前夜
「ただいま」
「おかえり。じきに御飯の支度もできるから」
家に帰ってきたカイムを迎える母の声が、奥から聞こえた。
「うん、着替えてから行く」
カイムはそう言って玄関脇の衣着室に入った。扉をしっかり閉め、外着を脱いでハンガーにかける。外よりもマシとはいえ、寒いことに代わりはない。カイムはブルッと身を震わせると、洗面器に少しだけ溜めた湯にタオルを浸してきつく絞り、下着も脱いで裸になると全身を丁寧に、けれど素早く拭いて、新しい下着と部屋着を手早く身に着けた。
一息つくと、タオルをもう一度湯に浸して絞り、洗面器の湯をこぼさないように注意して浄化槽に落とす。それからタオルで手を拭って、脱いだ下着と一緒に洗濯籠に放り込み、衣着室を出て母が食事の支度をしている部屋に行った。これでやっと帰ってきた気分になる。食卓には、すでに弟のリックが着いていた。
「農場の仕事の調子はどうだい?」
カイムは椅子に座りながらリックに聞いた。
「まあまあ、かな。電気ショックのパターンを去年を参考にして設定したら、今のところモグラや鼠の被害もないし」
「それじゃ、今年は少しは期待できるかな。ペーストだけじゃ飽きるからなぁ」
「ま、これから先2ヶ月くらいが勝負だね。父さんが帰ってきて畑を拡張できればいいんだけれど」
「そう言えば」
カイムは母に顔を向けて聞いた。
「父さんは明日帰る予定だっけ?」
「今日、無線が通じてね」
食卓に皿を運び終えた母は椅子に座りながら応じた。
「プルトニウム鉱山の作業が予定より1日遅れてたらしくて、明後日になるって」
「そうか」
浄化槽で作られたペーストと、ガド芋を使った簡単な料理。それからこれも浄化槽から出した一杯の水。いつもと代わり映えのない質素な食卓。食事前の短い祈り。一時、沈黙が落ちた。
「さ、食べましょ」
母の声で食事が始まった。
「カイムの方はどう?」
食事をしながら、母が聞いてきた。
「うん~、部品がね、もう少ないから、修理にちょっと苦労してる。日に1~2件くらいしか依頼はないから、古い機械から部品を外してなんとかやってるけど」
「電撃装置はできてる?」
今度はリックが聞いてきた。
「ああ、そっちはOK。父さんがプルトニウムを持って帰ってくれればいつでも使える。出力の調整は必要だけど」
「それなら、畑の拡張も今期にぎりぎり間に合うかな。蒔くのが遅い分は、実が小さくなると思うけど」
「そっちも苦労してるんだな」
「まあね」
「それよりカイム」
母が食事の手を止めてカイムを見た。
「ディルクさんは相変わらずなの?」
「親方? うん、相変わらず、よく解らない車を造ってる。もうほとんど出来ているように見えるけれど」
「仕事はカイムに任せきり?」
「まぁ、俺で大抵のことは対処できるから」
「そう」
母は溜息をついた。
「前から変わり者だったけど、昔はもうちょっときちんと仕事してたのにねぇ」
「今だって、俺の手に負えないような仕事は、頼めばちゃんとやってくれるよ」
「それでもねぇ、皆が生きるのに精一杯なのに、趣味で訳の分からないことをやってたら」
「親方も、何か考えあってやってるんだよ。唯の趣味で役にも立たないことをやる人じゃないから」
「それならいいんだけどねぇ」
母はまた溜息をついた。
「やっぱり、息子さん2人が亡くなったことがショックだったのかねぇ。あれからだもんね、ディルクさんがああなったのは」
カイムは何も言わなかった。確かに変わり者で偏屈で愛想がないかもしれないが、カイムにとっては尊敬する親方だった。電気回路や機械の製作・修理の腕は確かで、カイムの腕はその足元にも及ばないのを承知している。
「言っても仕方ないわね。さ、御飯が済んだら、寝ましょう」
「ああ」
「うん」
少ない食事は程なく終わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
床について、カイムは半透明の屋根の向こうの空を見上げていた。雲のない空の北半分は降るような星空が霞むように、そして、南側には真っ黒な“天井”が見える。今は短い夏。昼には天井から陽が覗くけれど、夜は冬と変わらない。
カイムは目を閉じた。今日までと同じ生活が明日からも続く。今のカイムは、そう思っていた。