第26話『グウェンドリン・ローリィ』
「いやああああああッ! お兄ぃ! お兄ぃぃ! たすけてたすけてたすけてたすけてだずげでェェェッ!」
空へ向かって落下していく鋼ゴーレムの中で、アイスクリームは絶叫していた。
自分がどこまで行ってしまうのかわからない恐怖、その一方で自分が明確な死へ向かっているという確信への恐怖、絶望的な孤独の予感への恐怖、心が恐怖に染まり発狂することへの恐怖……
恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖!
「やだあああああああ! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! 許して! 許して! ゆるじでェェェ!」
自分が誰に、何に対して謝っているのか、彼女自身も解っていない。少なくとも、あの心の無い銀色の魔術師が許してくれるとは思っていなかった。
両の腕と頭の傘から伸びる触手で自らをきつく抱きしめる。そうでもしなければ、体の内部から急激に膨張する黒い霧のようなものによって破裂してしまいそうだった。
「あ、あぁぁ……」
海月の少女は確信した。
あの雲にぶつかった時、自分は壊れるだろう、と。
心の中で何かがぷつんと切れる――その寸前だった。
巨大な何かが絶望の雲からアイスクリームと鋼ゴーレムを横からかっさらった。
「あうッ!? え?」
進行方向が真上から真横へ急激に変わったにも関わらず、少女は一切の衝撃を感じなかった。
だが、ゴーレムの胴体は激しい軋みを上げている。
「え? やだ、何なの? ねえ?」
何が起こっているのかわからないまま、アイスクリームは未知という新たな恐怖と戦う羽目に陥っていた。そんな弄ばれる哀れな少女の心などお構いなしに、ゴーレムの前面部の装甲が耳障りな音を立てて引きはがされていく。
「ひっ!? ひぃぃぃぃぃッ!」
最悪が頭をよぎった。ハッチがこじ開けられようとしている。ゴーレムから放り出されたら、もう、自分は――
ついに、分厚い鋼板が引きはがされた。
「嫌ァ!」
ぎゅっと目をつぶる。この身体がどんな衝撃に引き裂かれるのか、少女の思考はそれだけに染まっていた。――だが。
「……ぇ?」
重力が変わった。
暴力的な解放感から、優しく受け止めるような安定感へと。
星を感じる。
反重力の術式が刻まれた外部装甲が剥がされたおかげで、あの銀色の魔術師の呪縛から解き放たれたことを、少女は本能で理解した。
「うぅ……」
ゆっくり目を開けた少女が見たのは、鋼ゴーレムよりもはるかに大きい、黒い巨人の頭部だった。
先端は剣のように尖鋭的だが、全体はなだらかな曲面で構成された花びらを思わせる美しいフォルム。
横に走った細いスリットの向こうから覗き込んでくるモノアイが紫色に淡く光っている。
「あ……」
一瞬前までの極限の恐怖が嘘のように、アイスクリームは漆黒の巨人に魅入られていた。
「カッコいい……」
がくん、とコックピットが動いた。はっと我に返った時、彼女は自分がゴーレムごとこの巨人に抱きかかえられているのだと気がついた。
(助けてくれた?)
見たこともない複雑なからくりで巨人の胸部の一部が開き、中から小柄で華奢な少女が現れた。煮詰めた樹液を思わせる、艶ややかな濃い金髪をしている。
(ゴーレムの妖精さん?)
アイスクリームがそう思うのも無理は無かった。金髪の少女が身に着けている、細い身体にピッタリとフィットしたスーツは巨人と同じ漆黒である。凹凸に乏しい中性的な体つきからは、どこか浮世離れした雰囲気が漂っている。
巨大な花弁を思わせる黒い巨人から現れた、幻想的な雰囲気を纏う黒衣の少女。巨人の意識体と言われても違和感は無かった、
少女が、こちらに向かって手を伸ばす。
「来て」
アイスクリームは半ば無意識に頷くと、導かれるままに手を伸ばした。だが、腰を浮かせた途端に強烈な風圧を感じて尻込みしてしまう。
「……」
すると金髪の少女は、胸部ハッチが変形してできた足場の先端まで歩み出た。
「あ、危ないよ!?」
アイスクリームは思わず声を上げてしまう。だが相手は意に介さず、迎える入れるように両手を広げた。
「跳んで」
「うぅ……」
「大丈夫だから」
恐かった。でも、なぜか逆らえなかった。自らを抱きしめていた触手を解き、少女に向けて目いっぱい伸ばす。
アイスクリームはぎゅっと目を閉じ、なけなしの勇気を絞り出すと、鋼を蹴って虚空へと跳び出した。
◇ ◇ ◇
「何、これ……?」
黒い巨人の内部は、極めて精密に作られている一方、操縦系統は驚くほどにシンプルだった。
巨人を操作するのは少女が手にしている2本の操縦桿のみであり、30以上の魔術版を同時操作する鋼ゴーレムとは大きくかけ離れている。
操縦席は背もたれが後ろに大きく倒れており、搭乗者である金髪の少女は脚をのばした姿勢でゆったりと腰掛けていた。操縦席全体は、その身体にあつらえたようにぴたりと少女を包み込んでいるが、アイスクリームの目にはまるで少女がこの巨人の部品と化しているように見えた。
機能性を追求した先に到達した洗練された美しさと、同時に何か大切なものまで捨て去ってしまったかのような禍々しさ。
その2つの相反する要素が相まって、どこか妖しく冒涜的な魅力が漂っていた。
「来て」
少女が自分の膝の上をぽんぽんと叩く。アイスクリームがおずおずとその上に座ると、巨人の胸部が再び変形して2人は内部に収納された。
「ッ――!」
視界が暗闇に閉ざされたのは一瞬だけだった。すぐに全方位360度の視界が開け、まるで操縦席だけが上空に浮かんでいるかのような錯覚に陥った。
「うわ!」
アイスクリームは悲鳴を上げて金髪の少女にしがみつく。
「大丈夫。グウェンにつかまっていれば」
少女の手が、アイスクリームの頭の傘を撫でた。
「グウェン?」
「名前。グウェンの名前」
少女がふわっと微笑んだ。
「あ、アイスクリーム、です」
「美味しそう」
「食べないでください……」
言いながら、アイスクリームはグウェンの身体にしがみつく手にそっと力を込めた。
その時だった。
ずん、と内臓に響くような振動を感じた。
「始まった……」
グウェンがつぶやくと、視界がぐるりと回転した。巨人が旋回したのだと気付く。その眼下にはもくもくと黒煙を上げる火口があった。その奥から、赤熱した溶岩の獰猛な光が見えた。
凄まじい振動が2人の少女を襲った。
「嫌あッ!」
アイスクリームは悲鳴を上げた。目を灼くような火焔が天高く噴き上がり、少し遅れて轟音が少女たちの身体を蹂躙した。
「ああああああッ!」
爆発。そして爆発。さらなる爆発。爆炎が爆炎を掻き消し、爆音が爆音を塗りつぶす。
「何、あれ……」
アイスクリームの口から恐怖と驚愕が漏れた。
はじめは、火口から溶岩が流れ出ているのだと思った。
「火山が割れてる――!?」
山が裂けていた。その裂け目から鮮血のように溶岩が噴き出しているのだ。裂け目は麓を越え、平地にまで地割れを起こしていた。森が、集落が、川の水が奈落の底へ飲み込まれていく。まるでそれらを養分として急激に成長するように、裂け目は止まるところを知らずに伸びていく。
「やめてェッ!」
故郷が深淵に呑まれていく。
幼い時を過ごした集落が、家族との思い出が残る温泉が、義兄と遊んだ大樹のある森が、跡形もなく消えていく。
それだけではなかった。
裂け目は、ついにハーヴィー半島を横断し、大陸から切り離そうとしていた。大量の海水が裂け目に流れ込み、瞬時に沸騰して水蒸気を噴き上げる。
ほどなく完全に大陸から分離したハーヴィー島は滑り落ちるように海中へ没し始めた。
「やだ! ヤダヤダヤダヤダ嫌ぁああああああああッ!」
狂嵐がアイスクリームの中で吹き荒れた。
消えていく。神聖な地が、心の拠り所が、魂の還る場所が、永遠に消えていく。
「嫌ァ……」
喪失感が、少女の心身を蝕んだ。あの忌まわしい亀裂が自分の心の中にもできたような気分だった。楽しい思い出、幸せな記憶が闇に呑まれていく。
「悪魔……」
ぎゅっと閉じた瞼の裏に、銀色の魔術師の冷たい貌が浮かぶ。
「悪魔!」
かっと見開いた目の前に、金髪の少女がいた。
「あなたも、アイツの仲間なんでしょ!? どうしてこんなことするの!? 私たちが何をしたって言うのぉ!?」
アイスクリームの手と触手がグウェンの細い首に絡みついた。
「許せない! 許さない! 絶対に絶対に許さない! 許さないから!」
「うん。グウェンが憎いよね」
グウェンの返答に、ぞっと怖気が走った。グウェンの目からは、幾筋もの涙が流れ落ちていた。その瞳は、まるであの地割れの奥に見えた暗い深淵をそのまま映しこんだように一切の光を持たない完全なる闇だった。
「ひっ!?」
それは、人の目ではなかった。この世に生きる者がしていい目ではなかった。冥府を彷徨う亡者たちを見つめる死神の目だった。
「アイスクリーム……」
それが自分の名前を呼んだ。それだけで全身が凍り付くような恐怖を覚えた。死神に名指しされた気分だ。
「お願い、そばにいて。声が来るの。落ちる人の声が、焼ける人の声が、沈む人の声が。お願い。グウェンのそばにいて。グウェンが憎いでしょ? 憎いよね。その心を、生きている心をグウェンにぶつけてほしい」
はっと気づく。あの沈みゆく島には、ラザラス教会の人間たちが集まっていた……。噴火と地割れにより逃げ道を封じられた1万人の人間たちが……。
「ごめんなさい。わがまま言ってごめんなさい。でも、もうイヤなの! 死ぬ人の声を聴くのはもうイヤだ!」
死人の目で縋り付いて来るグウェンの手。
「来ないで!」
その手を、アイスクリームは全力で振り払った。
「だったら、こんなことしなきゃいいじゃない!」
そのとたん、ぴたりとグウェンの動きが止まった。糸の切れた操り人形のように、がくんと頭が落ちる。
「ジーク・アルゲアス……」
ぽつりと、言葉が紡がれた。
「我ら、黒き金糸雀、国家に勝利の歌を届けし者也、血まみれの剣を掲げ、血まみれの盾を掲げ、戦場の声を聞き届けし者也。我ら、黒き金糸雀、敵に絶望の歌を運びし者也、呪われし毒薬を持ち、呪われし爆薬を持ち、敵の叫びを聞き届けし者也。聞け、我らの歌声を。蛮族、国賊、あらゆる徒党の名折れ共の断末魔の奏を。聞け、我らの歌声を。殺戮者共とその子と妻の喉を掻き切る刃の奏を。我ら、黒き金糸雀、国家に栄光の歌を届けし者也、ジーク・アルゲアス、ジーク・アルゲアス、ジーク・ハイル・アルゲアス……」
紡がれる言葉、紡がれる呪詛、紡がれる呪縛。
これが、アイスクリームの問いに対する答えだった。
「何なの!? 何なのこの人!?」
同じ知性と会話をしている気が全くしない。先刻、自分を助けてくれた妖精のような少女と、今目の前にいる何かが全く連続性を持っていない。
(狂ってる!)
こんな存在に自分は故郷を奪われたのか。アイスクリームの心の中に、やるせない虚しさが広がっていく。そんな虚無を嗅ぎつけたように、グウェンは微笑んだ。
「グウェンは、殺したの。たくさん、人を殺した。お家に子供が待っている人を殺した。病気のお母さんを養っている人を殺した。お腹に赤ちゃんがいる人を殺した。グウェンは、そのために生まれたから。ごめんね、ごめんなさい。生まれてきて、生きてて、ごめんなさい」
「あぁ……」
アイスクリームの口から絶望的な吐息が漏れた。
小さな少女の身体の中に、グウェンの意思の居場所は無かった。華奢な少女の身体は、何者かの妄念のようなものに支配されていた。
ぽっかりと開いた穴のような目から流れ落ちる涙の筋が、かろうじて残されたグウェンの魂だった。必死に己の身体にしがみつく少女の魂が残すかすかな爪痕だった。
「……わかった」
アイスクリームは、グウェンの首に絡めていた触手を解いた。
「そばにいる。ここで、あなたを憎んであげる」
代わりに、触手でその小さな肩を抱きしめる。
「誤解しないで。招喚者たちのことは絶対に許さない。ただ、壊れた人形に復讐しても意味がないから。あなたが人の心を取り戻して、幸せを感じたその時にものすごい復讐をしてやるんだから!」
「うん……」
彼女は狂っている。彼女は壊れている。これほどの憎悪をぶつけられて、復讐すると宣言されて、こんなにも救われた顔で微笑んでいるのだから。




