第29話『魔王代理、月代刀夜!』
エルルル・ディアブララは泣いていた。彼女はいつだって泣いていた。彼女がいる場所はいつもひんやりと冷たかったから。
そんな彼女の心を慰めてくれるのは、どこからともなく聞こえて来る優しい子守唄だった。
(お母さま……?)
少女は母の顔を知らない。母のぬくもりも知らない。少女の知る母の姿はその名が刻まれた素っ気ない墓石だった。
それでも、エルルルは母が大好きで、母を尊敬していた。
古時計、パメラ、ドクター・フロスト、エスカトロジーといった側近たちは皆、母の代から仕えていた者たちだ。彼らの母に対する忠誠心がそのままエルルルへの愛情となっていることを、少女は理解していた。
(会いたい……お母さま……)
その叶わぬ想いがエルルルの原動力だった。偉大な魔王と教えられた母の足跡を追って行けば、いつか会える時が来るのではないか? そんなはずはないと頭の中では理解していつつも、少女の脳裏には常にそんな根拠のない予感のような願望があった。
子守唄が聞こえて来る。
少女の心を優しく包んでくれる子守唄が。
「お母さま?」
目を覚ますと、そこは石造りの牢獄だった。
「おはようございます、魔王様」
「お主は……ZZ?」
鈍色の髪をした美女が、こちらを凝っと見つめていた。なぜかエルルルの左手を両手で包むように握っている。
「何をするか!」
手を振りほどくと、ZZはなぜか残念そうにうつむいた。
「ここはどこじゃ?」
「グラスナック城の地下牢です。魔王様たるお方をこのような場所にお招きしたことについては申し訳なく思います。できるだけ快適な空間にするよう努力いたしますので、ご不満があれば何なりと」
「ここから出せ」
ZZは利口な子供を褒めるような目で「ふふっ」と微笑んだだけだった。
「妾をどうするつもりじゃ」
「さぁ?」
ZZは小首をかしげた。とぼけているのではなく、目線を斜め上に向け、眉を微妙に傾けて本当にわからないという雰囲気を出している。
「我々も詳しくは知らされていないのです。魔王様が花竜ナイトシェイドの覚醒の鍵となる、ということしか」
「何?」
エルルルの背中に悪寒が走った。
「今、『我々』と言ったな。では汝のマスターも知らぬということか? ならば、誰が妾と花竜の関係をお主らに話した!?」
ZZは唇に指先を当てて「しゃべりすぎました」とでも言いたげだった。
(どういうことだ?)
エルルルは思案する。そもそも、なぜ花竜ナイトシェイドを呼び覚ますために自分が必要なのかもわからない。
「それでは私は失礼いたします。御用がありましたら大きな声で『ZZお姉ちゃん助けてー』と叫んでいただければ飛んで参ります」
「誰が言うか!」
ZZは最後にエルルルの額にそっと触れてから、鉄格子を開けようとする。
「待て!」
「はい?」
身体ごと向き直るZZ。その温かみのある眼差しに、エルルルは混乱する。
(此奴、本当にからくり人形か?)
混乱と言えば、思わず彼女を呼び止めてしまった自分にも困惑する。人質として監禁されるならまだわかるが、ここへきて自分の出自を揺るがされるようなことを言われ、言いようのない不安に駆られたのだが、なぜそこでよりによって敵にすがろうとしてしまったのか。
沈黙が流れる。ZZはじっと答えを待っている。エルルルは急に気恥ずかしくなり、掛け布団に顔の下半分を埋めた。
今更ながら、ベッドはふかふかで清潔な布地からはほのかな花の香りがした。
「妾は足が冷えやすい。湯たんぽを所望する」
「かしこまりました」
一礼し、鉄格子の向こうに消えていくZZを少女はずっと見つめていた。言い知れない不安が体を駆け巡っていた。
(――思えば、妾はクインゼルの未来のことばかりを考えて、自分の出自について考えたことがなかったな)
エルルルが知っている自分のことと言えば、母が偉大な魔王であったこと、自分にはドラゴンの血が流れていること、魔術が大の苦手であること、それくらいだった。
母も、自分と同じドラゴンの血を宿していたのだろうか? それが自分と花竜ナイトシェイドを結んでいるのだろうか?
(妾は、何者なのだ?)
体の中に浮かんだ不安がみるみる広がり、いつしか内外が逆転し、広大な暗闇の中に1人ぽつんと浮かんでいるような心地だった。
胸がつぶれるように痛い。
いっそ、ZZお姉ちゃんと叫んでしまいそうなほどに。
「湯たんぽをお持ちしました」
「なッ!?」
身体が跳び上がるほど驚いた。いつの間にか、ZZが傍に立ってエルルルの足もとに布に来るんだ湯たんぽを置いていた。
(そうか、人形は気配が無いのか)
「他に御用はございませんか?」
「お主、ヒマなのか?」
「現在遂行中の任務が無いという意味では、ヒマです」
「妾もヒマじゃ。妾が寝付くまで何か物語でもせよ」
「物語、ですか?」
少し困ったように首をかしげる。
「何かキーワードをお教えいただければ、ご希望に沿ったものを検索いたします」
「お主の世界の歴史を教えよ。魔術のなき者たちがどのように歩み、最終的にお主がなぜ、どのように生まれたかを教えよ」
「かしこまりました」
◇ ◇ ◇
「刀夜さん、刀夜さん……」
遠慮がちに揺すぶられて、俺は目を覚ました。
「ウルスラ……」
「ごめんなさい、その、骨に響いていたら本当に」
「いや、大丈夫だ」
実際、ベイニャの応急治療のおかげでだいぶ楽になっている。体を起こすとまだ若干の痛みが走るが、呼吸が止まるほどのものではない。
「どのくらい眠っていたんだ?」
「さぁ? 僕もさっきまで寝てたから」
とはいえ、小さな船窓から見える赤い空の色からして数時間眠っていたのは間違いない。
「そろそろ、みんなのところに戻ろうか」
立ち上がろうとする俺の手を、ウルスラがそっと引き留めた。
「刀夜さん……」
その瞳は心なしか潤んでいる。頬が赤いのは夕焼けに照らされただけではないようだ。そのただならぬ雰囲気に、俺は鼓動が高まっているのを感じてしまった。
「刀夜さん、こんなことを言うのは、とても恥ずかしいんだけど……」
「あ、ああ」
「僕……、僕ね……」
ごくり、と喉を鳴らして唾をのむ。
「トイレ行きたい」
はい、そんなところだろうと思った。
「早いところ、ドクターに魔法石を交換してもらおうな」
ウルスラに肩を貸して、俺は立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「あの、さっきはすみませんでした。僕一人で突っ走ってしまって」
超巨大船ハーレイクインの食堂で、ウルスラは一同の前で深々と頭を下げた。
「別に謝ることじゃないよ~。私たちもいつまでも落ち込んでいられないのは確かだしねぇ」
パメラが肉球でウルスラの頭を撫で、頬をぺろっと舐める。
「早速ですが、魔法石の交換ついでに出力を強化します。よろしいですね?」
早くも事務的な話をし始めるドクター。これも彼なりの気遣いなのかも知れなかった。
集まっている他のみんなも、多少無理している感じはあるもののだいぶ絶望の沼から這い出せているように見える。
「さて、刀夜殿」
ウルスラから解放された俺に、パメラが話しかけてきた。
「さっきはありがとうね。見ての通り私たちはもう大丈夫」
「吾輩たちは先ほど、団結して魔王様を救出すべしとの方針を決定した」
そう語るドーザーの丸っこい身体は臭いのきつい油にまみれていた。どうやら日没寸前までゴーレムの点検修理に没頭していたらしい。義妹アイスクリームがせっせと油を拭いている。
「だが、見ての通り俺たちは種族はバラバラ、出身地も信奉する神も価値観も何もかもが違う」
確かに、見るから割れた腹筋と盛り上がった股間以外はエルフそのものの外見をしたベイニャが、テーブルの上にどっかり座って肉を手づかみで食べている光景はかなりの違和感がある。
「今のわたくしたちには、魔王様に代わるまとめ役が必要です。それを是非刀夜様にお願いしたいのですが」
水を張った大きな桶から、水妖の女王が身を乗り出した。
「それなら、女王様がなるべきでは?」
「半島に引きこもっていたわたくしには戦の経験がありません。それに、治める土地を失った今、わたくしはもう女王ではありませんわ」
彼女はヘーラーと名乗った。
「どうして俺なんですか?」
「そりゃ兄ちゃん、あんたがこの世界の人間じゃねぇからだよ」
「かと言って、ウルスラ嬢ちゃんは、なぁ?」
すでに酒が入っているのか、ロルフとエドワードが笑いどころでもないのにワハハと笑う。
「先生の言ったように、俺たちはみんなバラバラだ。しかも歴史的な恨みつらみまでありやがる。俺たちの誰が頭になっても、遅かれ早かれまらバラバラよ」
改めてエルルルという少女の存在の貴重さを感じる。竜の混血児という数の極めて希少な種族に武力と指揮権を与え、代わりに大きな責務を負わせる魔王というシステムは、クインゼルが長い歴史の中で編み出した少数部族たちがまとまるための知恵だったのだろう。
「俺みたいな、何の力もない人間に、魔王代理をやれと?」
みんなの命を背負って、強大な敵と戦えと?
不意に、ガチガチと奥歯がなり始めた。膝が笑う。無意識に強く握られていた拳は、指の間から冷たい汗が滴り落ちていた。
「みんな、誤解してるよ。俺は、招喚者の中では異質なんだ。俺は今まで何も背負わず、ただ善良であればそれでいいって人生を生きてきた。そんな俺が、みんなを率いて、ラスボスより強い招喚者らと戦うなんて――」
「刀夜さん!」
俺の言葉を遮ったのは、ウルスラだった。
「誤解しているのは刀夜さんの方だ。エルルルは強い子だったか? 確かに賢い子だけど決して強くなかった! 弱かった! 心も体も、放っておけないくらい弱くて、そばにいてあげないと消えてしまいそうなくらい儚い子だ! でもあの子は誰よりも魔王だ!」
「それは、エルルルが天才で、生まれた時からそう育てられてきたから――」
「あぁ、解ってない! 僕が言いたいのはそういうことじゃない!」
ウルスラが、ドクターの静止を振り切って俺に向かって歩いてきた。まだ魔法石が交換されていない両脚は床に突き刺さり、うまくバランスが取れずにいる。
「エルルルが民の命を背負う時はどんな時だった? それは負ける時だ。自分が死ぬ時だ。みんなを逃がす時だけなんだ! この船を造ったのはドクターで、ヘーラーさんと交渉したのはパメラ姉さまで、バーバレラと戦ったのは僕だ。刀夜さん、全部背負う必要はないんだ。僕らが求めているのは……」
ウルスラの足がもつれた。大きくたたらを踏んで、倒れ込む。彼女が倒れ込んだ先に、俺の身体があった。
「僕らが求めているのは、刀夜さんがすでに持っている光なんだ」
ウルスラの手が俺の胸に触れた。
「刀夜さんの光はあたたかい。いつも周りの人を気遣って、自分も傷ついているのに、相手の傷のことばかり考えて……」
ウルスラの涙が、熱い。
「刀夜さんに、そばにいてほしい。あなたの持つ光があれば、僕たちは進む方向を間違えない。だから、お願い――!」
そうして俺の胸に顔を埋め、ウルスラは俺だけに聞こえる小さな声で言った。
「もし失敗しても、死ぬ時は僕も一緒だから」
「……わかったよ」
別にウルスラの最後の言葉に後押しされたわけではない。
俺の心情を一言で表わすなら、まさしく『ヤケクソ』である。
それに、嬉しかった。
甘い両親に育てられ、人生におけるあらゆる競争に敗れ、最後は全てを否定された俺を受け入れ、肯定してくれる彼らに出会えたことが。
俺は、自分を信じてはいない。
でも、俺を見出してくれたエルルルと、俺の心を光だと言ってくれるウルスラと、俺をまっすぐに見つめてくれるみんなを信じたいと思った。




