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「うわっ、うわわっ!」

 隣で起こっていることを理解した俺は言葉にならない悲鳴を上げて便座から床にずり落ちた。こんな状態でも水のような便を垂れ流し続けているが、それが下痢なのか、恐怖のための脱糞なのかは最早わからない。 

 左壁は靴で荒々しく蹴り付けられ、爪で激しく掻きむしられて凄まじい騒音の塊と化していた。声が聞こえないのは、首が完全にネクタイで締め付けられているせいだろう。

 俺は恥も外聞もなく、自分がいる個室から逃げ出そうとしたが、扉の鍵を開けはしたものの腰が抜けてしまい、尻餅をついたまま無様に両足を床に擦り付けることしかできず、目は左壁に釘付けになったままだった。

 壁を引っ掻く音と蹴り付ける音は徐々に上の方へと移動している。普通ならば無理なことだが、死に物狂いの力が不可能を可能にしているのだ。

 このままここに居続ければ、とても嫌なものを見る。

 俺の心の中で今尚僅かに残る冷静な部分が、しきりに警告を発していたが、体が言うことを聞かない。ただ悲鳴を上げて騒音の移動先を目で追うことしかできなかった。

 そして恐れていたことが起きた。左壁の上縁を、浅黒く太く、小刻みに震える血の滲んだ十本の指先が現れて掴み、少し遅れて白髪が混じる五分刈りの頭頂部が痙攣しながらゆっくりとせり上がってきた。

 俺は意識を失い、暗転していく視界の中で、十本の指と五分刈り頭は力尽きて壁の向こうに消えていった。

 

 その後はちょっとした騒ぎになった。二階のトイレを使うために上がってきた同僚が、下半身丸出しのまま糞尿まみれで失神している俺を発見して、救急車を呼んだのだ。

 目が覚めた時は明け方の病院のベッドの上。付き添ってくれた同僚から聞いた話では、他の誰かが警察も呼んだらしく、現場調査のためにその日の夜勤は中止になったという。あの状況では何かの事件に巻き込まれたと思われても無理もない。事実、俺にとっては大事件だった。

 検査で異常なしと判断され、即日退院した俺はそのまま仕事を辞めた。醜態を晒したせいで良からぬ噂を立てられているだろうし、何よりも二度とあの工場で働きたくなかったからだ。

 だが、ライン長にだけは本当のことを話しておかなくてはと思ってもいた。

 たとえ誰にも見えなくとも、前任のライン長はあのトイレの個室にいる。俺自身も直接顔を見ることはなかったが、彼があの場所にいることは確信した。怖い思いをさせられたが、供養なりお祓いなりして、彼を成仏させてやってほしいというのが俺の正直な気持ちだった。

 警察での事情聴取や退職の手続き、寮の荷物の整理などで時間がかかり、手が空いたのは夜になった後だった。

 ライン長はこの日は夜勤だった。夜中に再び工場に行くのは気が進まなかったが、これが最後だと我慢して出向くことにした。

 工場では相変わらず若い連中だけが働いていた。顔なじみの元同僚に声をかけて退職の挨拶に来たと言うと、ライン長はトイレで用を足しているとのことだった。

 俺はしばらくその場で待っていたが、いつまで経っても戻ってこない。

 俺は仕方なくトイレに行った。

 一階のトイレは扉に修理中と書かれた紙が貼られていた。またしても故障しているらしい。

 ライン長は二階のトイレを使っている。

 俺はある種の予感を抱きつつ、二階のトイレに向かった。

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