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長いこと失業していた俺だったが、この間やっと再就職が決まった。地方にある部品工場のラインで加工作業をする仕事だ。正直興味がある訳ではなかったが、全くの未経験にも関わらず正社員としての採用だったし、社員寮もある。何より金が尽きかけていたので、贅沢は言えない。俺は久々にありつけた仕事をするべく東京を離れた。
短い研修期間を経て本格的に仕事を始めた。二階建ての古い工場の中、単純作業を延々と続けるので最初はつらいとは思ったが、慣れると逆に面白さを感じるようになった。同時期に入ってきた同僚達も感じのいい人間ばかり、物価もそれほど高くないので、俺はこの職場に居心地の良さを感じるようになった。
勤めて一ヶ月が過ぎる頃、俺はライン長から夜勤を命じられた。この会社はここの所、業績が良くなってきており、こういったことはこれからしばしばあるらしい。だから俺を始めとした若者達が採用されたのだろう。
真夜中に働くのは面倒だったが、これも仕事だ。渋々ながらも俺はそのことを顔には出さずに夜勤を受けた。
翌日、他の工員達が工場を出るのと入れ替わりに俺は出勤し、これまでとは別のラインに入った。そこにいた者達は皆、俺と同時期に採用された寮住まいの連中で歳も近い。夜中の作業を早く終わらせたいらしく、皆黙々と作業に専念していた。俺も同じ気持ちだったのでひたすら手だけを動かすことにした。
真夜中の十二時を回る頃、俺は便意をもよおした。近くの者に声をかけてトイレに向かう。しかしこの日、いつも使っている一階のトイレは扉に修理中と書かれた一枚の紙が貼られていた。古い工場なのでトイレもそれなりだ。昨日使った時に水漏れがしていたのを俺は思い出した。
この建物にはトイレは各階に一ヶ所しかない。俺は仕方なしに間近にある階段を上って、二階にあるトイレに向かった。
経費節減のため、夜中の二階は非常灯以外明かりはない。トイレも未使用の時は真っ暗だ。出入り口の近くにある照明のスイッチを入れて、無人のトイレに飛び込んだ。
トイレの配置は一階のものと同じで、出入り口の扉を開けて右側の壁沿いに洗面台が二つと小用の便器が三つ、左側の壁に大便用の個室が二つ並んでいる。要するに、ごくありふれたトイレだ。
急いで出入口に近い方の個室に入った。中では古い洋式の便器が、便座の蓋を閉じて俺と正対している。
個室の扉を閉めて便座の蓋を跳ね上げ、半回転して扉に向き直ると下半身を露にして無造作に便座に座った。
他人と比べたことはないが、俺は用便の時間が短い。この日も手っ取り早く事を終えて便座から立ち上がろうとした時、それは起きた。
こつん。
左から、壁を軽く叩く音が聞こえてきた。左にあるのは隣の個室だ。
俺が用を足している最中に誰かが入ってきたのだろうか。しかし、そんな気配はなかったし、なにより何故トイレの壁を叩くのか。俺は不審に思いながらもズボンを履きなおして個室から出た。
左の個室を見ると扉は開いており、中には誰もいない。この場所にいるのは俺一人だった。
気のせいか。しかし確かに壁を叩く音を聞いた。一体何の音だったのか。俺は首を傾げながらトイレを出た。
次の日、通常出勤してきたライン長との引継ぎの際にこのことを話すと、彼は少しの間考え込んだ後に顔を曇らせながら呟いた。
「そりゃきっと、ライン長だ。」
「ライン長?ライン長はあなたでしょう」
「俺の前にいたライン長だよ」
彼は周囲を見渡して近くに誰もいないことを確かめると、小声でささやいた。




