七日目
七日目。
夜。病院も明かりが消えて、時折聞こえるのは入院患者の咳き込む声。そんな音もさらに遠くなり、静まり返る事務棟。誰もいないそのエリアに、網屋の姿があった。
音もなく闇に紛れ病院の事務室に潜入する。ここの情報を丸ごとコピーして医師達に渡しさえすれば、とりあえず任務は完了だ。解析やらなんやらはやったことがないわけではないが、やはり要領を得ている人物に任せるのが一番。この場でそれを行えるほど自分に能力はないし、時間がかかってしまえばその分リスクが跳ね上がる。
何せここはトライバル・ダガー社専属病院だ、警備員の練度は普通ではない。それどころか、本社の連中がやってくる可能性だってある。それだけは避けたい。それだけは、何としても。
目をつけたデスクトップパソコンのケーブル類に専用の機材をまずは取り付け、さらにヘンリーから貰った専用のUSBを挿してから電源を入れる。これで、自動的に根こそぎ拾い上げる状況が完成する。あとは全ての情報を吸い上げるのを待つだけ。
潜入は専門ではない。いや、専門であったとしても、この『待つ時間』というものは怖ろしい。一刻も早く終わらせてしまいたい。進行率を示すバーが伸びる速度がやけに遅く感じられ、網屋は焦れる。まだか。まだか。70%、80%、90%……ゆっくりと、数ドット刻みでバーが伸びる。既に手はUSBを掴むべく準備済み。まだか、もう少し。まだか。あるかないかという程度に開いていた隙間がじりじりと埋まり、そして、ついに100%を示した。
網屋の手が素早くUSBを抜き去り、電源を落とすと同時にケーブルにつけた機材を外す。可能な限り現状維持。ケーブルの絡まり具合さえ崩さずに。
再び闇に包まれた事務室の窓を開け、最低限の挙動で外と、もう一度事務室の中を確認して、窓の縁に足をかけた。その、瞬間。
「動くな」
背後から聞き慣れた声。だがしかし、それは低く、怒気をはらんでいた。
「……何をやっていた、網屋」
少しだけ、ほんの少しだけだが、悲しみも内包しているように聞こえたのは、気のせいだろう。
網屋は振り返らない。しかし動くこともできず、接近する相手が自分の後頭部に銃口を突きつけるのを黙って享受した。
「何をやっていたと聞いている、網屋!」
「……申し訳ありません、ゴトウ大尉。その質問に答えることは、できません」
網屋と同じくほぼ完全武装したゴトウ。手にしたハンドガンのハンマーは起こされている。保持する両手はブレもせず、ただ一点、網屋だけを狙う。
網屋は振り向かないまま問う。
「いつから気が付いていたんですか?」
「ユリが、お前の得物が229だと言った時からだ。正直に言っちまえば直感だった。これ、という根拠はなかったが、疑念を完全に払拭することが出来ない限り……」
「警戒を怠る理由にはならない。基本に忠実であることは、この界隈では最も正しいことです」
言葉はそのまま網屋自身に突き刺さる。ゴトウがどれだけ気配を消すことに長けているか、目の前で見続けてきたというのに。湧いてしまった情は、警戒を怠る理由にはならない。
網屋は深く息をついて、レッグホルスターへと伸ばした手を引っ込めた。このまま戦闘に持ち込む? どう考えても得策ではない。相手のホームグラウンドでたった一人戦うほど、網屋は蛮勇ではなかった。少なくとも、今この瞬間は。
「降参です。この通り」
両手を上げて恭順の意を示す。さて、根比べは何年ぶりかな。そんなことを網屋は頭の片隅で考えた。
トライバル・ダガー社はかつて、大規模な襲撃を受けたことがある。その際に本社屋は破壊され使い物にならなくなった。で、あるが故に。新社屋は二十四時間体勢で厳戒警備を敷くことになっている。警備に回されるのは実働部隊の隊員達だ。これも訓練の一環、実戦の一環である。
それでもやはり、真夜中の警備は意識が拡散する。正面玄関の左側に立っていた一人がこっそりと欠伸を噛み殺した。特にやることもなく、ただ広大な社の敷地とにらめっこ。どうしたって眠気は出る。何回か目蓋を閉じたり開いたりして、欠伸とともに発生した涙を誤魔化す。
そんな時だ。遠くから、何か音が聞こえてくる。何かがこすれ合うような、それでいてとてつもなく大きな音だ。音のやってくる距離感からすると、これは爆音というやつだ。
すぐに気付いた。これはスキール音だ。それと、エキゾーストノート。それらが訳の分からない程の速度でこちらに迫っている。思わずもう一人の警備兵と顔を見合わせた。音のやってくる方向、即ち正面玄関前の広大な敷地に視線をやり、目を凝らす。微かに砂煙。点のように小さな青い何か。そいつは車だ。一台の青い車が、途轍もない速度でこの正面玄関へと突っ込んでくる。点程度の大きさであったものが見る間に拳大になり、さらに大きくなり、鼓膜ををつんざくエギゾーストノートはもう耳を塞いでも遮ることはできない。
警備兵の二人は思わず、手にしたPDWの銃口を正面に向けた。それは警護のための行為というより、迫り来る車両、その速度への恐怖心からであった。このままでは車ごと、この正面玄関に激突する……そんな怖ろしい未来予想図に対する、本能的な防御。しかし、頭の片隅で囁く理性。もう間に合わない、たとえ銃弾を放ったとしても止められるものではない。諦めるしか無い、こんな速度で突っ込んできたら、もう助からない……。
目を閉じてうずくまってしまいたい衝動を二人は堪えた。そこは流石トライバル・ダガー社の社員と褒め称えるべきだ。それ故に、彼等は一部始終を見た。アホみたいな速さで突っ込んできた青い車両が目の前で綺麗にターンを決め、正面玄関前にぴたりと駐停車する姿を。
停車した瞬間、ドアが開いて飛び出すように三人の男が姿を現す。スーツを着込んだ中年の男性達だ。呆気に取られていた警備兵はふと我に返り、誰何の声を上げようとした。しかし。
「動かないで」
眼鏡を掛けた男が笑顔でそう言った瞬間、強制的に体が止まった。恐慌状態に陥る警備兵の表情を確認して、眼鏡の男は残りの二人に語りかける。
「高速洗濯だからね、長続きはしないよ。あとでカンカンに怒ると思う」
「もうちょっと何とかならないのか、塩野」
「いきなりじゃ無理ぃー川路ちゃん無茶振りしすぎー。あーあ、地雷撒いときゃよかったなぁ」
「今更言っても仕方あるまい。中川路も手伝えよ」
「えぇ? 俺が戦力になるとは思えんぞ。目澤じゃあるまいし」
「塩野を守っていればいい、あとは俺がなんとかする」
「ヒュウ、かあっこいーぃ目澤っちぃー」
口調だけは軽く喋りながらも、三人の視線は鋭い。
「ぃよっし! んじゃあ行きますか! あのね、ここ開けて?」
眼鏡の男が警備兵の一人に語りかける。真正面から見据えられた彼は、逆らうこと無く鍵を開けた。今この瞬間だけは、鍵を開けて彼等を中に入れることが『正しいこと』として認識されているのだ。その正体は超高速の簡易洗脳。この数分だけでも保てば良い、そんな捨て身の正面突破である。
電源の落とされた自動ドアを手で引いて開けている間に、社屋の中から数人の兵士が駆けて来る。車の音で気付いてやってきたのか、それともドアの鍵が開いたことによって警報でも鳴ったのか。
「多分、発砲はしても本気で殺しには来ないと思う! 色々と面倒だから!」
「おい塩野、全くフォローになってないぞ?!」
「いや、十分だ。狭い通路を選んでいけば何とかなりそうだな。案内頼むぞ」
「あいあいさー!」
眼鏡の男が手にしたタブレットをいじる。表示されているのはこの社屋の見取り図。オールバックの男が先陣を切って中に入ると、既に目前にまで迫っている兵士達と目が合った。
「すまんな、押し通る」
謝罪を言い終えるよりも早く男は動いた。瞬間的に距離を詰めると、一瞬の躊躇いを見せた兵士二名の間に入り込む。すかさずヘルメットの顎紐を掴み下に引いた。突然のことに対応できず膝を折る二名。姿勢が崩れたところを、顎紐を掴んだまま前に押し出すように倒す。踏ん張ることができず、兵士達は後頭部を床にしこたま打ち付けた。ヘルメットのおかげで大事には至らなかったものの衝撃は避けられない。頸部にも負担は掛かり、一瞬、視界が眩んだ。しかし男は止まらない。そのままでは終わらない。顎紐を掴む手を離し、体重を掛けて両者の鳩尾に拳を撃ち込んだのだ。硬い床と挟まれる形で打撃を食らった二名は残念ながら意識を手放すこととなった。
残った一人は躊躇うこと無く向かってくる。他の二人に「目澤」と呼ばれていた男は内心で彼の行動を褒めた。流石、訓練された兵士だ。良い対応である。だが攻撃の手を緩めるはずもなく、サブマシンガンのスリングを掴んでこれまた引きずり倒し、こちらは全力で顔面を近くにあった受付のテーブルに叩きつけた。彼もまた、脳震盪を起こし倒れ伏す。
兵士達をなぎ倒す様に、残りの二人は驚きもしない。
「うーん、多分ここだと思うんだがなあ。どう思う、塩野」
「僕もそう思う。ここの間取りだけ変だもん。捕虜とっ捕まえて放り込んでおくならここにする」
やけに美形な色男と眼鏡の男はタブレットと睨めっこしながら話し合いをしている始末だ。
「おい目澤、この先の突き当りを右。エレベーターに乗るぞ」
「そんでもって、上に参りまーす」
「突き当りを右だな」
喋っている間に、玄関先で動きを封じられた警備兵の片方が憤怒の形相で迫ってくる。簡易洗脳という魔法が解けてしまったのだ。色男がすぐに気付き、身を低くして上手く相手の懐に飛び込むと腕を掴んで捻り上げ、さらに腕を掴んだまま強引に背後へと回りこんだ。当然、腕は無理な方向に曲がり動きが制限される。空いた片手で背中側から肩に手を当て、掴んだ腕を引っ張り気味にして捻り、色男は警備兵の肩関節を外した。嫌な音と、警備兵の絶叫。
「うー、怖い怖い。銃器持ってる相手はやっぱり嫌だな」
「中川路、その調子で次も頼むぞ」
「えぇ……俺、格闘担当じゃないんだぞぉ?」
そんな会話を交わしている間に、奥の方から複数の駆けてくる足音。
「ぐずぐずしている暇はない、か。急ごう」