十日目
十日目。
「おらどうした! そんな速度で走ってちゃ、復縁を迫ってくる女ですら振り切れんぞ?」
訓練用フィールドに、ゴトウの怒号が響き渡る。
「網屋を見てみろ! 三日前に俺が丁寧に傷めつけてやった奴が、平気な顔して先頭走ってるんだぞ? 手負いに遅れを取るのか貴様らぁ! よし、網屋より遅い奴はスクワット百回追加!」
声には出さない、いや、出す余裕すらないが、新兵達が「げ」と呟く。
「いいか網屋、本気で走れ! 一人でも抜かれたらスクワット百回追加!」
「えぇー?!」
「インターハイ出場の力を見せつけてやれ!」
「それいつの話ですかぁ!」
包帯やらガーゼやらをまだ外していないまま、網屋はコースをひたすら走らされていた。苦笑いしながらも、網屋は走る速度を『中距離走前半』から『中距離走ラストスパート』に切り替える。
「周回遅れの場合は、どういう扱いになるんですかー?」
「遅れた奴はスクワット二百回さらに追加、追いついた奴は今日の昼飯おごってやる」
「っしゃああああやったらあああああ」
速度が『中距離ラストスパート』から『短距離』に変化した。今度こそ新兵達は「げえっ!」と悲鳴を上げる。あまりの哀れな様に、アンヘルは思わず吹き出してしまった。
モーリッツ社長が医師達に要求した代償。それは、『網屋を契約通りに働かせる』というものだった。短期雇用としての契約期間は二ヶ月。結局、何事もなかったかのように元通りになっただけだった。
変化した点と言えば、TD社専属病院に非常勤の医師が来たことであろうか。相談役とか何とか、そんなやつだ。しかし、うち一名は医師というより近接格闘の指導に来ているような気もする。だってほら、今日はJ病院の方は休みなのだろう。フィールドの片隅で、目澤がスーツではなくスポーツウェアなんぞ着て、隊員達をちぎっては投げちぎっては投げしている。明日は中川路が来る予定らしいが、女性は全員避難させておいた方が良いのではなかろうか。
自分がターゲットにされていたと知ったアンヘルは最初こそはむくれていたが、昨日、単独でやってきた塩野と何かを話した後、態度が元に戻った。一体塩野は何をどのように話したのか……。尋ねても答えてくれるはずもなく、アンヘルに聞いても笑うだけで答えは帰ってこない。
ユリ夫人に至っては「全然気にしてないよ!」と笑い飛ばされて終わってしまった。ゴトウ大尉の方が怒っていたくらいだ。しかも、怒る相手がユリ夫人である。「もっと危機感を持て」とかなんとかお小言を言っていたが、こちらから見ればそれはただの惚気にしか過ぎず、二人が何かに気付いてこちらの顔を見つめ、黙りこんだことで終結した。
いやあ、なにをそんなにおびえていたんでしょうねえ。そんなにこわいかお、してましたかねえ。
まあ、網屋自身にできることはせいぜい、残り五十日間を真面目に働くだけだ。その間、相田はメシに困るだろうが自力で頑張ってもらうしか無い。がんばれ。がんばれ。いける、できるできる。なんとかなるなる。
俺はこちらで、人が作ってくれたメシを食います。やったぜ。
網屋の速度がどんどん上がる。そして、最後尾の隊員に追いついてしまった。
「はい、残念」
軽く背中を叩いてから追い越してゆく。越された隊員は絶望のあまり膝を着きそうになるが、ゴトウが許してはくれない。網屋はへらへら笑いながら、次の標的へと狙いを定めた。
「あと八メートルぅ」
「うわぁマジかよ!」
たまにはアルバイトもいいかもしれない。呑気に考えながら、網屋は足を前に踏み出した。ここにいる全員ごぼう抜きしたら、夕飯もおごってはくれまいか。悠長にそんなことも、考えた。
空は青い。傷はまだ痛むが、走るのは気持ちがいい。このまま呑気に走っていられるといいな、と、ぼんやりと考えたのは、気のせいではない。