章の最後に:「こうあるべき」と、何度も言ってきたけれど……
さて、私はここまで、「構成」「舞台」「キャラ」「テーマ」という四つの側面から、物語とはどうあるべきかを語ってきましたが。最後に一つ、その区切りとして一つ、今まで述べたことを少し否定するようなことを言いたいと思います。
――これまで述べてきたことは、あくまでも物語の基本であって、ルールではありません。これまで述べてきたことをどれだけ守るべきか、またどのくらい役に立つのかは、物語の長さや性質によって変わってくるかと思います。
そのことを、ここまで述べることができなかった「物語の筋(プロット)」と一緒に、少し述べてみたいと思います。――と言っても、実のところ、ここで述べることは「構成」「テーマ」で述べたことの繰り返しになるのですけどね。
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これまで、物語を「テーマを表現するための例示」と述べてきましたが、このための方法の一つに「変化させる」ということがあります。例えば物語を通して成長を表現したいとき、成長する前の状態を書いた後に事件を起こして、その事件を解決してキャラを変化させれば成長を表現することができる訳です。――このとき、なぜそうなるのかを物語の中でしっかりと表現できていないと、成長ではなくキャラブレになる訳ですが。
このキャラが変化する流れは同時に、「物語の筋」でもあります。
筋が一つしかないのなら、物語の形は「日常から事件が起きて非日常になり、日常に戻る」というような極めてシンプルな形になることが多いと思います。そうですね、長さとしては短編小説でしょうか。その場合は軽く「起承転結」のようなものを意識して書けばいいのかなと思います。
筋が二つになると、話がもう少し複雑になる。例えば探偵と怪盗が一対一で知恵比べをするような物語だと、怪盗が予告状を送ったあと、予告通りにお宝が消える。実はそこにトリックがあって、お宝はまだ外に持ち出されていなかったりする。そのことを探偵が見抜いて罠を仕掛けてという感じで、互いの行動が影響しあって物語を複雑にしていく。筋が二つだとまだ短編でもいける気もしますが、三つ、四つと増えるにしたがって、物語も中編、長編と次第に長くなっていくかと思います。
ただ、これをいつまでも続けてもそのうち飽きがくるし、何よりその物語で何を伝えたかったのがぼやけてしまう。だからある程度の長さに抑えて、さらに物語の起伏ははっきりとさせた方が良い。可能であれば「三幕構成」のような構成の形も少し意識して書くと良いのかなと思います。
さらに、その物語を繰り返し続けるような書き方もある。何ていうのかな、三幕構成がさらに連なって一つの物語になってたりするような大長編もあります。水戸黄門のような、いつまでも話が続く、いわば「終わりのない物語」のようなものもありますね。まあ、「終わりのない物語」の方は、実のところ私にはあまり興味のない書き方だったりするのですが。
ここでは「物語の筋」なんて言っていますが、この「物語の筋」というのは、いわば「物語の中にある物語」のようなものです。決まった形があると同時にテーマもある。だから、「物語の筋」が増えれば物語が内包するテーマも増えることになる。
だから長編小説には大抵、いくつかのテーマが内包されています。物語が長くなるにしたがって、その物語が内包するテーマの数も増えていく訳です。
この時、その内包するテーマはできるだけ同じ方向を向いていた方が良い。たとえば「かわいい」をテーマにするのなら、いろんな形の「かわいい」を意識して書く。「綺麗なお姉さん」「ツンデレ」「知的クールビューティー」「ドジっ子」みたいな感じで方向性を揃えていけば、読む方としてもわかりやすいし、物語も受け入れやすくなっていきます。
……こんなことを書きながら、実は私はハーレムが苦手だったりするのですが。うん、色んなタイプが出てきても本命は一人(もしくはみんなお友だち)にしてほしいかなと。うん、まあこれはただの個人的な好みですね。
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物語に基本的な型があって、その型が大切なのは確かです。なぜなら、私たちは日常生活のいたるところで物語に触れて、経験則的にその型を学んでいるからです。だから、その型から外れると読者は気付きますし、作者にだって「型から外れている」ことは判ります。
――だから実のところ、作者が「型から外れること」を個性だと勘違いしない限りは、これまでに述べたことを知らなくても大抵の場合は問題はありません。
何も知らないままに執筆しても、わざと物語の型を外そうとしない限りは、物語の型から外れたりはしないんです。だって、私たちはそれを知っているのですから。だから、自分の中にある物語を大切にして頑張って執筆すれば、それだけで良いのです。
別に個性なんて出そうとしなくたって、その人らしさは勝手に作品の中に宿っていくものなんですよ。そりゃあそうです。人が百人いれば、百以上の価値観はありますから。
個人個人が抱く「カッコいい」「かわいい」は、みんな違ってるのです。だから、自分が思うカッコいい人、かわいい人を書き上げれば、それがこの上ない個性になります。そしてそれはキャラだけではありません。「物語の筋」のからませ方、変化のさせ方、表現の仕方、そういったありとあらゆるものに、個性というのは宿るのです。
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より多くの人に受け入れられるために、キャラや世界観をありきたりなものにする必要はありません。読者に物語を受け入れてもらうために必要なのは「平凡」ではなく「共感」なのです。
どれだけありえないようなキャラや世界観でも、普通の価値観を持った人にわかるように説明をすればいい。作者が素直に良いと思ったものを作品に込めれば、それがそのまま個性になります。そして、その良さを普通の人にも伝わるように言葉を重ねれば、その言葉がさらなる個性になると共に、読者を作品に引き込む力になるのです。
そして、物語の型を始めとした方法論は、そんな個性的な価値観で溢れた作品を、普通の価値観で楽しめるようにするための架け橋にもなる物なのです。
だから、方法論は学んだ方が良いし、素直に受け入れた方が良い。方法論というのは便利な道具で、方法論に従ったら個性が無くなるのなら、それは単に作者に実力がないか、作者に個性――読者に伝えたいと思う何か――がないか、どちらかなのです。
――だからこそ、まずは自分の好きなことを書いた方が良いのです。物語を書けば書いた分だけ、実力はついていくのですから。
結局はね、「作者の思ったことを読者に伝える」のが、一番難しいのです。物語の起伏をどうすればいいのか、何を書けば良いのか、これらには参考にすべき方法論があります。ですが、今作者が考えていることを読者に伝えるためにはどうすればいいか、その答えはどこにもありません。繰り返し書いて、自分で模索するしかないのです。
地道に書き続けていれば、例え少しずつでも実力はついていきます。それは方法論という便利な道具を使いこなすために必要になるものですし、同時に、自分の伝えたいことを読者に伝えるためにも必要になることです。
その「自分の伝えたいことを読者に伝えるための力」こそが「個性」です。それは、作家として必要なものであると同時に、伝えたいという意志を大切にして繰り返し執筆すれば、いつか身に着くものでもあるのです。
書けば書くほど、読者に何かを伝えようとすればするほど、その人の書いた作品には「自分らしさ」が宿っていくことになります。それは、個性的な作品を書こうとしても込めることができない、本当の意味での個性です。その個性を得るためにも、たとえ失敗してもいい、「自分が読者に伝えたいこと」を大切にしながら、とにかく書くべきなのです。
――個性を出すのに大切なのは人と違うことをすることでは無くて、自分らしさを大切にすることだと、私はそう思います。