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トイレの扉から白い明かりが漏れて見える。俺は扉を開けて中に入った。小便器は使われていなかった。二つ並ぶ個室の内、壁側の方には誰もいない。出入り口に近い方の扉が閉ざされている。昨夜俺が使っていた個室だ。俺はその扉の前で待った。
俺があんなひどい目に遭った直後なのに、俺から話を聞いている人間ならば、普通はこのトイレを使わない。たとえ一階のトイレが故障してもだ。それなのにライン長はここに入った。考えられる理由は一つしかない。
扉の向こうからライン長の悲鳴に近い声が聞こえてきた。
「勘弁してくれ!もう出てこないでくれ!あんたには世話になったが、俺の力じゃどうしようもなかったんだ!社長や工場長だって止むを得なかったんだ!みんなあんたには悪いことをしたと思っている!だからもう許してくれ!」
静寂が支配するトイレの中でライン長の悲鳴と低い嗚咽だけが続く。やがて扉が開いてライン長が出てきた。水を流す音は聞こえない。ライン長は目を真っ赤にして、泣き腫らしている。ライン長は俺の姿を見て少し驚いた後、諦めにも似た表情を浮かべた。
「やっぱり。あなたにも見えていたんですね」
「ああ、そうだよ。俺にも見えるんだ。俺だけじゃない、この工場に勤めている奴はみんな見ている。見えていないのはお前の同期の若い奴らだけだ」
「俺にはあなたの声しか聞こえませんでした」
「他の社員と何回か試してみたが、個室の中にいる者だけが見えるらしい」
「どうして供養してやらないんです?成仏してもらえばいいじゃないですか」
「もう何度もやったよ。何人も坊さんを呼んで。有名な祈祷師にお祓いもしてもらった。だけど成仏しないんだ。余程強い霊らしい。今じゃベテラン社員は誰も二階のトイレは使わない」
「何で俺に本当のことを教えなかったんですか?」
「今の若い奴らはすぐネットに流すからな。幽霊が出る会社だって世間に広まったら、取引に影響が出るかもしれない。やっと業績が回復しかかってきているんだ、ここで会社が潰れたら、ほとんどの社員が路頭に迷うことになる。お前の話を聞いた時、まだ全部を見た訳じゃないとわかった。だから、その場で軽めの話をでっち上げて、脅しをかけておけば何とかなると思ったんだ。だけど、あんなことになるとはな……」
「会社を潰したくないから、みんな本当のことを黙ってきたんですか」
ライン長は、たった今自分が出てきた個室を振り向いて言った。
「そうだよ。予算がないから、トイレを作り変えることも、工場の移転もできない。俺にできるのは、ああやって謝り続けることだけだ」
やはりそうか。ライン長はトイレを使うためにここに来たのではなく、幽霊に会うために来たのだ。
ライン長は俺に向き直って深々と頭を下げた。
「怖い思いをさせてすまなかった。やっぱりお前は霊感が強いんだよ。だからあの人と無関係なのに見えるんだ。だけど、まだ若いんだからどこにだって行けるし、何だってやれる。でも歳を食った家族持ちの俺達はここで働き続けるしかないんだ。頼むよ、このことは黙っていてくれ。お前に嘘をついた俺がこんなことを言う資格はないのはわかっているが、頼むよ……」
「誰にも言いませんよ。言ったって信じてくれる訳がないでしょう。でも、本当にこのままでいいんですか?ずっと怖い思いをしながら働くんですか?」
「心配してくれてありがとうよ。多分大丈夫だよ。お前も知っているだろうけど、直接危ない目には遭わないんだからな」
「そうかも知れませんが……」
「それでも、あの人が首を吊った方の個室に入ることだけはできないんだ。あそこに入ったら、一体何が起こるのか、入った人間がどうなっちまうのか、考えるだけで恐ろしい……」
「ライン長……」
「俺をライン長と呼ばないでくれ。ここではあの人がライン長なんだからな……」
ライン長がある一点を見つめながら力なく答える。俺はその視線を追った。扉が開け放たれた、誰もいない壁側の個室の中で、古びた洋式便座が蓋を閉じたまま佇んでいた。
俺は再び東京に戻って、コンビニの昼のバイトで食いつないでいる。
生きるだけで精一杯の稼ぎだが、もう二度と夜勤はしたくないし、ましてや地方の工場勤めなんて二度とやるつもりはない。
ぜったいやらないぞ!




