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「前のライン長はいい人で、誰からも好かれていた。茶目っ気もあってトイレの個室に入っている時に、壁をこつんこつんと軽く叩いて隣に入っている奴を少しびっくりさせることがあった。俺も何度かやられたよ」
「そうなんですか。でも、誰もいなかったですよ」
「話はここからだ。三年前まで不景気のせいでこの会社は業績が悪くてな。やむを得ずリストラで何割かのベテラン社員を解雇したんだ。前のライン長も対象者の一人で、傍から見ても痛ましい程にショックを受けていたよ。何十年もこの仕事をやっていて、気に入っていたんだろうな。定年まで勤めるつもりでいたんだ。落ち込むのは当然だ。でも誰もどうにもできなかった。そうしなけりゃ会社自体が潰れていたよ。解雇を言い渡されてからもあの人は数日間は勤めていたんだが、夜勤をやっている時に突然工場内で首を吊ってしまった」
「ま、まさかあのトイレで?」
「二階のトイレ、お前がいた個室の隣だよ。上にあるパイプにネクタイをかけて」
「じ、じゃあ幽霊ですか?そんな話は聞いてないですよ」
「俺だってお前から初めて聞いたよ。あれから三年間、俺を含めて夜勤時間にあのトイレを使った者は大勢いるけど、そんな経験しなかったからな。どうやらお前は霊感が強いらしい。だからライン長は出てきたんだよ」
「嫌ですよ!そんなことなら夜勤は二度としません」
「そう言うなよ。近頃ようやく景気が良くなってきて人手が足りないんだ。元々お前や、同時期に採用された若い連中には時々夜勤をやってもらうつもりだった。だから正社員になれたんだぞ。それぐらいわかるだろう?」
「そのことは何となく気付いていましたが……」
「幽霊が出るから夜勤はやりたくないなんて話が通ると思うか?俺を含めて誰も見ていないんだぞ?工場長や社長が納得すると思うか?」
「で、でも」
「あまり気にするな。二階のトイレを使わなきゃいいだけだ。それに壁を軽く叩いただけなんだろう?生きている時に俺がやられたのと同じだよ。少しびっくりさせるだけだ。この話はこれで終わりだ。今度も夜勤をやってもらうぞ。断ったら職務放棄として上に報告する」
「そんな……」
「これから仕事なんだ。じゃあな」
ライン長は俺から離れると足早に持ち場に向けて去っていった。途中で一度振り向いて声をかける。
「二階のトイレには行くな!」
一人残された俺は、ライン長の言ったことを心の中で反芻していた。幽霊など信じがたい話だし、自分に霊感があるとも思えない。からかわれていると考えるのが普通だ。
俺は工場を出る前に少し調べてみた。他のベテラン社員を数人つかまえて三年前のことを聞いてみると、彼らは言いにくそうだったが教えてくれた。
どうやら二階のトイレでそういう事故があったことは本当らしい。だが、幽霊など見たことはないというのが全員の答えだった。ライン長の話と一致する。
俺は再度二階のトイレに行ってみることにした。もう一度現場を見てみたかったからだ。幽霊は怖いが、早朝の人が大勢いる時間に出ることはないだろう。行くなら今のうちだ。
通常勤務が始まったばかりなので二階のトイレは誰も使っておらず、作業ラインとは隔絶されたかのような静けさに包まれていた。俺は二つ並ぶ個室の内、昨日使ったそれの隣にある、奥の個室の前に立った。
地方の土地が余っている場所に建てられた古い工場だからなのか、個室の面積は広めになっている。そこに何の変哲もない、どこにでもある洋風の便器が中央に設置されていた。上の方に目をやると、天井から直径十センチほどの太さの金属製パイプが右から左に吊り下げられており、俺が使っていた隣の個室に伸びていた。水道管だろうか。
あのパイプにネクタイをかけたのか。大分高いところにあるが、便座の上に立てばそれほど難しくなさそうだ。ネクタイで大きな輪を作って首を通す、その後は便座から横に飛び降りれば天井と床の間で宙吊りになる……。
想像しているうちに嫌な気分になってきたので、俺は急いでトイレから出て、そのまま寮に帰った。その日はテレビをぼんやりと見ている内に眠ってしまった。
それから数日は通常勤務が続いたが、その後に恐れていたことが起きた。ライン長が言っていた通り、夜勤を命じられたのだ。断れば最悪の場合解雇されてしまう。
大丈夫だ。二階のトイレに行かなければいいだけだ。そう言い聞かせて俺は夕闇の迫る中、寮を出た。




