四日目
●四日目 午後六時五十二分
修学旅行四日目。那覇空港から飛び立った、帰りの飛行機の中。
シートベルト着用のサインが消えると同時に、相澤は前方の座席の様子を探る。ある生徒が立ちあがったのを確認すると、自身も座席から離れ、その生徒が座っていた座席に何の躊躇もなく座り込んだ。
その隣にいる女子生徒は、相澤が座ってきたことに気付くと、戸惑いの表情を浮かべ、何度か目を泳がせるが、意を決したように相澤に話しかけてきた。
「……あの、相澤さん? 席、間違ってるけど」
「知ってる。今だけ変わってもらった」
相澤は淡々と答えると、女子生徒の顔をちらりと見る。
「面倒だから、もう単刀直入に言うわね。私のローファー持ってったの、あんたでしょ」
***
●三日目 午後九時
「さすがにそこまで頭は悪くないか。相澤香楽」
鼻先でせせら笑う若鷺を、相澤は半目で睨みにかかる。二人の間に張りつめた空気が流れる中、相澤の後を追うように部屋の奥にやってきた十勝が、まあまあと仲裁に入ってきた。
「ほら、丞は喧嘩腰でいかない。香楽はそんな目で丞を見ない」
茶化すように言いながら、十勝は二人の間に入ると、若鷺の隣に勢いよく座った。
「丞、香楽に話したいこと、あるんでしょ? ――だったらせめて、その姿勢を見せないと」
若鷺は、十勝から相澤へと視線を移し、無感動の目で相澤を見ていたが、
「――――――ハア」
相澤から視線を外して浅く息を吐くと、若鷺は静かに語り始めた。
「――今日の海水浴でのことだ。まあ、長くなるから適当に座れ」
***
若鷺に促されるまま、相澤はもう片方のベッドの縁――相澤から見て若鷺が右斜め正面になる位置――に腰を下ろす。
若鷺は、相澤が話を聞く態勢になったことを確認すると、再び口を開いた。
「十一組の菊谷万寿美は知っているか?」
若鷺の問いかけに、相澤は首を横に振る。
「……いや、話したこともないと思うけど」
十一組といえば理系クラス。文系クラスの相澤には、ほとほと関わりがない生徒だ。唯一つながりがあるとすれば、文理選択前の一年時に同じクラスだったということになるが、
……菊谷なんて名前のクラスメイトはいなかったはず。
そもそも、菊谷万寿美という名前自体、今初めて聞いたのだ。これまでの高校生活において、一切関わりのなかった人物と考えていいだろう。
「その菊谷って人が、関係してるって訳?」
若鷺は、ああと頷き返す。
「海水浴場の自由時間の時だ。菊谷が、いつもつるんでる奴らと一緒に岩陰に向かっていくのを見た。普段はどこにいようとやかましい集団なのに、静かにこそこそ歩いていたから気になってな。後を追ったんだ」
そうしたらと、若鷺は言葉を続ける。
「ちょうど、菊谷たちが、何かが入った袋を海に流し捨てたところだった。菊谷たちがいなくなってから袋を回収してみたら、中にローファーが入っていた」
若鷺は、相澤の足元に目を見遣る。
「お前のローファーだよ。相澤」
「………………」
「最初は、お前に直接返そうと思ったんだがな。私からお前に返したことが菊谷たちに知られれば、お互いさらに面倒事に巻き込まれることになる。だから、お前たちの部屋にローファーを置いたんだ」
「部屋に置いたとか簡単に言うけど、どうやって部屋に入ったのよ。ちゃんと鍵はかけてたはずなんだけど」
「どうもなにも、普通にフロントから鍵を借りたんだよ。お前の部屋を自分の部屋だと嘘をついて。お前が何号室に泊まっているかは、しおりを見れば分かったからな」
「……じゃあ、袋に入ってたローファーが私のだって、どうやって分かったの? あいにく、この年になってまで、持ち物に名前を書く趣味はないんだけど」
「菊谷たちが、お前の悪口を言ってたんだよ。ローファーがなくなって少しは困ればいいのにとか、そういう」
困るに決まってるでしょ馬鹿じゃないの。そんな呆れを含めた言葉が思わず口から出そうになったが、相澤はすんでのところで飲み込んだ。
ローファーがなくなれば、修学旅行の残りの日程は必然的にビーチサンダルで過ごさなければならない。制服とビーチサンダルというミスマッチ具合に気恥ずかしさを覚えはするが、それはあくまで一時的なこと。見てくれを気にするタチではない相澤にとって、別段困るようなことではなかった。問題は、
……ローファーを買いなおさなきゃいけないってのが、困るんだっつの。
事情が事情なため、両親には頼みづらく、自腹を切るにしてもそこそこの痛手となる。
……なにより、他人に故意に失くされたものを、自分で補償するとか、腹立たしいにも程がある。
若鷺の活躍によって、くしくもその未来は回避されたが、そうなると当然一つの疑問が浮かんでくる。
「ちなみに香楽、ここまでされる心当たりは?」
「ある訳ないでしょ。知人友人ならともかく、名前すらさっき初めて知った奴だし。間接的に恨みを持たれてるにしても、何も思い当たることがないのよ」
苦々しい顔で相澤が言うと、十勝はアハと笑いを上げた。十勝の反応に、相澤が文句を言うより早く、
「そのことで、一つ聞きたいことがあるんだが」
若鷺が、普段と変わらない口調で言った。
「相澤、――お前、本田と付き合ってるのか?」
「………………は?」
相澤の時が止まった。
***
「ふ、っはははははは!」
十勝の盛大な笑い声によって、相澤は我に返った。
……付き合ってる? 私と? 本田クンが?
先程若鷺から言われた言葉の内容を上手く飲み込めずに固まったままでいると、
「付き合う。香楽が。本田くんと」
腹を抱えた十勝が、馬鹿にするように言ってきた。
「――――――――――ッハ」
「付き合ってもいないし、端から付き合うつもりもないのに、言外に無理だなって言われるの腹立つんだけど!?」
相澤は、苛立ちの赴くまま十勝に蹴りを入れるが、十勝はなお笑いながらその蹴りを躱していく。
若鷺の冷めた視線を浴びながら、キャットファイトのような攻防を終えると、相澤は大きく息をついた。
「私と本田クンは、あくまで世間話をする程度の仲であって、彼氏彼女の関係にまで発展した覚えはないっつーの。
――ていうか、そういう質問してくるってことは、これ本田クン絡みの案件かよ……」
がっくりと肩を落とす相澤を見て、十勝はククと笑みをこぼす。
「てっきり知ってるもんだと思ってたけど、何にも知らなかったのねえ。一部の女子の間じゃ、けっこう有名よ。香楽と本田君の恋仲疑惑の噂」
「……つまり、今回の事件の発端は、私と本田クンが付き合ってるっていう噂を信じた、本田信徒の暴走ってこと……?」
「話が早いようでなにより」
「マジか……」
相澤は思わず頭を抱えた。
相澤が未だに本田と交友を続けているのは、本田とは変に探り合う必要がないからだった。十勝のようにお互いを利用し合う訳でもなく、岡本や夏川のように一方的に利用するために関係を築いている訳でもない。お互い着飾ることなく、ある程度本音で喋ることができるからこそ、本田との関係は気楽なもので、だからこそ相澤は失念していたのだ。
……そういや本田クン、やたら女子人気高いんだった……。
相澤からすれば、口悪い、性格悪い、無愛想の三拍子揃った男だが、いかんせん本田は顔がいい。道で十人とすれちがったら十二人は振り返るレベルで顔がいい。
その顔の良さに釣られて、これまで何人もの女子が本田にアタックし、しかし玉砕するという話を、相澤は聞いたことがあった。
とにかくもてるのだ、あの男は。
本田の顔の良さを差し置いても、他人の色恋沙汰にやたらと興味を持つ高校生のことだ。男女が仲良く話している姿を見られただけで、恋仲の噂を立てられることは珍しくない。
相澤もそこはよく理解していて、一応本田とは表立って関わらないようにはしていたが、――というか向こうから関わろうとしてこなかったが――、それでも何度かは、校内で本田と言葉を交わすことが避けられなかったことがある。その仲良さげに会話する姿を見られていたのだろう。
それが根も葉もない噂となり、今回の事件にまで発展した。
……とんでもないとばっちりだ……。
「……うん、まあ、事件が起きた原因は分かった。その犯人も」
ただ、
「それでも、分からないことが一つだけ」
それは、
「夏川さんのローファー、なんで部屋から持ってったの? 夏川さんへの嫌がらせ?」
……お前のその行動だよな、若鷺丞。
***
若鷺が顔色一つ変えないまま、ゆっくり首を横に振るのを、相澤は見た。
「それは違う。夏川侑里に対して、私は何の特別な感情も持ち合わせていないよ」
「――なら、どうして?」
「強いて言えば、そこにローファーがあったからだ」
「…………は?」
「元々、お前のローファーを置きにいくだけのつもりだったんだ。だが部屋に入ってみれば、ローファーが一足置いてある。
――そのとき思ったんだよ。ホテルの部屋に置いてあったはずのローファーがなくなれば、いくらなんでも騒ぎになる。そうなれば、お前が変わらずローファーを履いていたとしても、菊谷たちがこの修学旅行の間に、これ以上何かすることはないんじゃないか、と」
「…………成程ね」
実際、効果はあったと思う。盗難紛いの事件があった後で、これ以上何か問題を起こそうと考える生徒はいない。成績がものをいう特進クラスにおいて、教師に目をつけられたいと考える馬鹿はいないからだ。
「ローファーは、鍵と一緒にホテルの従業員に渡した。教師に直接渡す訳にはいかなかったからな」
「………………」
「あれが、夏川のローファーだとは知らなかったし、私自身、夏川に嫌がらせをしたかった訳じゃない。――まあ、結果的に、夏川には悪いことをしてしまったが」
そう言って、若鷺は目を伏せる。
――これが、事の顛末にして事件の詳細。
相澤たちが、一日中駆けまわって明かそうとした事件の真実は、若鷺丞の証言によって、あっけなく全てが明らかになったのだった。
***
●四日目 午後六時五十五分
昨晩の若鷺との会話を思い出しつつ、相澤は隣の座席の女子生徒を見遣る。
女子生徒――菊谷万寿美は、相澤から突然糾弾の言葉を投げられたことに顔を青褪めると、相澤の目から逃れるように視線を彷徨わせた。菊谷が座っている左窓側の真ん中の席は、通路側の席をふさがれると完全に身動きがとれなくなってしまう。逃げ場のない機内で、彼女はいじめた相手の言葉を聞き続けなければならなかった。
「あなたが私のローファーを手にしたのは、本当にただの偶然だった」
菊谷のこわばった表情を横目に、相澤は淡々と話し始める。
「貴方のローファーと私のローファー、色同じだし、形も似てるからね。つい間違えてしまうのも仕方がない。だけど貴方は、間違えて手に取ってしまったローファーが私の物だと知って、ふと思ってしまった。これを上手く使えば、本田樹と付き合っている身の程知らずの阿婆擦れに、嫌がらせが出来るんじゃないか、って」
そこまで言うと、相澤は菊谷の顔を覗き込む。彼女は口元に笑みこそ浮かべていたが、その目は一切笑っていなかった。
「──人様のローファーを海に流し捨てた時、どんな気持ちだった? 菊谷さん」
菊谷は身体をびくつかせると、唇を震わせながら、相澤の問いかけとは噛み合わない返答を吐きだす。
「……なん、なんで」
「なんでも何も、海であんな挙動不審な行動してたら、誰だって怪しいと思うわよ。試しに尾行してみたら、自分のいじめ現場に出くわすなんて、さすがに思いもしなかったけど。私に尾けられてるの、気付いてなかった?」
「……じゃあ、夏川さんの、ローファーがなくなったっていうのは……」
「嘘に決まってるでしょ」
二日目の夕食時のこと。生徒たちに対して、教師陣はある呼びかけを行っていた。相澤と夏川のローファーが、奇妙な経緯で見つかった件について、何か知っている者がいれば後で名乗り出るようにという、はやい話が自首を促す呼びかけだ。
「ホテルの部屋に不法侵入した生徒がいるとなれば、学校側も動かざるをえない。特進クラス全員の前で、教師からあんな注意喚起をされれば、修学旅行の間にこれ以上何かしようなんて考える馬鹿はさすがにいないと思ってね」
もちろん嘘だ。
相澤が教師陣に夏川のローファーの件も含めた話をしたのは、単純に、学校側が今回の事件について知っておく必要があると考えたからだ。
相澤のローファーが見つかったという一つの問題の解決と、夏川のローファーがなくなったと同時に、絶対にありえない場所から見つかったという新たな問題の発生。これら二つを、教師という第三者に把握させておくことで、いざという時に自分たちの証言の正当性を認めてもらおうとしただけであって、先程菊谷に話したような思惑があった訳ではなかった。
……まあ、あの時事件をおおっぴらにしたことで、意図せずして菊谷さんたちへの牽制になったから、結果だけみればファインプレーだったんだけど。
口からでまかせを並べているなど微塵も感じさせないまま、相澤は菊谷に、ねえと語りかける。
「菊谷さんたちが私にやったこと、実は、まだ誰にも言ってないのよね」
この言葉に、菊谷はハッと顔を上げ、ようやく相澤と顔を合わせる。
「私としても、これ以上問題を大きくするつもりはない。一応、ローファーは無事戻ってきてるしね。――けど、このまま何事もなく終わるっていうのも、収まりが悪いと思わない?」
「お、収まり……?」
「そもそも、私は本田樹と付き合ってなんていないし、動機からしてあなたの勘違いなのよ。根拠のない噂を信じて勝手に嫉妬して、挙句の果てに実害まで及ぼしてるのに、ただで済ませてくれるなんて、そんな虫のいい話、あると思ってんの?」
「ご、ごめんなさ……」
「ああ、謝罪はいらない。謝られたところで何にもならないし。だからさ、噂流してくれない? 私と本田樹が付き合ってないって噂。
そうすれば、今回のことは水に流す。あなたたちにこの件で二度と関わらないし、教師にも告げ口はしない」
けど、
「逆にいえば、この条件を飲んでくれなかったり、菊谷さんたちが私に対して嫉妬の感情を持ち続けるようだったら、私はこの先どんな手段を使ってでも、あなたたちに報復する。赤の他人がどれだけどん底に落ちようが、私には関係のないことだから」
ねえ、と相澤は優しい声で言う。
「悪い条件じゃないでしょう?」