七日目、対峙
窓のない、薄暗い部屋。壁は全てコンクリート剥き出し。椅子が中央にある。そこに、網屋が座らされていた。
「いい加減、喋った方が楽になるぞ」
ゴトウが告げる。網屋の両手は後ろ手に手錠で拘束されており、両足も椅子に括りつけられていた。
「……そいつぁ無理です。俺は一言も喋りませんよ」
そう網屋が言った途端、ゴトウではなく、隣に立っていたアンヘルが顔面を容赦なく殴りつけた。この殴打が初めてではない。既に網屋はかなり痛めつけられていた。鼻の奥が切れたのか、喉に直接血が流れてくる。口の中を切った時に流れた血は既に固まり始めていたので、そいつと一緒に吐き出す。ゴトウ達の足元を狙ってだ。
「網屋、お前……!」
「アンヘル」
ゴトウに呼び止められ、アンヘルは再び振り上げた拳を引っ込めた。少なからず信頼が生まれていただけに、裏切られたという悔しさが露呈してしまうのだろう。実際、アンヘルの表情に浮かぶものは怒りだけではない。
やり場のない感情をどうして良いか分からず、アンヘルは網屋の胸倉を掴んだ。
「さっさと話せ! 何のためにここに来た、何が目的だ!」
しかし、網屋はアンヘルをただ見つめるだけで何も言わない。網屋の視線には憎しみも侮蔑も篭ってはいない。小さく、本当に小さく「申し訳ありません」とだけ呟くのが聞こえて、アンヘルは網屋を突き飛ばした。網屋の体は椅子ごと倒れ、冷たいコンクリートの床に転がった。
まだ感覚は残っているのだと、網屋は笑う。ちゃんと冷たい床が分かる。その硬さも。その辺が分かるなら、まだまだ耐えられる。本当にまずくなるのは感覚が片っ端から無くなって、意識があるのか無いのかすら分からなくなってからだ。意識が朦朧とし始めると、下手すれば喋ってしまうかもしれない。常に『重要事項は喋らない』ということを頭の中に留めておかねば。
ふと、聞き慣れた音が聞こえてきた。拳銃のスライドを動かす音、しかも使い慣れた自分の229だ。音の方に視線を動かすよりも早く、再び胸倉を掴まれ引き起こされる。今度はゴトウだった。引き起こしたのは片手。もう片手には、網屋の得物。銃口を腹に突き付け、問う。
「網屋、話せ。あそこで何をやっていた。何の目的でここに潜入した。話さなければ、撃つ」
顔を見なくても分かる。ゴトウは本気だ。自分がゴトウの立場であったならそうする。故に、網屋は目を閉じて一言、こう告げた。
「……どうぞ」
土手っ腹は痛いな。防弾ベストなんぞとうの昔にひん剥かれている。ベスト着てたって痛いもんな。痛いのは嫌だけど、まあ、仕方ない。いける。耐えられる。死にさえしなければどうということはない。死ぬこと以外かすり傷、って誰が言ってたんだっけ?
尋問を前提として考えれば、すぐさま殺すことはしないだろう。腹に穴が空いても止血くらいはしてくれる可能性がある。痛みと恐怖を与えることが目的であるのだから、死ぬ寸前くらいでだらだらと生かしておくのが定石だ。その間、ひたすらコレが続くわけだが。
とっ捕まってからどれだけ経っているのだろう。どれくらいここにいる羽目になるのだろう。まあいい、時間を考えるのは意味が無い。とにかく今は、痛みに対する覚悟だけしておけばいい……
と、腹を括って9ミリパラベラム弾の衝撃を待ったが、様子がおかしい。恐る恐る目を開けてみると、ゴトウは何故か視線をドアの向こう側へと向けていた。まるで、見えないドアの向こう側を見透かすように。
「何だ……なにか来るぞ」
この尋問部屋は防音効果著しく、部屋の中の音は漏れないし外の音も全く聞こえない。それなのにゴトウが意識を向けたのは、外で蠢く気配を察したからであった。ゴトウの様子に、アンヘルもドアへと顔を向ける。
ドアは電子ロックとアナログな鍵の両方が付いている。その電子ロック部分が、突如火花を散らした。間髪入れず鍵の回る音。何故かと考える暇も与えず、ドアが音を立てて開いた。
「網屋君!」
聞き慣れた声が三人分。ああ、やっちまったなと顔を覆いたい衝動に駆られたができなかった。手は拘束されているからだ。
「うっひょおー間に合った! 殺されてないね!」
「なのなあ、尋問する限りそうそう早くには殺されないつったのお前だろ!」
「そうだったね、えへへ」
そこにいたのは呑気にくっちゃべっている、中川路と塩野。もう一人の目澤はどうしているかと言うと、ドアの際に寄りかかって息をついていた。上着は脱いでおり、髪型も少し崩れている所を見ると、これは目澤の戦闘力に物言わせて強引に突破してきたということだろう。
ゴトウは229の銃口を彼等に向けた。当然の行動であった。しかし彼等は動じない。
「貴様ら、何の用だ」
「網屋君を回収しに来たんだ」
平気な顔をして中川路が言い放つ。もう一度名前を呼ばれて、網屋がうなだれる。
「……なんで、来ちゃうんですか……俺、言いましたよね? 俺に何かあっても、放っとけって、言いましたよね?」
「あぁー言ってたねえ。だけどさ、それを順守するとは言っていないよ。こちら側は」
ニカッと笑ってみせる中川路は、いつもの色男ぶりとは違って少しだけ子供っぽく見えた。網屋は盛大に溜息をついて、今度は天井を仰ぐ。
「……突入を決定した、根拠は?」
「定時連絡が無かった。網屋君のGPS情報もキャッチできなくなった。情報を引き抜くことに成功したのに、その後の報告も無かった。これだけ条件が揃っていれば十分だろ」
と、懇切丁寧に説明を終えると、中川路はゴトウに向き直った。既にその視線は鋭いものへと戻っている。
「さて、と。お待たせして申し訳ない。我々はそこにいる網屋君のクライアントだ。大事な働き手なんでね、返してもらいたいんだが」
「はいそうですかと言う馬鹿がいると思うか?」
「ま、それは分かっているよゴトウ大尉殿。もう少し待って貰えれば、君の上司も来るから。そうしたら詳しく話そう」
まるで全てを分かっているかのように話す中川路に、ゴトウは眉をひそめた。
「ちゃんと『指示』したんだろ? 塩野」
「もっちろーん! 早く来てくれるといいんだけどぉ」
開いたままのドア、その向こう側には後から追いかけてきた社員達が詰めかけている。そんな彼等のさらに背後を見透かすように塩野が視線を動かし、「ほら来た」と誰にともなく呟いた。
ざわざわと、ざわめきが微かに広がってゆく。広がるざわめきを追うように静寂が訪れ、廊下いっぱいに押し寄せていた兵士達がまるでモーゼが割った海の如く壁際へ整列した。割れた人の海の中、悠々と歩いてくる人物が一人。
「……将軍!」
ゴトウが呻く。現れたのは上司も上司、この会社の社長。クレイヴ・モーリッツその人であったからだ。ドアにまで辿り着くと、部屋の中を睥睨する。廊下に並んだ兵士達と同じく綺麗に敬礼したゴトウとアンヘルを見遣り、ゆっくりと口を開いた。
「緊急事態、ということで来たんだけどな。どういうことだ、説明しろゴトウ大尉」
命令に従い口を開こうとしたゴトウを、中川路が手で制した。
「それはこちらから説明させていただきます。突然お邪魔して申し訳ありません。我々はそこにいる網屋希君のクライアントで、地方の病院に勤めているしがない医者です」
嘘はついていない。実際のところ、現在の肩書は『ただのお医者さん』である。普通の医者は、こんな夜更けにPMCの本社へ襲撃など掛けないであろうが。
「とある情報を求めて、彼をこちらに潜入させました。いささか無理をさせすぎまして、そちらのゴトウ大尉にバレてしまったので、慌てて回収しに来た、と。そのような訳です」
網屋がまたうなだれる。ああ、そこまで喋っちゃうのか……と、ヒヤヒヤしているのだ。何せ今の状況は完全包囲されている上に自分は拘束済み。自分のミスも腹ただしい。溜息しか出てこない。
そんな網屋を無視して、中川路は話を進めた。
「一応、該当する情報部分は全てチェックしましたが、こうなったら直にお聞きした方が良いかと思って。分かりやすくていいでしょう?」
にっこりと笑う中川路。やる気満々、と言わんばかり。しかしゴトウは別のところが気になった。
「全て?」
小さく呟いただけだったが、中川路は聞き逃さない。色男スマイル全開で丁寧に解答を出してやる。
「病院の情報は渡っていないはずだ、と言いたいのかな? 残念だったね、USBはトリガーであり保険だ。完了した時点でこちらに全部送られていたのさ。まあ、求めていた情報に該当する箇所は無かったけれども」
「そうだったとしても、網屋が情報を引っこ抜いてから一晩も経っていないんだぞ」
「ま、慣れてますから。病院の情報ともなれば尚更ね。一時間もあればチェックできる」
暗に煽っている。それに網屋は気が付いた。顔を上げて医師達の様子を見てみれば、いつもは饒舌な塩野が黙ってこの場にいる人間の顔をじっと見つめていた。ああ、炙り出す気か。先生方は本気だ。
「じゃあ、お前さんらの知りたい情報とやらは何だ」
将軍と呼ばれたモーリッツ社長が軽く問う。まるで世間話のように。しかし中川路の表情は険しくなって、社長の顔を真正面から見据えた。
「……『キャンディ』と呼ばれる薬物を、ご存知ですか」
「いや、知らんな。お前達はどうだ」
話題を振られたゴトウとアンヘルは同時に首を横に振る。しばし考えこんだアンヘルが、あとから「聞いたことはあるな」と漏らす。
「量が少なすぎてレア度がやたら高い、だったっけかな。そんな話は聞いたことがあるけど……」
「現物を扱ったことは?」
「ないな」
「……塩野、どうだ」
アンヘルの顔を凝視していた塩野は、一歩前に出ると一言。
「嘘はついていないね。彼の言うことは事実だ」
「そうか。収穫なし、と」
張り詰めていた空気が緩む。緩むというより、まるで切れたようであった。医師達の顔には落胆と同時に安堵が浮かんでいる。置いてけぼりでさっぱり話の全容が見えないTD社の面々は、互いに顔を見合わせて首を捻るばかりだ。
それに気付いた塩野が、中川路の裾を掴んでちょいちょいと引っ張る。
「川路ちゃん、説明しないとダメな流れじゃなぁい?」
「じゃあ塩野が説明しろよ」
「ヤダァー」
「何でだよ! じゃあ目澤」
「目澤っちファイッ」
「そういうのは中川路の役目だろうが」
塩野に預けたままの上着を受け取って、目澤はそれを羽織りながら言い放った。中川路の背中を勢い良く叩いて「ほれ、よろしく」と丸投げにする。投げられた中川路は仕方ないなと溜息をひとつ。
「……我々は現在、何者かに命を狙われ続けています。我々がかつて所属していた組織の人間が狙われているということ、襲撃者達は『キャンディ』という薬物を摂取しているということ。分かっているのはこれ程度です。で、そこにいる彼。そう、君だよ、アンヘル君」
中川路達の視線を正面から浴びせられ、アンヘルは思わず眉根を寄せた。が、すぐに理解が及び「ああ」と呟く。
「薬物の扱いに長けている君に疑いを掛けた。疑わしきは全て疑うのが安全なやり方だろう?」
「それは分かった。だが、どうやってその情報を掴んだ? こいつの出自は社内の人間ですら分かってない奴が多いんだぞ」
問いかけるゴトウの声はどこまでも低いままだ。彼を煽るように、中川路は笑う。にこやかではない方の笑みを。
「貴方の奥さんだ、ゴトウ君。ユリ・ゴトウさんの入院記録だよ。詳細な記録付きでしっかり残されているじゃないか。多数の混合薬物を投与され、特殊条件も散々付与されたにも関わらず、後遺症無しで退院した稀有な例。そりゃあ丁寧に事細かく記載されていたさ、カルテに全部、ね。そっちから拾い上げて、あとは芋づる方式。独自の薬物すら調合するアンヘル君の事を知るまで時間はかからなかったよ? そうだな、カルテを入手してから二日ってとこか」
「そのカルテはどこから」
「そいつは秘密だ」
人差し指を唇に当て、やはり中川路は笑ってみせるのだ。
網屋には出処が大体予想できた。中川路が集める情報であるから、十中八九『女』だ。彼の人脈はどこまで広がっているのか見当もつかないので、女とは限らないのだろうが。だが取っ掛かりは女なのだろう。それ故に、出処の情報は殺されても口にしない。中川路はそういう男だ。
「メインターゲットはアンヘル君。サブターゲットはユリ夫人。ここらへんを徹底的に探ってこいと、網屋君を地獄の釜に叩き込んだ訳です。ま、結局はアテが外れたんだがね」
「こちらがまだ隠しているだけかもしれんぞ」
ゴトウの挑発には乗らない。塩野がゴトウの顔を覗き込んで、こちらは中川路と違いにこやかに笑う。
「それは絶対にないね。断言できる、君達は嘘をついていない」
「何故分かる」
「僕が『解体屋』だから」
言った瞬間、社長が塩野を睨みつける。それは条件反射のようなものだった。そんな視線を受けることに慣れている塩野は、それでも少しだけバツの悪そうな顔で社長に愛想笑いを作ってみせた。
「社長さんは知ってるかぁー。しょうがないね、怖い顔しちゃうよね」
「昔、嫌な目にあってな。解体屋とか洗脳屋って連中にいい思い出なんてねぇや」
「僕らの業種に対する褒め言葉だと思って受け取っておくね。それに、僕は戦場に介入する気はないよ。……あーそうだ、昔って言ったらさ、あれ、あれ言わなくていいの?」
今度は中川路と目澤の裾を両方引っ張り、しかし視線は網屋に向けたまま塩野が騒ぐ。息も絶え絶えの網屋は首を傾げることもできず、ただ黙って目を合わせた。何を言わんとしているのか分かったのは中川路と目澤だけだ。三人が黙って目を合わせ、「一応」などと言い訳じみた言葉を交わして、社長に向き直る。
「そこの網屋君。彼、イオリ・ヴォルフガング・サジマ氏の弟子ですよ、モーリッツ将軍」
社長はこれ以上ないほど目を見開いた。
「ヴォルフの?」
「ええ」
「……あのカタナ野郎の?! 弟子? あいつが弟子取った?! おい本当か?」
肩を掴まれて痛みに顔をしかめつつ、網屋は丁寧に答えてやった。
「はい。佐嶋さんから将軍……いや、隊長のお話はよく聞かされていました。中東では随分世話になった、と」
「中東どころじゃねえよ、フランスにいる頃からやりたい放題やりやがって……そうか、ヴォルフが、弟子か……」
社長の緊張が解けて、事情が分からないゴトウとアンヘルは顔を見合わせるしかできない。社長の方はというと、一人で笑い転げていた。流石にそこまで笑い転げる理由までは分からないので、医師達も肩を竦めるばかりだ。
ひとしきり笑うと、社長は笑いすぎて流れてきた涙を拭い、網屋の肩を何度も叩いた。「ぐあ」なんて変な声が出る。そりゃ当然だ、散々殴られた辺りだから。社長はそんなことお構いなし。
「お前、網屋つったな」
「は、はい」
「ヴォルフの電話番号分かるか」
「ええ」
「よし、後で教えろ。おいゴトウ、この件はチャラだ。こいつらを敵にする理由は無くなった。そっちもそうだろ?」
無言で肯定する医師達に満足気な笑みを浮かべるが、社長はまだ頷かない。
「でも……何か代償を支払ってもらいてぇところだなぁ」
「金銭はそれほどありませんので、提供できるものと言ったら一昔前の国連関連の情報くらいしか」
「いや、そりゃありがてぇがな、もっと簡単なことでいい」
にやりと笑うモーリッツ社長に、その場にいる全員が寒気のようなものを感じたのは間違いではなかった。