四日目②
●四日目 午後八時三十九分
人もまばらな空港内ロビー。外には既に夜のとばりが下りており、ガラス張りの壁の向こうに広がる闇と、屋内の照明の明るさとが相まって、空港内の閑散さが余計に際立っていた。
そんな中、相澤は保安検査場前のベンチにいた。他の生徒たちは、帰路につくために既に空港内の駅へと移動しており、相澤のいるターミナルには、生徒は誰一人として残っていなかった。自身の乗る電車が来るまでの短い時間、相澤は、倒れこむようにベンチに座って天井を仰いでいた。
そんな彼女に、制服姿の人物が一人近付いてきた。
「よう、相澤」
「……なんだ、本田クンか」
声の聞こえた方に首だけ動かし、相澤は本田の姿を確認する。
相澤のその様子に、本田は薄ら笑いを浮かべた。
「随分疲れた顔してるな」
「ああ。君のせいで、今回散々な目にあったからね。そりゃ疲れもするわよ」
「……何かあっただろ、お前。今朝から様子がおかしいんだよ」
相澤を勘繰るような言葉に、相澤は思わず声にならない笑いをこぼす。
……何かあったのか? じゃなくて、何かあっただろって断定で聞いてくるんだもんなあ。
ああ。
これだから、素頭の良い奴は嫌いなんだ。こちらが隠したいことでも、ちょっとしたことから察して探りを入れてくる。普通に会話をするだけで疲れるったらありゃしない。
……ま、本田クンにはちゃんと話そうとは思ってたけど。
元々こちらから巻き込んだ案件だ。彼には事実を知る権利があるし、私にも事実を話す義務がある。菊谷にしたような、嘘八百を並び立てた話をしたくはない。けど、
……若鷺丞の存在を悟られないように、説明をしないとね。
誰かに今回の事件のことを話すにしても、自分の名前を出さないこと。それが、昨晩情報を教えてもらう前に、若鷺から出された条件だった。
全てを知った今となっては、いやいやお前が行動したところとかどうやって誤魔化せばいいんだよと思うが、話を聞く前にこの条件を飲んでしまっている以上、今さら取り消す訳にはいかない。
本田に納得のいく説明をするのは骨が折れるなあと思いつつ、相澤はゆっくりと頭を起こす。
「昨日の夜、匿名でタレこみがあってね。犯人とか、動機とか、いろいろ全部分かっちゃったのよ」
「今朝、もう聞き込みをしなくていいって言ってきたのは、それが理由か」
「そう」
「――じゃあ、僕のせいっていうのは?」
……誤魔化すならここかな。
先程、相澤がうっかりこぼした発言に言及してきたことを僥倖に思いながら、相澤は仕掛けにかかる。
「本田クンって、今まで女性関係のトラブルに巻き込まれたことってある?」
これまでの会話の内容からずれた問いかけに、本田は訝しんだ表情を浮かべるが、思い当たる過去があったのか、彼は考える素振りをみせる。
「……まあ、あるけど。…………もしかしてそれが原因か?」
相澤は口には出さず、口角を上げることで肯定の意を示した。
「君に片思いをしてる女の子が、私と本田クンの関係を勘違いしてね。私のローファーを持ち出したはいいものの、結局罪悪感に耐えきれずに、部屋に直接返しに行った。だけど、その時パニックを起こして、冷静な判断ができなかったんでしょうね。その場にあった夏川さんのローファーを、自分のローファーだと勘違いして持ち出した――って、訳」
「……犯人の名前は?」
「菊谷万寿美。十一組の生徒」
「成程。知らない名前だな」
……当の本人から認識すらされてねえのかよ。
本田らしいともいえる発言に、さすがの相澤も菊谷に対して憐憫の情を抱いてしまう。
「……青空と夏川には? もう言ったのか?」
「夏川さんには伝えた。岡本クンにはまだ何も」
夏川には、飛行機から降りた際に事件が解決した旨を伝えていた。先程本田に話したのとはまた違う、詳細をかなり省いた説明だったが、夏川はそれに、困ったような笑顔でそっかと返したきり、何も追及してはこなかった。隣で話を聞いていた竹中と立花は、相澤の説明に最初納得のいかない顔をしていたが、当事者である夏川があっさり引いたことで、一応の収まりをみせた。
……でも、多分気付いてたな、夏川さん。
二年で同じクラスになってから半年、夏川を観察していて分かったことがある。学年カーストでいうと中位。本人はカースト関係なく、誰にでも分け隔てなく接していてお人好し。天然そうにみえるけど、決して愚鈍ではない。
……私が言いたくないことがあると察して、あえて何も聞かずにいてくれた気がする。
この借りは何かの形で返さないとなあと、相澤はひそかに決意する。
「青空には僕から上手く言っておくよ。お前から言うより、僕から言ったほうが、あいつも納得するだろうから」
「……それもそうか。じゃ、岡本クンは本田クンに任せる」
応と言って、本田はきびすを返す。その姿を、相澤は横目で見送りながら、腕時計で時間を確認する。
……そろそろ移動しないと、電車に乗り遅れるかな。
相澤はベンチから立とうとするが、本田に名前を呼ばれ、座ったままゆっくりと振り返る。
「今回、なんで僕がお前を助けてやったか分かるか?」
知ったことかと思うが、確かに気になることではあった。本田は、本来他人の厄介事には関わろうとしないタイプの人間だ。最初本田に協力を仰いだ時、開口一番に断られることを想定していたのだが、何度か小言を言われはしたものの、結局最後まで付き合ってくれたのだ。本田なりに、何か考えがあってのことなのだろうと思ってはいたが、
……どうせ聞いても教えてくれないだろうし、このまま流すつもりだったけど、本人が話すつもりならその流れに乗らせてもらおう。
「んー…。私の涙にやられたから?」
「まあ、そんなとこだよ」
「……え、マジで?」
「快楽主義者」を名乗っている以上、分からないと答えるのは性に合わない気がしたため茶化したつもりだったのだが、意外にも言い当ててしまったことに、相澤は顔を引きつらせる。しかし、そんな相澤を前にしても、本田は特に気にすることなく言葉を続ける。
「お前から最初メールがきたとき、いつもみたいに厄介事を押し付けられるようだったら、なにがなんでも断ってやろうって思った。それでいざ会ってみれば、ソファーで体育座りして一言も喋らないわ、喋ったと思ったら泣き出すわで、正直手に負えないと思ったよ。
――けどな。知ってる奴から泣き付かれて、それを無視できるほど、僕は薄情者じゃない。お前に協力したのは、それが理由だよ」
本田の言葉に、相澤は思わず目を見張る。
本田が相澤に手を貸してくれた理由に、ではない。本田が自分のことを、非常時には助けてやってもいい程度には心を許されていることに、彼女は驚いていた。
……いや、だって思わないでしょ。
元々本田からなるべく距離を置かれていることには気付いていたし、その上で毎回厄介事を持ちこんでいたのだから、疎まれはすれど、心を許されているなんて思いもしなかったのだ。
「ま、お前相手に一つ貸しを作れるっていう魂胆もあったけどな」
「最後の最後で台無しすぎるでしょ」
まごうことなき本田のぶっちゃけに、相澤は思わず突っ込みを入れるが、
「……まあ、でも、そっかー」
と、照れくささを隠すように、彼女は本田から目をそらして正面を向く。
「じゃあ、今度から本田クンに何か頼む時は、とりあえず泣き落とししてみるかな」
「ふざけるな。次同じことやったらはったおすからな」
相澤がわざとおちゃらけた口調で言うと、本田はそれを本気に受け取ったのか、盛大に不快感を含めた拒絶の声を上げる。
「貸し一つ、だからな。後で何らかの形で返せよ」
右手を上げることで相澤が了承の意を示すと、本田はその場から立ち去っていく。遠ざかっていく足音で、相澤がそれを確認していると、ふいにその音がまた近付いてきたことに気付いた。
「あと、これやる」
そう言われ、ポンと頭の上に何かを置かれる。手探りで何かを手に取り、目の前まで持ってくると、
「…………じゃ○りこ?」
ホテルの部屋からなくなり、夢の中でまで探し求めていた物が、手元にあった。本田からじゃ○りこを渡されたことに脳の処理が追いつかず。相澤が呆然としていると、本田が吐息混じりに口を開く。
「結局見つからなかったんだろ、それ。事件解決した手柄だとでも思っとけ。それじゃ、また学校でな」
片手をひらりと振りながら立ち去っていく本田の姿に、相澤は思わず呟いた。
「めっちゃイケメンじゃん。本田君」
不覚にも、相澤が本田にときめいた瞬間だった。
***
●四日目 午後九時二分
空港内の駅から発車した電車は、海上の線路を抜け、夜の住宅街の中を走っていた。まばらに灯っている明かりを座席から眺めながら、相澤は一人、電車に揺られていた。
疲労からくるあくびを咬み殺していると、ふいに声をかけられ、相澤は真っ黒な車窓越しに声の人物の姿を見る。
「香楽、隣いい?」
十勝は、いつものように人のいい上辺だけの笑顔を浮かべ、通路から相澤にお伺いをたててきた。相澤は十勝に直接目を向けようともせず、ぶっきらぼうに返事をする。
「いいけど、指定席だから、車掌さんに言ってチケット変えてからにして」
「大丈夫。もう変えてもらった」
……最初から座る気満々じゃねえか。
相澤が内心で毒づいている間に、十勝は相澤の隣に腰掛ける。
「菊谷さんとは、上手く話をつけたみたいね」
「……毎度のことながら、あんたのその情報の速さは何なのよ……」
フフ、と十勝は笑うと、それ以上喋ろうとはしなかった。このことについて深く突っ込むな、ということだろう。
「まあ、明らかに向こうの過失だしね。口外されたくなかったから、大人しくしておけよ、と」
「成程、脅した訳だ」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? 誠心誠意心をこめてお願いしただけよ」
「ま、どっちにしたって、随分と甘いやり方だけど」
「甘い?」
「今回の香楽の行動、私が定義した「快楽主義者」からだいぶかけ離れたものになってたけど。「快楽主義者」を演じてた今までの香楽なら、自分をいじめた相手を都合のいい駒として揺すり続けてやろうぐらいは考えたはずだよ。――「快楽主義者」ぶるのは、もうやめたのかな?」
十勝のその言葉に、相澤は思わず目を見張る。何か言い返そうとして、窓に映る自分の姿に、動揺が顔に出てしまっていることに気付き、すかさず十勝の様子を探る。
十勝は相澤を見るでもなく、何が楽しいのか口元に笑みを浮かべたまま、相澤の返事を待っているようだった。
相澤は内心で安堵の息を吐くと、十勝に動揺を悟らせないよう、なんてことなさそうな表情を作ってから口を開いた。
「そうよ」
「――へえ、なんで?」
「飽きたからに決まってるでしょ」
……嘘だ。本当は、「快楽主義者」を演じ続けることに、限界を感じていたからだった。
そもそも相澤香楽は、他人の言動にいちいち心を動かされる人間ではない。他人が喜んでいるのをみて、微笑ましく思うことも憎らしく思うこともなく、他人が悲しんでいるのをみて、憐れむこともなければ悦に浸ることもない。彼女は、元来他者への関心が低かった。
では、何故相澤は、自らのことを、人間の感情の変化を観ることを悦ぶ「快楽主義者」と名乗っているのか。話は、彼女が高校に入学する前までに遡る。
中学時代、相澤は比較的大人しい生徒だった。大人しいといっても、教室の隅でいつも静かに本を読んでいるというものではなく、いつもしかめ面をしていて、普段誰とも喋らない、というような大人しさだった。
だが、高校に上がってから、相澤はいわゆるキャラクターというものを変えた。しかめ面ではなく、人の良さそうな笑みを浮かべて。誰とも喋らないのではなく、積極的に人と関わる。これまでとは真逆の、ともすれば道化ともとれるような役回りを、彼女は演じていた。
そんな相澤にある転機が訪れたのは、高校に入学してすぐの勉強合宿のこと。
当時、相澤は十勝と一切の面識がなかったのだが、十勝は開口一番相澤にこう言い放った。
「そのキャラ、演じ続けるのきつくない?」
十勝は、相澤のキャラクターを否定する代わりに、「快楽主義者」という新しい立場を提案した。より厳密にいえば、「快楽主義者」が「快楽」を求める存在であり、その「快楽」が人間の感情の変化を観察することであると定義をしたのだ。相澤は、十勝から定義されたものを、これまでただ真面目に演じていただけだったのだ。だが、
……辛くなってきたのよね。
元々他人への関心が薄い相澤に、他者への興味を持ち続けなければならない「快楽主義」の在り方は、非常に疲れることだった。なにより、人の感情をみて悦ぶということは、悲嘆や絶望という感情にも悦びを覚えなければならないということでもあった。
……私、人の不幸を喜ぶタチじゃないんだよなあ。
十勝の定義した「快楽主義者」であろうとすればするほど、本来の自分からかけ離れたものになっていく。そのことを危惧した相澤は、「快楽主義者」であることをやめようか悩んでいた。
そして奇しくも、今回の事件をきっかけに、相澤はそれを果たすことに成功した。
……叶からそれを指摘されて、っていうのが、予想外だったけど。
「快楽主義者」をやめる云々の話を、相澤は十勝に話すつもりがなかった。十勝は、相澤の「快楽主義」を定義した張本人ではあったが、だからといっていちいち報告をするまでの義務も義理もないだろうと、相澤は考えていたからだ。
……まあ、単純に言いたくなかったっていうのもあるけど。
相澤は、十勝とは友人という関係を続けてはいるが、彼女に対して決して心を許している訳ではなかった。
……だから言わなかったのに、勘付かれるんだもんなあ。
嘘をついて、誤魔化して、これ以上探られないように、相澤はそれとなく話をそらす。
「というか、あんたがいう「快楽主義」って、本来の意味とは真逆のものだしね」
「あれ、気付いてた?」
そもそも快楽主義とは、人間の究極目的であるとされる「最高善」へと到達するために、エピクロスが提唱した考えのことだ。
快楽主義自体の根っこの考えが、「人生の目的は快楽であり、快楽こそが最高の善である」というものからか誤解を受けることが多いが、エピクロスの唱える快楽主義は、肉体的な快楽や瞬間的な快楽を対象としたものではない。
彼曰く、快楽とは肉体において苦しみがなく、魂において乱されることのないものであり、持続的かつ精神的なものを指している。
例えば、小説を書くことを自分にとっての「快楽」だと考えている人がいるとする。本来であれば、小説を書けば書くほど、その人は「快楽」を得るが、何作も書いていくうちに、身体を壊してしまったり、他者から称賛を受けることにこだわるようになり、「快楽」を得ることがどんどん難しくなっていく。「快楽」を求めようとすればするほど、「快楽」から遠ざかっていくのだ。
自分自身の最大幸福を追求するのではなく、他人や世俗的なことから距離を置き、不満や不快から遠ざかることで、快楽を得ようというのが、エピクロスの唱える快楽主義本来在り方なのであり、十勝のいう「快楽主義」とは、全く正反対の考えなのである。
「倫理の授業で私が何を学んでると思ってるのよ」
「少なくとも自分の生き方を見つめるためじゃないでしょう。倫理の授業を何で高校でやるか、知ってる? 香楽」
「受験のためじゃないの」
「睡眠と課題をやるためよ」
「いや、授業を受けろよ」
一呼吸置いて、二人は顔を見合わせて笑い出した。周りに聞こえないよう、二人は必死に声を押し殺して笑っていたが、耐えきれなかったのか、時々フッ、やク、という音が漏れ出ていた。
時間にして数秒、ひとしきり笑って満足したのか、十勝が愉快そうに相澤に言葉を投げる。
「で? 「快楽主義者」をやめて、香楽はこれからどうするの? 高校二年の半ばでキャラ変するのは、さすがに変な目で見られると思うけど」
「別に、ここまで築いてきたものを、まるきりなかったことにするつもりはないし。大体は「元」のままで、テイストをちょっと変えるだけだから」
相澤の答えに、十勝は意味ありげに、ふうんと呟くと、
「ま、いっか。それでも」
と独りごちる。
「……何よ、それでもって」
「いーや、こっちの話。ところで香楽、ローファーの謎は解けた訳だけど、じゃ○りこの方はどうなったの? 丞もじゃ○りこに関しては何も知らないみたいだったし。ちゃんと見つかった?」
「あー…」
鞄の中に入っているじゃ○りこを想いながら、相澤は曖昧な声をあげる。
……正直、ローファーの方に夢中になりすぎて、途中からじゃ○りこの存在を忘れていたというか……。
本末転倒にも程があるだろう、私。
「……まあ、結局、見つからなかったけど……。うん。良いのよ、もう」
「え、何それ。あんなに躍起になってた癖に」
「当事者の全員が、じゃ○りこに関しては何も知らないって言ってたし。大方、ホテルの掃除の人が、ごみと間違えて持っていったとか、そんなんでしょ」
というか、もうそういうことにしたいの。
そう言って、相澤は座席にゆったりともたれて、目をつぶる。
これから自分を待ち受けているであろう不確定の未来に、彼女はもう、期待と不安を偽ろうとはしなかった。