「舞台」と「キャラ」は、物語の両輪です。
ここから創作論の方に入っていくわけですが。まずは「舞台とキャラは物語の両輪です」というところから書き記してみたいと思います。
そうですね、まずは一つの目安として、学芸会でも吉本新喜劇でも何でもいい、何か舞台の上で観客に披露するような形の演劇を思い浮かべてみてください。
まず、舞台の上には大道具や小道具といった舞台装置が置かれ、その場面がどんな場所なのかが観客から一目でわかるようになっていると思います。
その舞台の上で、役者が筋書きに従って演技をして、物語を進めていく。この時、役者は身振り手振りや表情、細かい仕草と、全身を使ってその人物の性格や感情といったものを表現していく訳です。
それらで足りない場合はさらに効果や演出が入る。台詞だけで説明が足りないところはナレーションが入るし、人物を照明で照らして目立たせたりもする。効果音や、時には勇壮な音楽を流したりもする。
そうした様々な手法を用いて、舞台の上に一つの場面を形作っていく訳です。
これらは全て、「物語」という一つの様式にそって作られた作品を表現するために行われていることです。なので、この演劇で行われていることというのは、同じく「物語」を表現するための文章様式である「小説」にも、ある程度当てはめて考えることが可能です。
……いやまあ、小説では効果音や音楽を鳴らしたりすることはできませんので、あくまで「ある程度」ですけどね。
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本項の冒頭で私は「舞台とキャラは物語の両輪です」と述べましたが。ここでいう「舞台」とは、演劇でいうところの「大道具や小道具で再現された場面の風景」のことで、「キャラ」とは「役者が台詞や演技を通して再現された人物像」のことだと、わたしは思っています。
つまり、「舞台とキャラは物語の両輪です」という言葉は、「その場面の風景、人物の台詞、性格、感情といったものは、物語にとって両輪と言えるほど重要だ」という意味だと思っている訳です。
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例えば、風景が一切描写されていない小説があったとします。その小説は演劇に例えると、風景を示すような大道具や小道具が一切ないような、そんな物語になってしまうと思います。
逆に、人物の感情が直接的、間接的を問わずに一切表現されていない小説があるとすると、その小説は役者が感情表現や身振り手振りといった演技を放棄した、そんな物語になってしまうように思います。
――どちらも、あまり出来のいい物語とは言えないと思いますが、どうなのでしょうね。
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最初に真っ暗な舞台の上で役者が一人芝居をするような演出もあるかも知れません。だけど、いつまでもそのままでは困りますよね。
どこかの段階で舞台全体が照らされて、どんな場所でどんな人たちが物語を紡いでいるのか、わかるようにしてあげなくてはいけません。
どれだけ世界設定を詳しく作ったとしても、「科学技術の進んだ国」だとか「傲慢な貴族の治める領土」では、風景が想像できません。それでは、舞台の説明になっていないのです。
多くの場合、そんな「物語世界の説明」よりも「どこまでも広がるのどかな田園風景」というような、目の前の風景を想像できるようなことを書くことの方が重要です。
――そういった「舞台の説明」こそが、一つの場面を成立させるのです。
……まあ、省略できる時もあるとは思いますが。ですが、それが判断できるようになるまでは常に書いておいた方が無難だと、そう思っておいた方が良いと思います。
そうですね、判断基準としては「その場面を演劇にした場合に再現することができるか」といった感じでしょうか。イラストが書ける方なら「そのシーンをイラストにすることができるか」とかでも良いかも知れません。
まあ、全てを詳細に書けばいいかと言われると、それも微妙だと思いますが。ただの通行人は「通行人」で終わらせてもいいし、そこを無駄に詳しく書くのも問題かなと。それでも、何も想像できないのは、やっぱり問題があるのです。
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仮に「科学技術の進んだ国」という設定が重要な、読者に伝えなくてはいけない設定だったとしても、その伝え方は少し考えなくてはいけない。
物語を進めてその国のさまざまな場所の風景を描写することで自然と読者に伝わるようなことなら、「科学技術の進んだ国」という説明自体は文章にしなくてもいいかも知れません。
――ですがその風景は、どこかで必ず文章にしないといけないと、そう思っておいた方がいいと思います。
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キャラとキャラ設定は違うものですし、舞台風景と世界設定は違うものです。これが例えばキャラなら、「○○はツンデレだ」と説明文を書いたところで、そのキャラが実際にどうツンデレなのかを描写しないと意味がないと理解している人は多いかと思います。
――舞台もそれと同じで、世界設定を書くのではない、舞台の風景を書かなくてはいけないのです。
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まあ、これまで述べてきたことは実は「物語」というよりは「場面(シーン)」のことになると思います。なので、「舞台とキャラは物語の両輪です」というのは、少し正確ではない言い方かもしれません。
ですが、物語というのは細かな「場面(シーン)」の繰り返しで、「場面(シーン)」が成り立たなければ「物語」も成り立ちません。結果として物語も成り立たなくなるのです。
どれだけ詳しく設定を練っても、その場面の風景やその時々で登場人物が見せる動きや感情が見えないと「場面(シーン)」が成り立たないということは知っておいた方が良いと思います。特に風景は忘れがちですので、常に意識しておいた方が良いのかなと。
そうして、舞台とキャラが揃ったとき、初めてその文章は一つの場面となって、それが積み重なって物語になるのですから。