初投稿長編作品でつまずいたのなら、「読まれるように書きましょう」という言葉は少し忘れた方が良いですよ、という話。
今回の話は、過去(2018年3月23日)に他の方の活動報告のコメントとして書いた内容を加筆、修正したものとなります。見覚えのある方は少し申し訳ありませんが、まあ懐かしんで頂けたら、なんて思います。
web小説界隈、特に「小説家になろう」で主に活動している人が良く目にするであろう「読まれるように書く」という観点から書かれた創作論ですが。まあ私も、こういった創作論を完全に否定するつもりはありません。
――ですが、正直に言うと完全に肯定するのも少し難しいと感じていまして。今回はその辺りを少し述べてみたいと思います。
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そうですね、「読まれるように書く」という考え方に対して、まずはこれから小説を書き始めようとする人の立場から考えたいと思います。
まず、物事を始める切っ掛けとして「評価されたい」という思うことは悪いことでしょうか。また、そうして何かを始めた時に、その成果を見てほしいと願うことは悪いことでしょうか?
――これは、どちらかというと、そう思う方が自然だと思います。そして、それが良いか悪いのかを決めるのは、飛び込む場所次第だと思います。
例えば、ピアノをこれから覚えるのに、ピアノの発表会に飛び込んだら、それは非難されてしかるべき行為だと思います。ですが、ピアノをこれから覚えるために、知識が無い状態からピアノ教室に通い始めることは、決して悪いことではありません。
そして、その中間として、ピアノを引いたことの無いような人でも歓迎してくれるピアノ同好会のようなものがあった場合、その同好会に入るのも、決して悪いことだとは思えないのです。
私にとって、「小説家になろう」を始めとした小説投稿サイトは、誰でも入れる同好会のようなものだと思っています。……まあ、プロのスカウトが来る場所でもありますが。
まだ何かを始めたことが無い人にとって、敷居の低い場所があるというのは、とても有難いことです。独学で何かを続けることは大変です。たとえ自分で学んでいかなくてはいけないとしても、周りに同好の士がいるというだけで、継続する励みになります。
何より、どんな理由であれ、その人は一つのことに対し、挑戦を始めた訳です。それは、挑戦をせずに外から偉そうなことばかりいう人よりも、はるかに立派だと思います。
ただ、「読まれるように書く」というのは並大抵のことではありません。いきなりそれが出来てしまう人というのも確かに存在します。ですが大多数の人は、そんなことはできません。「読まれるように書く」というのは本来、「小説を書く」ことができるようになった後の話の筈なのです。
――小説を書くのは、簡単でもなければ手軽でもありません。だから、小説を書くことで「楽をして」評価されると考えていた人は、すぐに選択を迫られることになると思います。
少なくとも、テンプレを書けば読まれるとかハッピーエンドにすればいいとか、書く話の方向性だけで不特定の多数に評価されるなんて、そんなことはまずありえないと思います。だから、いきなり面白い話を書くことができないであろう大多数の人はつまずくことになる。
その上で継続しようと思ったのなら、「じゃあどうすれば良いか」ということに目を向けることになると思います。
書いている内に書く楽しさに目覚めて、楽しく書くことに移行するのも一つの選択だと思います。たまたま同好の士が見つかって、その人たちの中でわいわいと楽しくやるのであれば、それはそれで、一つの趣味の在り方として、悪い話ではないと思います。
それでも満足できなければ、本気で取り組むことしかないでしょうね。ただ、人気が出なかった、思った以上に読まれなかった以上、「読まれるように書く」という創作論から離れないと、ただの苦行になると思いますが。
ただ、私はその時点でやめてしまう人に関してはもう「しょうがない」と思っています。始めた以上は続けなければいけないとか、そういった考えは少なくとも私は持ち合わせていません。まあ、自分も少し冷たい気はしますけどね。
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もう一つ、「読まれるように書きましょう」「読者のニーズに合わせて書きましょう」という論を書く側の問題ですが。本来、この論は初心者を抜け出した、(最低でも)中級者以上の人のための論のはずです。
――なのに、この論がまるで今現在読まれてない人向けの、初心者向けの論として出回ってしまっています。
そもそも、「作品を読まれるようにする」というのは、本来であれば創作ではなく、宣伝やマーケティングの分野のはずです。
創作とはいい作品を作り出すことでマーケティングとは適した読者にその作品を届けること。本来であれば別の分野の話になると思います。
なのに、「読まれるような内容で書きましょう」という話が先行してしまっている。つまり、読まれるようにするというマーケティングの話を、創作の側に求めてしまっている状態なのです。
――これは正直、ある程度創作に対する姿勢がはっきりしていないと、「読まれるようにする」というマーケティングの都合に作品が食われてしまうことになりかねない話だと思います。
創作に対する姿勢がはっきりしていれば、問題にはならない話です。例えば、自分が読んで欲しい作品があって、それがなろう受けしない。その場合、「広告塔として」なろう受けする作品を創り上げて、自分の読んで欲しい作品の方に誘導するような考え方だってあります。
その考え方が悪いとは思いません。ですが、その場合でも「広告塔」の作品に一定の価値が求められます。
結局は、広告塔の作品にも、心を動かすようなものを盛り込めなければいけない訳です。ですが、それができれば、「読んでもらう」ことに対する、強力な武器となりえます。
読まれるように書く、読者のニーズに合わせて書くというのは、そう書いてなお、自分や自分の主張を作品に盛り込める、そういった人のための論のはずなのです。
ですが、初心者がこの論に触れたとき、勘違いをしてしまう可能性がある。なのに、どう書くべきかを抜きにして、読まれるように書けばいいという論が書かれて読まれてしまう。そして、そんな論が会話のように切り売りされて広がってしまう。
――結果として、「読まれるように書く」ことに偏りすぎた人が出てくると、そんな話なのだと思います。
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これから書き始めたい人が読まれる方法論を求めるの悪くないし、読まれるための方法論があっても良いと思います。
ですが、とりあえず創作の世界に飛び込んでみて、読まれなくてどうしようかと悩んだときに、「読まれるように書きましょう」という論に悪魔的な魅力を感じる人もいるのだと、そうも思います。
――これはどちらかというと、ある種の不幸な出会いみたいな話だと、そんな風に思うのです。
私としては、そうじゃない、始めたばかりなら稚拙なのは当たり前で、継続すればよい作品が書けるようになるのも当たり前なんだよ、と声を大にして言いたいです。そして、「読まれるように書きましょう」が行き過ぎると、いつまでたっても初心者から抜け出ることはできませんよと伝えたいのです。
貴方が目指しているのは、作家ですか、それとも広告主ですか。作家を目指しているのなら、まずは自分の表現を磨きませんか。読まれることを意識するのは、それからでも遅くないですよ、と。……まあ、単に人に認められたいだけなら自分で作る必要なんかありませんよ、いい作品を掘りだして紹介した方がよっぽどいいですよと、そんな皮肉めいたことも考えてしまうのですが。
でもまあ、執筆を楽しめる人でないと作家なんて続けてられないですし、それよりなにより、同じ時間をかけるのなら楽しんだ方が絶対に良いよねと、そんな風に思います。