第15話『風の民、風の竜』
その地は、『風の国ゴートランド』と呼ばれていた。
その領土は険しい2つの山脈に挟まれており、その点はクインゼル自治領に似ていると言えるかもしれないが、緑深い山々の恵みである湧き水を源とする大河を擁し、実り豊かな大地を内包している点では大きな違いがある。
だが、この国の特異性は他にあった。国の領土がドラゴンの縄張りと重っていることである。
この地の人々はドラゴンを土地の守護神と崇め奉ることにより、ある種の共生関係を築いていた。
もっとも、その関係はウェイン王国の侵略により10年ほど前に破綻を迎えていた。ドラゴンを崇めていた土地の者たちは農奴に堕とされ、以来ドラゴンは姿を見せていない。
現在、このゴートランドを治めているのはウェイン王国からこの地を下賜されたシュレック侯爵だった。彼もまた招喚者たちによる世界蹂躙宣言により王国から無理やり独立させられた上、領土焼き討ちの恐怖に怯える者の1人だった。
「お帰りなさいませ」
「またすぐに出る」
執事の挨拶をぞんざいに振り払い、シュレック侯爵は私室へ向かった。
「父上、会議はいかがでしたか?」
途中、長男フレデリックに出くわした。
「話にならん。どいつもこいつも責任のなすり合いと我が身の保身しか考えておらん」
かくいう侯爵自身も、会議中の発言はウェイン王国への愚痴に終始し、ロビーでは領地が焼かれた時の身の受け入れ先の確保に専心していたのだったが。
一致団結して招喚者と戦うべし。
そう主張したのはラザラス司教国のみであり、他国の領主たちは一様に言葉をはぐらかして言質を取られまいとしていた。
すでに、招喚者たちの武力が自分たちの手に負えないものであることを、会議に出席した者たちは様々な情報源から伝え聞いていた。こと自分たちの損益に対し、彼らの感覚器官は極めて鋭敏で、正確である。
ちなみに、この会議にクインゼルは関わっていない。
「さぞ、頼まれごとされたでしょう」
フレデリックは皮肉な嘲笑を浮かべた。
「うむ。何しろ、ゴートランドは『切り札』を持っている数少ない国だからな」
「これからその『切り札』に会いに?」
侯爵はうなずいた。
屈強な護衛1人を伴って、侯爵は地下へ降りていく。重い足取りで暗闇へ消えていく父の姿を、息子は冷たく見送っていた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……」
地下の廊下をしばらく進むと、規則正しく、力強い息遣いが聞こえてきた。
侯爵は頑丈な鉄格子で出来た扉の並ぶ地下道を往き、最奥の部屋の前で足を止めた。
そこには、床の上で腕立て伏せをする肌の白い青年がいた。
「デュラン殿」
侯爵が声をかけると、青年は鍛錬を続けながら目線だけをじろりと侯爵に向けた。
その目は思わずはっとなるほど美しい。鍛え上げられた身体が汗に濡れ、伸ばし放題の髪が張り付いている様もまた得も言われぬ艶がある。
「俺を『殿』付けで呼ぶのは久しぶりだな、侯爵?」
侯爵は答える代わりに護衛に「鍵を」と命じた。軋みを上げて鉄格子が開く。青年はようやく鍛錬を中断し、立ち上がった。
その身には一片の布きれも着いていない。
細見だが、高密度の筋肉に覆われた彫刻のような身体。その大胸筋の上には、お椀をかぶせたような形の乳房がある。だが一方、下腹部には逞しい男性の象徴がぶら下がっている。
ある種の神々しさすら感じる肉体の上に、芸術品のように端正な顔がある。特筆すべくはその耳だった。デュランの耳は横に長く伸びており、先端が矢じりのようにとがっているのだった。
「用は?」
横柄な口調に怒気を発した護衛が詰め寄ろうとするのを、侯爵は慌てて制した。
「頼みがある」
「我々はお前たちに『猿』と呼ばれ衣服を奪われ鎖に繋がれた。猿に頼みごとをする人間がいるか?」
侯爵は自ら牢に入ると、デュランの足元に跪いた。彼の足首に食い込んでいる枷を外す。
「衣服を用意する。参られよ」
「俺は動かぬ。他の者たちが先だ」
他の牢からも、ひそやかな息遣いが聞こえている。暗闇から耳を澄ませ、こちらをうかがっている気配を感じる。
「もちろんだ」
できるだけ表情を消し、シュレック侯爵はうなずいた。
◇ ◇ ◇
「なぁ、エド」
シュレック侯爵の住む城塞の門前で、頭頂部を光に愛された大男が気の抜けた顔で気の抜けた声をかけてきた。
「何だ?」
「ここ最近、お前ぇの面を見てねぇんだが?」
「今見てるじゃないか」
「いやいや、ずっと着けっぱなしじゃねぇか、その兜」
エドワードの着けている兜は頭部を完全に覆うクローズドヘルムである。細いスリットの奥は暗く、その表情は全く読み取れない。
「鍛錬中だ」
「何だよ、あのユキレイってのに傷でもつけられたのか?」
「別に」
顔に傷はついていない。心は今もなおべこべこに凹んでいるが。
「なぁエド、俺たち、衛兵やってんのが嫌で脱走してきたんだよなぁ?」
「ああ」
「何でここに来てまた衛兵やってんだ?」
「……飯のためだ」
他に伝手が無かったのも事実ではあるが、エドワードにはある思惑があってこの地で職を得た。それは相棒のロルフにも伝えていたはずだったが。
「しょうがないだろ。風の民がこんなことになっているなんて知らなかったんだ」
風の民。ゴートランドの先住民であり、長く尖った耳を持つ種族である。10代後半の若々しい身体で100年の時を生きる長寿の種族であり、空を我がものとする風の竜ミステリシアを信奉する戦闘民族でもある。
「まさか、戦人と名高い風の民が、みんな農家になっていたなんてなぁ」
あっけらかんとつぶやくロルフに、エドは頭を抱えた。学が無いのはお互い様だが、少しは情勢に耳を傾けてほしいと願う。
「農家じゃねぇ、農奴だ。もし風の民に会ってもそれ絶対言うなよ」
とは言え、自分もゴートランドに来れば風の民と手合わせできるとぼんやり考えていただけだったので相棒を笑うことはできないのだが。
「お、やべぇ雇い主だ。お仕事お仕事!」
2人は槍を持ち、直立不動の姿勢を取る。2人の間を2頭の白馬に引かれた黒塗りの馬車通り過ぎて行った。
「侯爵だな」
「いや、めっちゃキレイな姉ちゃんだった」
「何?」
「いや本当に。緑っぽい金髪で、色白で……」
「耳は! 耳の形は!?」
「そうだ、長くて尖ってた! ってことはあれが風の民か! 俺初めて見た!」
「ちっ!」
エドワードは本当に地団駄を踏んで悔しがったが、この直後、彼らは否応なしに風の民と関わっていくことになる。
◇ ◇ ◇
風の神殿。
そこはゴートランドの山奥にある風の民の聖地であり、彼らの先祖が作り上げた太古の遺跡だった。
十数人の護衛を引き連れた旅装のシュレック侯爵と、丈の短いケープと革のブーツを着けたデュランがそこにたどり着いたのは邸宅を出た次の日の朝のことだった。
神殿の内部には大広間となっており、ち密な計算の上で設置された天窓が陽の光を聖く美しく取り込んでいた。
だが、彼らの目的は、陽の光の届かない地下にあった。
破壊された床の下に隠し階段がのぞいている。
「愚かな……」
デュランが深いため息をつく。
本来、ここには彼の先祖が高度な英知と諧謔をもって設置した仕掛けが施されていた。広間に仕掛けられた謎を解き明かせば、地下への階段が自ずと出現するようになっていたはずなのに。
長い階段を下ると短い廊下があり、その先には地上の広間とほとんど変わらない広さと高い天井を持つ祭壇の間があった。
そして、その最奥に、それはいた。
「おお、神よ……」
デュランが思わず跪く。
空を支配し風の力を司る神なる竜。
その姿は竜というにはあまりに異形だった。
風の民と同じ、長く尖った耳を持ち、緑色の長い髪をした女性の上半身。下半身、正確にはみぞおちから下の部分は節のある蛇のような形状をしていた。
たとえるなら、巨大なトンボの腹というのがそれに最も近い。
腕は6本あり、背中には透明な4枚の翅が生えている。
その大きさは、広大な祭壇の間の壁を埋め尽くすほどである。
蟲竜ミステリシア。
これがデュランたち風の民の崇める地母神だった。
「何てことを……」
跪くデュランの肩が怒りに震える。無理もない。彼らの神は今、魔力を帯びた大きな鎖によってがんじがらめに縛られ、壁に無造作に立てかけるようにして打ち捨てられていたのである。
「貴様ら――!」
「お怒りはごもっとも!」
デュランの怒りが爆発する前に、侯爵は跪いて頭を下げた。
「このことは、我らの過ちとして未来永劫語り継ぐことを約束する。だが今は、今この時だけは――」
「異界より来たりし禍星、か……」
「あれらを降伏せしめることができるのは、もはや神の力しかない。どうか、風の民の力で蟲竜の力を呼び覚ましてくれ!」
「ふん」
デュランは鼻で嗤う。
「貴様らの神はどうした? 聖ラザラス教の唯一絶対神は?」
「死んだ」
「何?」
「そもそも、かの異世界人を召喚したのが教会の祈祷院なのだ」
「……」
デュランはもはや何も言わず、蟲竜に祈りを捧げ始めた。
侯爵はデュランの背中に「任せたぞ」と言い添えると、そっと部屋を後にした。
「ふぅ」
地上に出た侯爵は大きく息をついた。
(まったく。この私が野蛮人に頭を下げねばならんとは)
神殿の外はむっとっした湿気に襲われる。侯爵は護衛に命じて団扇であおがせながら逃亡の算段を考えていた。
「閣下!」
そこへ、伝令の兵が息せき切って駆け込んできた。
「伝令です! 城塞が招喚者に攻め込まれています!」
「どこの城塞だ」
いら立つ侯爵の問いに、伝令は叫ぶように返答した。
「この国です! 侯爵閣下の居城が襲われているんです!」
「何ぃぃぃぃぃぃ――ッ!?」
◇ ◇ ◇
突然、キィン……と耳鳴りがした。
直後、轟音を伴うすさまじい衝撃波に襲われたエドワードとロルフが恐る恐るその方向へ顔を向けた時、つい一瞬前まで自分たちが守っていたはずの城門が跡形もなく消え去り、あるのは美しい円を描く陥没と散らばった無残な残骸だった。
その破壊という言葉も生ぬるい消滅の中心に、2人の人影があった。
「嘘だろ……」
誰が何をしたとはもう思うまい。招喚者が何かをすれば後に破壊の痕跡が残る、ただそれだけだ。
「あれ? その声はもしかして、エドワードさん?」
「え!?」
突然名指しされ、エドワードは心臓が口から飛び出るような思いを味わった。
黄色い妙に派手な服を着た少女が笑顔で近づいてくる。
「その節はお世話になりました」
ぺこりと頭を下げる。
「あ、うん」
ウェイン王国にて、少女、キャン・セリナともう一人、ツキシロ・トーヤを王城へ案内したのはこのエドワードだった。
「この度はすみません。ご迷惑をおかけして」
「あ、いや……」
声が上ずり、膝が笑う。
(迷惑なんてもんじゃねぇよ)
とは思うものの、獅子を前にしたウサギの心情となっているエドワードに悪態をつく余裕はなかった。
「あれ? でもエドワードさん、どうしてここに?」
「いや、まぁ色々……。き、君は、どうしてここに?」
言ってしまって、自分の愚問に気付く。少女も柔らかく苦笑する。
「ええ、私たちは……」
そして、にっこりと微笑んだ。
「ちょっと、この国を焼き尽くしに」




