第31話『裏切りの序曲』
船首に小さな影があった。影は、じっと水平線の彼方を見つめていた。
「お母さんが恋しいか?」
影がちらりと俺を振り向いた。すぐにぷいっと顔をそらし、また水平線を見つめる。彼の目線の先には大陸があり、おそらくはエルルルが捕らえられている場所があるのだろう。
獣竜の子フェルカドもまた、他の者たちと同じように自らの戦いに備えているように見えた。日中のほとんどは海に潜って魚を食べている。おかげでこの数日で体重がメキメキと増え、顔つきも少し精悍になっている気がする。
俺はフェルカドの隣に座った。首筋を撫でてやろうとするとふいっと逃げるが、その場から立ち去りはしなかった。
この世界のドラゴンに性別は無いというが、この子はどうも男の子だという気がする。目の前で母親代わりの女性を連れ去られた子竜は、為す術もなかった自分が悔しくてたまらないらしく、まるで自分に罰を与えるみたいに海中で身体を鍛え、吐きそうになるほどの量の餌を喰らっている。
思えば、この子も数奇な運命を歩んでいた。子育てのために暴走した親竜、”見守る者”スケアクロウを斃したのはウルスラだ。その後、双子の兄弟イルドゥンと共に一時はせりなにお世話をされ、その後は彼女たちから離れてエルルルを母代わりとした。
そして今、産みの母の仇であるはずのウルスラと共に、育ての母であるエルルルを取り戻そうとしている。
もしかしたら、せりなに育てられているであろう兄弟竜イルドゥンとも戦うことになるかもしれない。
「もうすぐ、戦いの準備が整う」
言葉を理解しているのか、子竜の尻尾がぴくんと跳ねた。
みんながこれまで積み上げて来たもの、俺たち招喚者との関りで新たに得たもの、そして大切な人を奪われたことで得ようとするもの。
そのすべてが、いくつかの形になろうとしている。
「完成を待つつもりはない」
完成とは終着だ。終着を自覚してしまったら、停滞が生まれる。それでは勝てない。絶望と狂気の淵を全速力で走り続けているあいつらに追いつくことすらできない。
「お前も来るか?」
初めて子竜が俺を見た。丸く磨き上げられた珠のような目をまっすぐ俺に向ける。
俺が握り拳を差し出すと、フェルカドも前足を上げてごつんとぶつけてきた。
やっぱり、こいつは男の子な気がする。
◇ ◇ ◇
「あら、拗ねてるんですか?」
せりなが真っ白な背中に声をかける。イルドゥンはベッドの上でぷいっと壁の方を向いたまま動かない。
「今日はそんなに遅くないですよ?」
魔術の研究にかまけていて一緒に過ごす時間をついおろそかにしてしまった時など、イルドゥンが拗ねてしまうことはしばしばある。だが、これほど明確な拒絶の意を示されたのは初めてだった。
「もう、どうして怒ってるんですか?」
心当たりを考えて、せりなはある可能性に思い至った。
「もしかして……」
あれから、せりなはこの世界の魔術を独学するのを止め、奴隷として連れて来た魔術師たちと共に1日の大半を帰還の術の研究に費やしていた。必然的に、彼女と最も多く関わっているのは代表者である風の民デュランである。
「妬いているんですか?」
ぴくんと尻尾の先が震えた。その様子につい吹き出してしまう。
からかうように首筋をくすぐると、イルドゥンの尻尾がぺしっとその手を払った。
「……」
せりなはしばらく固まっていたが、不意に服を脱ぎ捨てて下着とキャミソールという姿になるとイルドゥンを後ろから抱きしめた。
「不安になっちゃったんですね、ごめんね」
服を脱いだのは、服に染み付いたデュランの匂いをイルドゥンが嫌っていることに気付いたからだ。
「大丈夫。彼とはそんなんじゃないですよ」
イルドゥンを慰めながら、せりなは可笑しそうに自嘲った。自分は子竜を相手に何を言っているのだろう。こういうセリフは、学校で同級生とかを相手に言ってみたかった。
「イルドゥンだけ。私に正直な気持ちを向けてくれるのは」
根気よく頬ずりを続けると、ようやく機嫌を直したのか、ざらついた舌先がぺろっとせりなの頬を舐めてくれた。
一度心を許すと、イルドゥンは際限なくせりなに甘え始めた。首筋に顔をはめ込むようにして、全身をこれでもかと密着させてくる。長い尻尾が脚にぐるぐると絡みつく。
(疑り深くて、嫉妬深い。何だか男の子って感じがする)
今日はこのまま眠ってしまおうかと思ったその時だった。ドアがノックされた。静かながらも力強い芯を感じる音に、せりなは相手が誰かを瞬時に察した。
「タイミング悪いなぁ」
ドアを開けると、案の定デュランが立っていた。
「話がある」
挨拶も前置きも何もない。風の民はみんなこうなのだろうか。だが不思議と嫌悪感は無かった。
「明日ではだめですか?」
「今でなければならない。2人きりで」
デュランの目が、部屋の奥で唸り声をかみ殺しているイルドゥンに向けられていることに気付いて、またせりなは可笑しくなった。
(モテ期かな?)
片や長く尖った耳と自分より大きな乳房を持つ異種族。片や真っ白な体毛をしたドラゴンの子。
(生徒会長と野球部主将とかが良かったな……)
「どうした?」
「いえ、別に」
せりなは額をイルドゥンの額にくっつけ、デュランに聞こえないようそっと囁いた。
「必ず帰って来ますから。少しだけ我慢して下さい」
イルドゥンの鼻先に軽くキスをすると、せりなは脱いだばかりの上着を羽織ってデュランの元へ歩いて行った。
◇ ◇ ◇
大陸の南に鬱蒼と茂る密林地帯があった。その中心に、空から光の翼を生やした黒い巨人が降り立った。
変形して開いた胸部から転がり出たのは、赤茶けた染みのついた白い学生服の少女だった。
「暑っつ」
毒づきながらも頑なに詰襟のボタンを上まで留めているのは彼女なりのポリシーだろうか。
「ご気分はいかがですか? エルルル様」
次に降りてきたのは、赤い角を生やした少女をお姫様抱っこした銀色の機械人形。抱かれた少女の方はぶすりと「最悪じゃ」とつぶやいたきりそっぽを向いていた。
「キャナリーは1人乗りなのに……」
最後に降りてきたのは、蜂蜜のような濃い金髪をした華奢な少女だった。
少女たちの目の前には、密林に半ば埋め込まれるように隠されていた遺跡だった。泥や粘土で作られていたであろう床や壁はほとんどつる草や苔に侵蝕されているが、それがかえって遺跡の形状が風化せずにいられた要因のようだった。
「ここは?」
尋ねたのはエルルルだった。
「さぁ? 名前は知らね。強いて言えば、『ナイトシェイドの枕』かね」
「ナイトシェイド……神なる竜が1柱……」
眠れる花竜ナイトシェイド。幡随院の言葉を借りるなら、この大地の中を巡る『脈』の管理者。
これまでの神なる竜たち――空を支配し天体の影響を監視するという蟲竜ミステリシア、海を支配しあまねく生命を管理するという竜王オメガ――はある意味でこの地に生きる者たちからは遠い存在だった。
だが、ナイトシェイドは他の2柱とは少々趣が異なる。
ナイトシェイドが支配するのは大地。この世界の者たちはこの眠れる花竜の腹の上で日々の生活を営んでいると言っていい。
花竜はより人々の日常に密着した地母神なのだ。それは、ナイトシェイドが風の民やハーヴィー半島の住民のような特別な信奉者を持たないことにも表れている。
この世界の人々は、無意識下で等しくこの花竜を信奉しているのだ。
(花竜に何をするつもりだ?)
エルルルの瞳に炎をが煌めく。
「前にも言ったが、ナイトシェイドが司るのは、この星の『脈』だ。水脈、地脈、溶岩の流れエトセトラ。あたしはそれらの総合を自分の世界における大地のエネルギーの概念にちなんで『竜脈』と名付けているがね」
「竜脈……」
「皮肉なもんだ。こっちの世界の方がこの名前がしっくりくるなんてな。知ってるかい? この大地に内在する魔力もナイトシェイドの恵みなんだそうだ。例えば魔法石。あれは花竜が分泌する老廃物の結晶だとか」
話をしながら、一同はひと際厳重につる草が絡みついた石の壁の前に立った。
「ZZ」
「イエス、マスター」
ZZの指先が虚空を撫で回すように動く。流れ出る極細の銀糸が刺繍のように精密で美しい魔法陣を描き出す。
「『FREEZE』、実行」
密林一帯を支配していたまとわりつくような熱っぽい湿気が、一瞬にして肌を突き刺すような冷気に変わった。石壁に絡みついていた深緑のつる草に真っ白な霜が降りている。
「ふふっ」
幡随院が脚の先で軽く小突くと、石壁を包み込んでいたつる草は劣化したガラス細工のように儚く崩れ去った。冷気の侵蝕は石壁にも及んでいた。パキパキと軽く乾いた音を立てながら、白いヒビが石壁を走り回り、やがて全体を白く縁取られた鱗模様に覆われた石壁は脆い砂と化して崩れ落ちた。
「さ、参りましょうか、魔王様」
「臣下でもない者が、そのように妾を呼ぶな」
「失敬失敬。んじゃ、行こうか魔王ちゃん」
エルルルの中で、嫌な予感が染みのように広がっていた。
なぜ、異邦人である彼女たちが現地人も知らないこの世界の理を知っているのだろうか?
神なる三竜にしてもそうだ。彼女たちの得ている情報は常に正確で、古文書を紐解いただけの知識ではなく、現在進行形で探求されている『生きた知性』を手にしているかのようだ。
(誰が此奴らに情報を与えた?)
その答えは、すでにエルルルの中で1つの形を持っている。だが、彼女は無意識にその真実から目をそらしていた。
一行は遺跡の奥へと進んでいく。道中、様々な罠が彼女たちを待ち受けていたが、そのほとんどを幡随院とZZは圧倒的な暴力にものを言わせて強引に突破していた。その様は、探検や攻略ではなく、冒涜と蹂躙だった。
(先人の聖域を、智慧を、想いを、何だと思っている!)
エルルルの瞳に怒りの火が灯った。
招喚者である彼女たちに、この世界の先人たちの遺したパズルに付き合う義理も道理もないのは解っている。
ウェイン王国とラザラス教会の暴走とはいえ、彼女たちの使命や想いを先に踏みにじったのはこちら側であることも理解している。
だが、それを差し引いても、これではあまりにも無体だった。
密かに憤るエルルルと共に、彼女たちは遺跡の最深部へとたどり着いた。厳重に封印された石の扉を、また熱と冷気で無理やり劣化させ突き崩す。
扉の先は、だだっ広い空間だった。あまりにも広く、光源が限られているため壁や天井が闇に覆われて見えないほどだ。
闇の中に、6本の松明に囲まれた床の一部がぽっかりと浮かんでいる。少女たちはZZの指先が灯すほのかな灯りを頼りにそこへ向かった。
松明の中心に、小さな影があった。近づくにつれて、影は小人が跪いているのだとわかった。
「無事であったか」
影に向かって、先に声をかけたのはエルルルだった。
影がゆっくりと顔を上げる。
本来は緑色の肌が、橙色の松明の炎に照らされて暗い灰色に見えた。
「貴女様も、お元気そうで何よりです、魔王様」
大きな鷲鼻をした小鬼の老人が、ファ、ファ、と笑った。




