物語の「構成」には、決まった形がある。
私は前項で「舞台とキャラは物語の両輪」だと論じたのですが。実のところ、あそこで述べたのは「物語」というよりは「場面(シーン)」のことだったと思います。では、その「場面」が集まってできる「物語」はどうあるべきなのでしょう。その問いに対して私は、以下のように答えたいと思います。
――物語には決まった形がある、と。
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たとえば、このエッセイの最初の方、「まずは、とにかく書いてみよう。」の項で、「何気ない日常生活を送っていた主人公が事件に巻き込まれて何かを決断したあと行動して、最終的に主人公が成長する物語」を書いてみると良いようなことを書いていますが。
――実のところ、これは極めて基本的な物語の形、「物語のテンプレート」です。
そうですね、とりあえず名前を付けると「日常で何か事件が起きて非日常になり、事件を解決して日常に戻ると同時に喪失を回復する」物語という感じになるのでしょうか。
これは実際には「行って帰る」「喪失を回復する」と呼ばれているテンプレートに「事件」という要素を組み込んだものになるのですが。
以下に、もう少し流れが分かりやすくなるよう、箇条書きで書いてみます。
1.(何か喪失を抱えたまま)日常を送る。
2.何か事件が起きる。
3.決断して行動する。
4.(抱えていた喪失を満たして)日常に戻る。
どうでしょう? 何となくですが、これに当てはまる作品に心当たりはあるのではないでしょうか。
――というか。映画のような、始まりから終わりまでしっかりと計算してまとめあげられた物語は、大抵この形になっているのではないかと思います。
また、この形を踏襲して何度も作られた結果、物語の型として認識されるようになったものも存在します。たとえばそうですね、貴種流離譚なんかはそれに当たるでしょうか。
他にも、「平和な日常を送っていた少年が、何か事情を持った少女と出会う」という型も存在します。ええ、俗にいう「ボーイ・ミーツ・ガール」という奴ですね。わかりやすく書くと、以下のような感じでしょうか。
1.日常を送っている少年がいて。
2.何か問題を抱えた少女と出会う。
3.その少女を助けようと少年は決意をして。
4.二人で問題を解決して、日常に戻る。
5.そして少年の日常の中に少女が溶け込むようになる。
この場合だと、少年と少女の二人でテンプレの要素を満たしているわけです。このような構成となっている話に、心当たりはあるのではないでしょうか?
……まあ、「ボーイ・ミーツ・ガール」には「ベタな話」「お約束」という意味もあるそうですし、ある意味においてテンプレ以外の何物でもないとは思いますが。
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じゃあ、この「物語の基本的な型」からずらしたらどうなるか。ずらせばずらした分、テンプレとは違った独創的な物語になるのでしょうか。
……残念ながら、そうはならないと思います。この形からずれればずれるほど「中途半端な物語」、つまりまるで打ち切りや引き延ばしにあったかのような、そんな中途半端な物語だと受け取られる可能性が高いと、私はそう思います。
映画にしろ小説にしろ、物語というのは既に世の中に広まった、ある意味においてとてもありふれた娯楽です。そんな物語という娯楽に慣れ親しんだ私たちは、既に多くの物語を通して、「物語の型」というものを経験的に学習しています。
だから、その「物語の型」から外れると、読者はそのことに気付きますし、それは「独創的」ではなく「完成度が低い」と、そう受け取られる可能性の方が高いと、そう思うのです。
まあ、あんまり「物語の型」に囚われるのもアレですけどね。でも、日常から非日常に行って帰ってきて喪失を満たすという「物語の基本の形」があることは、知っておいた方が良いと思います。
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さて、ここまで「物語の型」という「テンプレ」のことについて語ってきましたが。これが「小説家になろう」を始めとしたweb投稿サイトだと、「テンプレ」という言葉は違う意味の言葉になっていますよね。
実のところ、異世界転移や転生を伴うような「なろうテンプレ作品」の場合、その仕組み上、そのままの形では「日常に戻る」ことは出来ません。なのでそうですね、自分がなろうテンプレ作品を書こうとするのなら、「日常に戻るための場所」つまり「帰る場所」をまず作ると思います。
つまり、物語の冒頭で主人公が異世界に転生転移した後、自分の家(帰ってくる場所)を作るところまでをまず描くようにする。そこで何事もなく過ごすことが「日常」ということになれば、あとは「事件が起きて解決して不足を埋めて日常に戻る」という、物語の基本形が使える訳です。
さらにこの基本形は、何も主人公が全て受け持つ必要はありません。サブキャラに事件を起こしてもらって主人公が事件を解決する形でも良い訳です。
極端なことを言えば、そうすることで同じ物語をいつまでも続けることすらできます。
まあ、それはどうかと個人的には思いますが。でも、この「日常を一から作り出して帰る場所にする」という技術は、そのまま物語に区切りを付ける技術につながります。
十万字以上の長編を書きたいと思うのなら、身に着けておいて損はない技術だと思います。
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ちなみに、これは主観なのですが。水戸黄門という物語は、旅に出ている状態を日常にして他人の物語に介入する形にすることで、「日常に戻るたびに物語をリセットする」という形を作り上げた物語だと思います。一話ごとにリセットするからこそいつまでも続けることができる、そんな物語だと、そんな風に私は分析しています。
さらにそうですね、ルパン三世なんかは日常が「あばよとっつぁん!」「まてぇい、ルパン!」というアクションシーンになってますからね。奇想天外でいかにもルパン三世らしく、それでいてどこかホッとする、そんなアクションシーンが日常で、常にそんな冒頭で始めることができる物語って凄い作品だなあなんて私は思うのですが、どうでしょうか。
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何か物語を評するときに、「独創的なストーリー」とか言いますよね。いかにもこの作者らしいストーリーだとか。ですが、「物語の流れ」に独創性はありません。物語には決まった型、決まった流れがあります。この決まった型から大きく外れた物語は、独創性な物語にはなりません。
――よく聞く「独創的なストーリー」「その人らしいストーリー」という言葉には、大きな勘違いがあるのです。
独創的な物語、その人らしい物語というのは確かにあります。ですがそれは物語の流れから生まれるものではありません。物語の中に流れる「何か」から生み出されるものなのです。
……まあ、例外というのは何事にもありますし、物語の形をしていない名作だっていくつか心当たりはありますが。でもね、やっぱりそれは「例外」なのです。意図して作り上げようとするのなら多大な労力と、何より物語に対する深い理解が必要になるようなものなのです。実力が付くまでは手を出さない方がいい、そんな事例のように思えます。
もし、この文章をみている方で独創的な物語を書きたいと願う人がいるのなら、その人に私はこう伝えたいと思います。独創的な物語を書きたいのなら、さまざまな「物語の型」を調べて、その形であることの意味を理解してください、と。
――その「物語の型」が、独創的な内容を物語の枠にとどめるのですから。
物語を綴ぎたいのなら物語の形は理解しておいた方がいいし大切にした方がいいと、私はそう思います。
ここでは、とりあえず「行って帰る」「喪失を回復する」という、登場人物から見た型を中心に話をしましたが。
「起承転結」「序破急」「三幕構成」といった「どこで何を書くべきか」というのも一つの型だと思います。特に長編を書きたい方は「三幕構成」というのを一度調べておくと色々と役立つのではないかと、そんな風に思います。