めようとする此奴(こやつ)らと結託しておるのじゃ」

「すべては、クインゼルを勝利に導くため」


 老人の痩せた手の周囲に魔法陣が展開された。


「出でよ、愚者の火イグニス・ファトゥゥス


 魔法陣の周辺に5つの青い炎が浮かび上がった。炎は彼らの頭上で1つに融合し、五芒星のような形を成す。それはむしろ、人の形と言った方が適切かも知れない。五芒星は踊るように彼らの周囲を飛び回り、長く伸びる残光が周囲を次第に明るく照らしていった。


「なるほど、これが古代魔術というものですか。勉強になります、老師」


 ZZの言葉に、エルルルははっと古時計(オールドクロック)を見る。


「爺! お主! この人形に魔術を教えたな!?」


 老人は答えない。ただ、ファ、ファ、という笑いがエルルルの疑惑を肯定していた。


「些末なことに心を奪われてはなりませぬ。貴女様はもっと大きな、爺の小狡(こずる)(はかりごと)などひと飲みにしてしまう程の存在となり得るのです。そう、この大地を支配する神なる竜ナイトシェイドのように――!」


 踊り狂う炎の精霊によって照らし出されたのは、広大な室内に横たわる巨大な竜の一部だった。


 ナイトシェイドは花竜の2つ名に違わず、(ドラゴン)というよりは植物のような姿をしていた。細く、枝分かれした胴体から羽状の裂け目が入った鋸葉が無数に生えている。エルルルたちに向けられた先端にはいくつもの(つぼみ)が稲穂のようにまとまっている。


 彼女たちの前にあるのはこの巨竜のほんの一部に過ぎない。幡随院の言葉が正しければ、花竜の身体は大陸全土の地下に張り巡らされているはずだ。


 植物のようなその全身は、だが鮮血のように紅い。植物のような身体に、動物のような血が流れているのだ。

 それは確かに息づいていた。確かに鼓動していた。地中にもぐりこんでいる身体のどこかに肺や心臓にあたる器官があるのかはわからない。だが、牙も爪も翼も持たないそれは、確かに(ドラゴン)であると確信させる何かがあった。


「これが……」


 それきり、エルルルが言葉を失ったのは花竜の巨大で想像を超える異形に心を奪われたせいもあったが、それ以上に、この竜の鼓動と己の鼓動が共振しているような感じを覚えたからだった。


 胸が苦しい。

 息が乱れ、荒くなる。

 心身が激しくかき乱される。


 なのにどうしてだろう?

 心の奥底にある感情の(コア)に、じわりと染み込むような温もりを感じるのは?


 気が付けば、エルルルの両目から熱い雫がいくつも流れ落ちていた。


「お母、さま……?」


 そんなはずはない。自分の母は、先代の魔王だ。だが、口に出さずにはエルルルの記憶に根付いている優しい子守唄の歌い手が彼女の母だ。目の前の存在は、唄を紡ぐ口を持っていない。

 だが、口に出さずにはいられなかった。


「やはり、感じますかな?」


 老人の声に恍惚とも言える悦びがこもっている。


「貴女様をお産みになったのは紛れもなく先代の魔王、ファオララ様でございます。しかしエルルル様、貴女に父親は居りません」

「父親、だと?」


 エルルルの頭に、ずきりと痛みが走った。


(父親、そう、父親だ。なぜ妾は父の不在を疑問に思わなかった? 否、そもそも父親という言葉すら、妾は忘れていたような……)

「貴女様は(ドラゴン)の血を引く者と言われております。それこそが魔王の証であると皆も信じております。しかし、そもそも雌雄がなく単独で子をなす(ドラゴン)の血が混じるということがあり得ないと、疑問に思ったことはございませんか?」


 全身の汗腺が開き、滝のような汗が一瞬にしてエルルルの身体を濡らす。


「疑問に思ったことは無かったでしょうな。このわたくしめが、貴女の思考に制限をかけておりましたのでな。おかげで魔術がほとんど使えなくなるという思わぬ弊害もありましたが」

「何……を……言って……」


 頭が痛い。思考がうまく定まらない。


「爺は、永い時を生きて参りました。人間共に家族を殺され、住み慣れた故郷を追われ、虫けらのように地を這い回って生きて参りました。目の前で妻や子を殺されたことも1度や2度ではございません。わたくしめ自身、とても他者には言えぬ屈辱を受けたこともございます」


 グウェンが、老人から隠れるように幡随院の背中にしがみついた。


「この世界に、救いの光などひと欠片もございませんでした。時に邪神に祈りを捧げたこともありましたが、邪神すらわたくしめに手を差し伸べてくれたことはなかった。だから、わたくしめは思ったのです。この手で、救いの神を創ろうと。我が生涯を賭けて、薄情な神に成り代わり、弱き者たちに手を差し伸べる救い主――魔王を創ろうと!」


 老人の目に狂気の光が宿った。


「わたくしめが目をつけたのは、この眠れる竜、心無き竜ナイトシェイドでした。この竜に魔王の心を宿すことができればと考えたわたくしめは、上質な魔力を内包した頑健な身体を持つある女の(はら)にこの竜の欠片を(たね)として宿したのです。そうして生まれた子にまた同じ胤を、その子にも、またその子にも……」


 老人の言葉の意味を、エルルルが理解していたとは言い難い。だが、少女の本能がそのおぞましさを感じ取り、言いようのない嫌悪感をもたらしていた。


「お解かりですな? このナイトシェイドこそ、貴女様の真の母なのです。いや、貴女様のお身体はこのナイトシェイドのほぼ分身であると言って良いでしょう。代々クインゼルを守ってきた魔王の心を持った神なる竜。エルルル様、真の魔王様、この醜い爺のことは憎んでくださって構いません。思い出すのもお嫌なら忘れていただいて構いません。ですがどうか、クインゼルの弱き民たちへの愛は、どうか忘れないでいただきたい」

「わからぬ!」


 エルルルは絶叫した。


「爺の言っていることは初めから最後までまるで()せぬ! 妾は魔王じゃ! 生まれついての魔王じゃ! だが、それは、こんな得体の知れぬものではない! みんなで一緒に、爺も一緒に、民を守る、そんな、そんな……」

「いずれ、解ります。貴女様ならきっと……」


 老人の手が、再び虚空に魔法陣を描き出す。


「出でよ、恋愛の矢(サギタ・アマータ)

「爺!? 何を――」


 淡い桃色に輝く光の矢が、エルルルの胸を背後から貫いていた。



  ◇ ◇ ◇



 せりなは栗色の髪を軽く手で押さえた。風が強い。今夜は荒れそうな予感がする。


「すまない」


 デュランの、引き絞られた筋肉を纏った細くも逞しい手が、せりなの肩をさりげなく抱き寄せた。かつての王都を一望できる、物見塔の屋上に2人はいた。


「ごめんなさい。イルドゥンが寂しがるから、用があるなら手短に――」

「元の世界に帰りたいか?」


 少女の言葉を遮るように、デュランは問うた。


「当然です」


 彼の口調につられるように、せりなも簡潔に答えた。


「あの子竜はどうする? 置いていくのか?」

「……」


 それを言われると弱い。


「あの子はいずれ(ドラゴン)として人の手を離れなければなりません。それが少しだけ早まるだけです」


 我ながら弱い言い訳だと思った。今のイルドゥンは誰が見ても甘えたい盛りだ。今せりなが彼の前から姿を消したら、イルドゥンは自分が捨てられたと認識してしまうのではないか。


「俺は母親を知らない。俺を生む前に死んだ」


 デュランはどこか遠くを見つめながら言った。


「俺を育ててくれたのは蟲竜(こりゅう)だ。だがそれは(いにしえ)より交わされた我ら風の民との契約によるものだ」


 それでも母であることには変わりないが、と付け加えつつも、デュランの目には手が届かないとわかっていて憧れずにはいられない少年の眼差しがあった。

 その眼差しが、せりなに向けられる。


「母親というのは、お前のような者ではないかと思っている」


 一歩、デュランは進み出た。せりなは一歩退がる。だが、どうやら巧みに立ち位置を誘導されていたらしい。せりなの背後にあるのは彼女の胸くらいの高さの石の壁があり、その向こうは遥かな俯瞰(ふかん)の遠景が広がるのみである。


「この世界で俺の子を産まないか?」


 言葉はぶっきらぼうで、自分を見下ろす目は鋭く荒々しい。だが、その声にも眼差しにも、ほんのわずかにだが、どこかすがりついてくるような雰囲気が漂っていた。


「ごめんなさい」


 ()の心が真摯なものであることは伝わっていた。だからせりなも、彼の目をしっかりと見つめて答えた。


「私はやっぱり、元の世界に戻らなきゃいけないから」

「そうか」


 デュランは静かに受け入れた。そっと道を開ける。せりなは胸をきゅっと締め付けられるような思いを抱きながら、彼の前を通り過ぎようとした。


「だったら俺は――」


 清水のように透明な声だった。


「力ずくでも、お前を――」


 振り返るせりなの前に、デュランの大きな(てのひら)があった。初めからせりなの答えを覚悟していたのだろう。掌にはすでに魔法陣が刻まれていた。


眠れ(スリープ)


 崩れ落ちるせりなの身体を、デュランは壊れものを扱うようにそっと、優しく受け止めた。

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