三日目
●三日目 午前八時三十五分
修学旅行三日目の朝。ホテル前の駐車場には、荷物をまとめ終えた生徒たちが続々と集まってきていた。そんな中、相澤は次のスケジュールが始まるまでの短い時間を利用して、生徒たちから情報を集めていた。
「――そっか、ありがと。うん、ちょっと気になったことがあったから」
それじゃと小さく手を振って、相澤はクラスメイトの一人から離れていく。少し距離をとったところで、相澤は転がしていたキャリーケースを止め、深く息をついた。
相澤は、部屋の捜索とホテルの従業員への聞き込みを早々に終え、次の調査段階へと移行していた。朝から出会った生徒たちに、片っ端から昨日のことを聞き出しているが、
……特進クラスの生徒全員から話を聞くって、非効率にも程があるのよね。
聞き込みをしなければならない特進クラスの生徒が百十七人いるのに対し、相澤たちは四人。数の不利というのもあるが、さらに運が悪いことに、今日の日程は班ごとに分かれてのタクシー研修となっていた。先程まで宿泊していた名護市のホテルから、今日宿泊する那覇市のホテルまで、各班で事前に決めたルートをタクシーでそれぞれ移動するというものだ。一日目や二日目と同様に、特進クラス全員で沖縄県内をまわるスケジュールであれば、移動時や観光の傍ら情報を集めることも出来ただろう。だが、班ごとに異なるルートで移動する今日のような日程では、情報収集をするにしても、四人の班が向かう場所で、他の班に偶然遭遇することを期待するしかない。
……しかも、私と夏川さんは同じ班だし。動けるのは実質三人と考えていい。
昨晩の話し合いで、今日中に情報を集めなけれならないと言いはしたが、
……せめてあともう一人か二人くらい、協力してくれる人がいればいいんだけど。
そんな実現不可能な考えを、相澤はもう一度吐息することで追い払う。ないものねだりをしても仕方がないと、次の生徒に聞き込みに行こうとした矢先、相澤に近付く女子生徒がいた。
「おはよう香楽。朝っぱらから辛気臭い顔してるねえ」
声の聞こえた方向に相澤が目を向けると、そこには、相澤が友人と認める数少ない人物の一人、十勝叶がいた。
「――辛気臭いは余計よ、叶」
十勝は、いつものように人のよさそうな上辺だけの笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「香楽。あんた、昨日ロビーで突然泣き出したんだってね? 「快楽主義者」でもあろう相澤が、人前で醜態晒すなんて、よっぽどじゃない」
「嫌味言うために来たんならどっか行ってくれる? 私今忙しいんだけど」
相澤の不機嫌な口振りを気にすることなく、十勝はただ一言、でしょうねと告げる。
……でしょうね?
十勝の肯定の言葉に、相澤は眉をひそめる。
今日の朝の時点で、十勝が既に昨日のロビーでの出来事を知っているというのも大分不可解ではあるが、
……こいつはやたら耳が早いというか、事情通の面があるから、昨日の今日で知っていてもまあ納得はできるんだけど。
だが、
「今日、情報収集で忙しいんでしょう? ローファーが消えた理由を探るために」
……私が今日忙しいことを知ってるっていうのは、いささかおかしいんじゃない?
昨日のロビーでの出来事が十勝にどう伝わっているのかは知らないが、大体の予想はつく。
……大方、私が「じゃ◯りこがなくなった」って泣き叫んだってところが事実として伝わって、そこからあることないこと脚色されたものが伝わってるんでしょうけど。
問題は、その伝聞だけでは、「じゃ◯りこがない」と相澤が泣き叫んだことと、相澤たちが今日ローファーの行方について調べようとしているということに、繋がりを持たせることができないということだ。だが十勝は、相澤たちが今日情報収集をするということをまるで知っているかのように話しかけてきた。
……本当に全部知ってるのか、それともハッタリをかけてるだけなのか。そもそも、どうして私に話しかけてきたのか。
十勝の真意を探るために相澤が黙っていると、十勝はいっそう不敵に微笑んでくる。
「――でも、人手が足りないんじゃない? 男女比のバランスはいいけど、実際問題そのメンツじゃ無理あるでしょう。厳密にいうと、理系女子の人手がね」
理系女子、という言葉に、相澤はハッとする。
……自分の売り込みが目的か……!
今回情報収集を行うメンバーの内、相澤、夏川、岡本の三人は文系クラスであり、理系クラスに所属しているのは本田一人となっている。文系クラスの相澤たちにも、理系クラスに知り合いがいない訳ではないが、これまで全く面識のない生徒が何人もいるというのも、覆りようのない事実だった。
……今まで話したこともない相手から、いきなり昨日のことを聞かれても不審に思われるだけ。それを考えれば、確かに理系クラスの生徒の助けは欲しい。
そして都合のいいことに、十勝は理系クラス所属。なおかつ高校内において随一の事情通でもある。今の相澤たちには、喉から手が出るほど必要な人材だった。
相澤にしても、十勝が協力をしてくれるのであれば願ったりかなったりではある。だが、
……叶が、今回の件に関わっていないと決まった訳じゃない。
相澤と十勝は、高校に入ってからの短い付き合いだが、相澤は十勝の人となりを程々に理解していた。
十勝叶は、ただの善意で友人に協力をするようなお人好しではなく、むしろ「快楽主義者」を自称する相澤に程近い性格をしている、ということを。
……こいつに限って、良かれと思って人助けをする、なんて発想がある訳ないのよね。
事態を自分好みに引っ掻き回したいか、見返りが欲しいかのどちらかだろう。あるいは、情報を攪乱させるために協力を申し出てきた可能性もある。十勝が、今回の事件の関係者なのかが分からない以上、十勝の遠回しの提案に食いつくのは危険だった。
そう判断した相澤は、小さく息をつくと、十勝へと真っ直ぐ向き合う。
「――叶。あんた、勘違いしてるわよ」
十勝を訝しむ気持ちがばれないよう、相澤は普段通りの調子で十勝に言葉を返す。
「私が今調べてるのは、私が持ってきたじゃ○りこが、ホテルの部屋からどこに消えたのかってこと。ローファーが消えた理由? 何それ? そんな話、誰から聞いたのよ」
***
相澤が選んだ作戦は、あえて白を切ることで十勝の反応を見るという、至極単純なものだった。
……叶が何の目的で私に接触してきたのかは分からない。けど、今私がすべきことは、叶の目的を調べることじゃなくて、叶が事件に関わっているかどうかを調べることだ。
十勝が事件に関わっていないのであれば、別段彼女の手を借りることに悩む必要はない。むしろ協力者が増えることは、相澤たちにとって好都合であった。
……だから、見極めようってね。
十勝が相澤に探りを入れてきたり、懐疑の目を向けてくるようであれば、今回の事件に何かしらの形で関わっていると考えていいだろう。十勝の言動如何によっては、今日の行動方針を変える必要があった。
しかし、十勝を警戒する相澤の耳に入ってきたのは、
「っ――」
必死に押し殺された、十勝の笑い声だった。
「そう、じゃ○りこ。じゃ○りこがなくなったの…………フ、フフッ」
「ツボに入ってんじゃねえよ」
半目で突っ込む相澤を意に介さず、十勝はついに腹をかかえて笑い出した。
「だって……、じゃ○りこがなくなっただけで泣き叫ぶとか冗談だと思ってたのに、ほんとにショック受けてるとか…………。あんた、そんなだったんだ……。ハハッ」
***
十勝の笑いが収まるまで数分。相澤はその様子を半目のまま見ていたが、いい加減話を進めようと呆れた口調で十勝に声を掛ける。
「ようやく落ち着きましたか十勝さん」
「あ――笑った笑った。一年分くらい笑った」
「……他人の不幸をよくそこまで笑えるな」
「いや、だって、あんたがじゃ○りこ一つで心乱す人間だって思ってなかったから…………フ」
「おいこら、思い出し笑いでもっかいツボ入ろうとしてんじゃねえよ」
苛立ちを含んだ相澤の声に、十勝はごめんごめんと軽く返すと、顎に手を当てた。
「しかしじゃ○りこ、じゃ○りこねえ。ホテルの部屋からそんなものがなくなるなんてことが起こりうるのか……いや、起こったからあんたが必死になってんのか」
そうしてぶつぶつと呟きだした十勝に、相澤は内心首を傾げる。
……なんで今更そんなことで考え始めてんの? こいつ。
十勝は最初、「ローファーがなくなったこと」を会話の糸口に相澤に話しかけてきた。そのため相澤は、十勝が「自分たちの部屋からローファーが誰かに持ち出されたこと」を知っているのだとばかり思っていたのだが、
……もしかして、叶はローファーがなくなったことを知ってるだけで、それがホテルの部屋からなくなったことは知らない?
いまだに独自の推理を呟いている十勝をちらりと見て、相澤は自身の考えがあながち間違っていないことを確信する。
……とすると、あと分からないのは情報源と目的か。
それとなく探りを入れてみようかとも思うが、相澤はすぐにその考えを振り払う。十勝にこれ以上疑いの目を向けることに馬鹿々々しさを感じ、相澤は吐息と共に本音をぶちまけることにした。
「……あのさ、叶。もう直球に聞くけど、あんた何をどこまで知って、何のために私に接触してきたの? その様子だと、ホテルの部屋から何か物がなくなったってこと自体、初めて知った感じなんだけど」
十勝は顔を上げ、しばらく相澤の呆れ顔をじっと見つめていたが、フッと笑みを浮かべると、
「どこまでも何も、香楽たちの班の……夏川さんだっけ? が、ローファーを誰かに間違えられたってことと、あんたがホテルのロビーで泣き出したってことぐらいしか知らないわよ。香楽に話しかけたのは、ただの野次馬根性」
「…………野次馬根性?」
「うん。又聞きで、詳しいことは全く把握してなかったから、本人に鎌をかければ何か出てくるかなあと思って」
引っかかってくれなかったんだけどね、とあっけらかんと言う十勝に、相澤は青筋を立てるが、今こいつに切れたところでどうしようもないと無理矢理怒りを鎮める。十勝は、そんな相澤を不敵な笑みと共に見つめてくる。
「――ていうか、やっぱり探り入れられてたか。酷いなあ。友人なんだから、少しは信用してほしいのだけど」
「昨日の今日で情報持ってる奴の、どこを信用しろっていうのよ。友人といえど無理があるわ」
相澤の神経を逆撫でするかのような十勝の発言に、相澤は半目で言葉を返し、大きく息を吐いた。
結局、相澤と十勝の探り合いは、相澤の根負けに終わったようだった。
***
駐車場に集まる生徒たちから少し離れたところで、相澤は十勝に昨日の出来事を説明する。
「――とまあ、昨日こういうことがあったわけ」
「なるほど。確かにそれは不可解ね」
十勝との腹の探り合いに疲れ、つい話してしまったが、詳しいことは知らないという十勝の言は正しかったらしい。真剣な顔で頷く十勝に、相澤は内心安堵していた。
ここに至るまでの経緯が不本意ではあるが、十勝以上に適切な人材はいない。覚悟を決めた相澤は、十勝に協力の提案を申し出た。
「あんたに頼みたいのは、私のローファーを間違えた人物の特定と、海とホテルで変な行動をしていた人物がいたかどうかの調査。これを、理系クラスの女子を中心に調べてほしいのよ」
十勝は分かったと頷きを返す。
「期限はいつまで?」
「今日中。夕方に一回集まって、情報交換することになってる」
「……それ、私も参加した方がいい?」
「いいよ、しなくて」
……情報交換するって時に、新しい顔がいたら混乱を生むだけだろうし。
「あんたが入ると話がややこしくなるから、別にいい」
「はいはい。じゃ、何か分かり次第、スマホで連絡するよ」
修学旅行中、ホテルの部屋以外でスマートフォンを使うことは禁止されているため、スマートフォンでのやりとりはそれなりのリスクを伴うが、
……ま、叶なら上手くやるでしょ。
あとは自分が気を付ければいいかと思い、相澤がそのまま立ち去ろうとすると、
「こんなところにいたのか、十勝」
相澤の背後から、低い女性の声が十勝を呼んだ。
相澤が振り向くと、そこには、女子にしては背が高く、不愛想な顔の女子生徒が一人立っていた。その女子生徒は、少なくとも相澤には見覚えがない人物だった。
女子生徒は相澤をちらりと見遣るが、すぐに十勝に視線を戻し、不愛想な顔のまま言葉を続ける。
「そろそろ時間だ。行くぞ」
「あれ、もうそんな時間?」
十勝が腕時計に目を向ける傍ら、相澤も自身の腕時計で現在の時刻を確認する。タクシー研修が始まる時間まで、あと数分を切っていた。
「ごめん香楽。私もう行くから」
十勝は相澤に手を振ると、女子生徒と共に生徒たちの集まりへと戻っていく。相澤はその背中を何の気なしに見ていたが、十勝は途中で、ああそうだと立ち止まり、顔だけ相澤の方に向けてくる。
「今回の件、一つ貸しだから。後で何らかの形で返してね」
意地悪そうな笑みでそう告げると、十勝は集団の中に消えていく。
一人残された中、相澤は重い溜息を吐くしかなかった。
***
●三日目 午後三時
アメリカンビレッジ――正式名称「美浜アメリカンビレッジ」は、北谷町にあるリゾート地区だ。在日米軍の飛行場だった場所を埋め立て、現在はアメリカの雰囲気を模した大型観光エリアとなっている。
大勢の観光客で賑わうアメリカンビレッジの中、岡本は到着早々班のメンバーと別れると、先程本田からトークアプリで送られてきた場所へと向かっていた。
……やっぱり、皆ここに来るんだな。
見知った顔ぶれとすれ違いながら、岡本は納得したように頷く。
アメリカンビレッジは、名護市から那覇市に向かう道中にあり、そこから先に目立った観光施設がないことから、多くの生徒が、ここを最後の観光地として訪れているようだった。
……まあ、だからこそ集合場所にできた訳なんだけど。
会話の内容を他の生徒に聞かれないよう気にする必要はあるが、異なる班の生徒が集まっていても疑問に思われることは少ないだろう。情報交換の場としては、最適の場所といえた。
そんなことを考えながら足を進めていくうちに、岡本は、本田から集合場所として指定されたアイスクリーム屋へと辿り着いた。店内に入り、本田の姿を探すように周りを見回すと、
「よう青空。思ってたより早かったな」
アイスカップを片手に、スプーンを口にくわえた本田が、岡本の前にふらりと現れた。
「あ、ああ。予定より早く着いて……って、いや、お前何のんきにアイス食ってんの?」
「折角だから食べとこうと思って。地元に店ないし」
……これから真剣な話をするのに、そんな観光気分でいいんだろうか。いや、確かに樹の言う通り、折角の修学旅行なんだから楽しんでもいいと思うけど……。いやでもやっぱり話し合いの場にアイスは……。
「……それ何味?」
「サトウキビ」
「ちょっと買ってくるわ」
欲望に負けた岡本が急ぎ足でレジへと向かう一方、本田は店内のテラス席へと移動し、もくもくとアイスを食し始めていた。
岡本は会計を済ませると、本田の向かいの席に腰掛ける。
「夏川たちはまだなんだな」
「もう少しで着くってさ。返事きてた」
岡本がトークアプリを確認すると、確かに、あと数分で到着するという、夏川からの返信がきていた。
「青空、何味にしたの?」
「トロピカルマーブル。……ちょっと交換しねえ?」
無言で差し出されたアイスカップを了承の意だと捉え、岡本は本田とお互いのアイスを交換し合う。そうして、二人そろってアイスに舌鼓を打つこと数分。
「ごめん! 遅くなった!」
謝罪の言葉と共に、相澤と夏川が息を切らせながらその場に現れた。
「ほんとごめん。前の予定が長引いちゃって……」
そう言いながら、相澤は、岡本と本田の手前にアイスカップがあることに気付いたらしい。彼女は、二人と半分くらい減ったアイスを交互に見る。
「……何アイス食ってんの……?」
「アイス屋で情報交換するんだから、アイスくらい食べるだろ」
引きつった表情を浮かべる相澤に、本田は何言ってるんだお前と言いたげな目を向ける。
「いや、そもそも何でアイス屋で情報交換しようとしてるのか聞きたいんだけど……」
本田と相澤の間に冷たい空気が漂い始めていたが、岡本はそのことに気付くこともなく、困り顔の夏川へと声をかける。
「夏川も食べるか? 何味にする?」
「え」
夏川は、突然自分に話を振られたことに驚いた顔をみせるが、すぐに首を横に振る。
「あ、いいよ! 自分で買うから! 行こ、相澤ちゃん!」
夏川は相澤の腕を掴むと、
「いや、私食べる気ないんだけど……⁉」
と叫ぶ相澤をレジへと引きずっていった。
本田がナイスアシスト、と左手の親指を立ててくるが、何のことか分からない岡本は、ただ首をかしげるばかりだった。
***
本田は、相澤と夏川が席についたことを確認すると、それじゃあと口を開く。
「全員揃ったし、始めるか」
「とりあえず、私からでいい?」
片手を挙げて主張してくる相澤に、本田は顎をしゃくって続きを促す。
「まず、ホテルの部屋の捜索の結果からね。
結論からいうと、手掛かりになるようなものは何も出てこなかった。……ワンチャン、部屋のどこかにじゃ○りこがあるかと思ったけど、やっぱり見つからなかったし」
不機嫌そうな相澤に、夏川が、ああ……と声をこぼす。
「今朝の相澤ちゃんは……、色々とすごかったね……」
「あんまり聞きたいと思わないけど、一応聞いた方がいいか?」
「よくぞ聞いてくれたわ本田クン……。昨日見た夢がね、じゃ○りこを探す夢だったのよ。じゃ○りこの形をした、じゃ○りこを探すための器械を持って、ホテルの部屋をぐるぐる探してさあ……。そしたら、じゃ○りこが天井に向かって反応するもんだから、天井裏を見たら、そこにじゃ○りこがあったっていう……」
本田は、本当に聞かなくていい情報だったなと思いながら、他に進展は? と問いかける。
夏川が代わりに応えようと口を開くが、相澤はそれを手で制し、のろのろと頭を上げた。
「鍵を間違えて持っていった生徒がいたかどうかってやつ。昨日、私たちが海から戻ってきた時に、受付にいた人に話を聞けたんだけど。鍵を間違えたって、鍵を返しにきた女子生徒がいたそうよ。しかもちょうど、文系クラスがホテルに戻ってくる前に」
「その生徒の名前は?」
本田の問いに、相澤はさあと首を横に振る。
「名前まではさすがに分からないって。うちの学校、名札つけてないしね」
……ま、そうだよな。
小学校、中学校であれほどつけるようにいわれた名札は、今本田たちの胸元にはない。個人の宿泊客ならともかく、団体の一生徒の名前など、従業員も把握してはいないだろう。
……それに、さすがに名乗るほど馬鹿じゃないか。
本田が内心納得している中、相澤は言葉を続ける。
「ただ、外見の特徴とかは覚えてたみたいで教えてくれた。眼鏡かけてて、髪は真横に一つ結び。あと、背が高かったって」
「私が一六五くらいで、ホテルの人が多分、一七○とかそれくらい。その人が見上げないといけないくらい、背が高かったみたいだから……」
「一七五……いや、一八○以上はあるとみていいな」
だろうねと、相澤は頷く。
「あとそいつ、鍵返しにきたついでに、ホテルの人にローファー預けてる」
***
「ローファーって、夏川のローファーか⁉」
「ローファー」という言葉に、岡本は思わず身を乗り出した。ホテルの人に預けられたというローファーが、夏川のものであるならば、
……その女子生徒が、夏川のローファーを盗んだ犯人ってことじゃん!
期待に胸を膨らませる岡本をよそに、相澤は、さあ? と顔をしかめる。
「確証がないから、それはまだなんとも」
相澤の発言に、岡本は困惑の表情を夏川に向ける。
夏川は、相澤に同意するように頷き、情報を付け足してくる。
「ホテルの人から聞いた話だと、その生徒は、海水浴場でローファーを拾ったけど、先生が見当たらなくて困ってたみたい。それで、もうすぐ次のクラスが戻ってくるだろうから、先生に渡してほしいって、その子からローファーを渡されたんだって」
あれ? と、夏川からの話を聞いて、岡本は胸中で疑問の声を上げた。
……これと似た話を、誰かから聞いたような……。
記憶を巡らせ、岡本は思わず、あ、と呟く。
「――それ、先生も言ってたぞ」
「……そういや、先生たちの担当は岡本クンだったっけ。教師陣に聞き込みなんて、よくやるわー」
相澤が、岡本を揶揄うように笑う。
「お前らが行きたがらないから、俺が行ったんだろうが……」
岡本は思いきり顔をしかめるが、
「だって私、教師受け悪いし」と、相澤はあっけらかんと言いのけ、
「右に同じ」と、本田が頷き、
「えっと、私は今回当事者だからって、相澤ちゃんに止められて……」と、夏川が申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「こういう時だけ息ぴったりなんだよなあ、こいつら……」
「で、教師たちはなんて言ってたのよ、岡本クン」
相澤の催促に、岡本は溜息を吐いて言葉を続ける。
「俺の担任が、海からホテルに戻ってきた時に、ホテルの人からローファーを渡されたんだと。で、海水浴場の忘れ物がいくつかあったから、レストランのスペースを借りて、そこに置いたらしい」
「それじゃあ、女子生徒の誰かがホテルの人に渡したローファーは、先生に渡って、最終的に落し物コーナーに置かれたってことだから……」
「――やっぱり、夏川のローファーなんじゃねえか?」
夏川は相澤を、岡本は本田をそれぞれ探るように見る。
相澤が首肯する傍ら、本田がそうだなと返すと、
「一回整理しよう」
と言い、制服の胸ポケットから、生徒手帳を取り出した。
***
生徒手帳の後半部分には、白紙のページが数ページ設けられており、それらのうち数ページに、本田は今回の事件についてのメモをとっていた。
本田が開いたページには、昨晩の話し合いの内容がまとめられていた。
『到達目標:夏川のローファーと、相澤のじゃ○りこを、ホテルの部屋から持ち出した人物の特定
そのためには、まずABCDEFを特定する
A→海水浴の時に、相澤のローファーを間違えて持っていった人物
B→相澤たちの部屋に入って、相澤のローファーを部屋に置いていった人物
C→相澤たちの部屋から、夏川のローファーを持ち出した人物
D→相澤たちの部屋から、相澤のじゃ○りこを持ち出した人物
E→レストランの忘れ物コーナーに、夏川のローファーを置いた人物
F→Eに夏川のローファーを渡した人物』
本田は、開いたページを三人に見えるようにテーブルに置く。
「三人の話から、いくつか確定したことがある」
本田は、鞄からシャープペンを取り出すと、言葉を続ける。
「まず、ホテルの従業員が、女子生徒から渡されたっていうローファー。忘れ物コーナーに置かれていたローファーは、夏川の一足だけだったから、これは夏川のものと考えて間違いないだろう。つまり、Eはうちの高校の教師で」
本田は、シャープペンで「E」を丸で囲むと、そこから矢印を伸ばして「教師」と書く。
「Fは、ホテルの従業員だ」
続けて、「F」を丸で囲み、そこから矢印を伸ばして「ホテルの従業員」と書き込む。
「それから、Fにローファーを渡した人物として、Gが新しく出てきた」
「F」の下のスペースに「G→Fにローファーを渡した人物」と書き足すと、先程と同じように矢印を引っ張り、「女子生徒」と記す。
「女子生徒は、夏川のローファーを持っていた。そして、違う部屋の鍵を一度手にしていた。つまり」
「女子生徒」から「C」へと矢印を伸ばし、本田は「C」の文字をシャープペンでこつこつと叩く。
「こいつがCだ」
「ついでに言うと」
相澤は、本田の推理に頷くと、
「この女子生徒は、理系クラスで確定ね」
彼女も、胸ポケットから取り出したシャープペンで、「女子生徒」の下に「理系クラス」と付け足した。
すると、岡本がそのメモを見て、なあと声を上げる。
「ホテルの人から聞いた外見の特徴から、こいつが誰なのか分からないのか?」
「…………それがねえ」
相澤は、夏川と顔を見合わせてから、困惑の表情を本田と岡本に向ける。
「いないのよ、そんな生徒」
「……は?」
本田と岡本の声が重なる。
「ホテルの人からその話を聞いた時、私も怪しいと思ってさ。私たちもその生徒を探してみたのよ。けど」
「同じ外見の生徒なんて、いなかったんだよ」
相澤と夏川の言葉に、本田は思わず眉をひそめた。
……いない? 同じ外見の生徒が?
女子生徒の特徴で、今判明していることは三つ。
一つ、身長一八○センチメートル以上であること。
二つ、眼鏡をかけていること。
三つ、髪を横で一つに結んでいること。
……この三つの条件を満たす女子なんて、それほどいないと思ったのに、まさかいないときたか。
「……探し漏れてるってことは?」
本田の問いに、相澤は首を横に振る。
「ないと思う。一応、理系クラスにいる私の友達にも聞いてみたけど、高身長で、眼鏡かけてて、髪を一つに結んでいるような女子は、特進の理系クラスにはいないって、はっきり言われたから」
「でもさ」
否と、岡本が声を上げる。
「ホテルの人は、その生徒に会ってるんだろ? だったら、いないっていうのはおかしいだろ」
「うん。いる筈なのに、いないっていうのはおかしい。だから、考えられる可能性は一つ」
そこまでの発言で、本田は、相澤が言わんとしていることに気が付いた。
「――変装か」
相澤と夏川が頷く傍ら、岡本は、変装? と首をかしげる。
「特徴が一致する女子生徒が見つからないのは、その生徒がいないからじゃない。ホテルの従業員にローファーを預けた時と、その後とで、外見が変わっているから、見つけることができないんだ」
もちろん、
「変装といっても、スパイ映画とかで出てくるような大げさなものじゃない。眼鏡をかけるとか、髪を結ぶとか、そういう簡単なやつだ」
「……そんなんで変装したっていえるのか?」
「実際、私たちはそれに翻弄されてるじゃない」
相澤は、不機嫌そうに頬杖をつく。
「眼鏡をかけている。髪を一つ結びにしている。外見以外の情報がないから、この二つの特徴に引っ張られて、本人を見つけることができないでいる。個人を特定させないという目的で変装をしていたのなら、女子生徒の企みは間違いなく成功よ」
「とりあえず、今の僕たちにできるのは、理系クラスの女子の中で、身長が一八○センチ以上ある生徒を見つけることだ。そこから、Cを地道にあぶりだしていくしかない。いくら外見を変えたとしても、身長まではそう簡単に変えられないからな」
そこまで言って、本田は小さく息を吐くと、椅子の背にもたれかかり空を仰いだ。
……なんか、一周回って振り出しに戻った気がする。
EとFの正体は判明したが、新たに存在が明らかになったG、すなわちCについては、情報を集めたからこそ余計に正体が分からなくなっている。Cについての再捜査を行うというのは、また初手から捜査を行うに等しい。
どれだけ手を尽くしたところで、しょせん素人による探偵の真似事。もとより本田は、犯人がすんなり分かる訳がないと高を括っていたが、
……これから調べなおすのは、色々としんどいかもな。
一日中移動していたことによる疲労。同級生に不審感を持たれないよう聞き込みをしたことによる気疲れ。刻一刻とせまる飛行機の搭乗時間。今の本田たちには、体力的にも、精神的にも、時間的にも余裕が残っていなかった。
修学旅行中に、犯人を見つけることができるのかという不安があるが、とにもかくにも、まずは情報交換を終わらせるべきかと、本田は自らを奮い立たせ、再び前を向く。
「Cに関しては、また後で話し合うとして。――あと二つ、調べることがあったろ」
昨日の話し合いで、今日調べると決まったことは五つ。そのうち、
「海にいる時、誰がローファーを間違えて持っていったかっていうのと、海もしくはホテルで不審な行動をとっていた人物がいたかどうかの二つ。この二つに関して、何か成果はあったか?」
「文系の男子からは何も。……まだ全員に聞けた訳じゃないけどな」
「女子の方からもないよ」
岡本と夏川の報告を聞き、相澤がそもそも、と声を上げる。
「海での他人の行動なんて、皆いちいち気にしてないし、ホテルにいる時は基本部屋から出ないから、どれだけ叩いても情報は出てこないかもね」
「一人勝手に決めつけ入っててあれだけど、僕は進展あったからな」
は? という、相澤の懐疑の声を無視して、本田は言葉を続ける。
「といっても、かなりぼんやりした情報だけどな。海水浴の時、数人の女子が、人目を避けるように岩陰に向かう姿を見た、ってだけだ」
「岩陰に隠れて何かしていたとかならともかく……、向かう姿を見たっていうのは……」
言いたいことは分かると、本田は相澤を手で制す。
「これを見た奴が変だと思ったのは、そこじゃない。女子の一人が、何かが入ったビニール袋を持っていたけど、岩陰から出てきた時、その袋がなくなっていたそうなんだ」
袋という単語に反応した相澤が、怪訝な顔を本田に向ける。
「それって……、まさかローファーを入れてた袋?」
「か、どうかは分からないけどな。――だけど、もしその袋の中にローファーが入っていたとしたら、どうだ?」
「どうだって……、自分のローファーを海に置いていったってことだろ? 何でわざわざそんなこと……」
「自分のじゃなくて、他人のローファーだったら?」
本田のその言葉に、岡本は不思議そうな顔で本田を見るが、相澤と夏川は、何かに気付いたように目を見開く。相澤はそのまま黙り込むが、夏川は、辿り着いてしまった結論に間違いがないか、震える声で本田に確かめる。
「それって……、いじめがあった……って、こと……?」
本田は何も答えず、相澤の様子を伺う。
相澤は、先程からずっと口をつぐみ、額に手をあてて下を向いていた。
本田がこれから話そうとしていることは、場合によっては相澤を傷つけかねないものだった。それでも、一連の事件の推理を進めるためには、どうしてもその一つの可能性を話し、相澤に理解してもらう必要があった。だが、
……こいつ、もう分かってんじゃないかな。
察しの良い相澤のことだ。これまでの本田の発言から、本田が相澤に何を言いたいのかを既に気付いている可能性があった。
……もしそうなら、相澤の気持ちの整理がついてから話し始める方がいいんだけど。
岡本と夏川の探るような視線に耐えながら、本田はその時をジッと待っていた。
すると、
「本田くん」
相澤が顔を上げ、静かに本田の名前を呼んだ。
「もし、実際にそのいじめ行為があったとしてね。――それと、私のローファーが海で間違えられたことと、どういう関係があると思ってる?」
「――お前が、そのいじめの標的だったんじゃないかと考えてる」
***
あくまで、これは一つの可能性として考えてほしい、と前置きして、本田は話し始める。
「相澤のことを、日頃からよく思っていない女子生徒がいたとする。
「前提」
相澤の不機嫌そうな声を、本田は無視した。
「その女子生徒が、故意にしろ偶然にしろ、海で相澤のローファーを手に入れた。女子生徒は最初、ローファーを相澤に返そうと思ったかもしれない。――けど、彼女はふと思ってしまった。
地元から遠く離れた沖縄の、しかももう二度と来ることがないだろう砂浜。そこにローファーを置き去りにしてしまえば、相澤は困るんじゃないか、と。――そして、その生徒はそれを実践した」
「でもさ」
と、岡本が本田の話を遮ってくる。
「結局相澤のローファーは、本人のところに戻ってきたんだろ? 樹の推理だと、話がおかしくならないか?」
確かに、相澤のローファーが、海に置き去りにされた状態のままだとすると、今相澤の手元にローファーが戻ってきている事実と矛盾する。
「それに、もし誰かが、相澤ちゃんのローファーを見つけて拾ったんだとしても、ホテルの部屋に直接返しにきた理由が分からないよ?」
夏川の言葉に、岡本はそうだそうだと何度も首を縦に振る。しかし、本田は、自分の推理を否定されても表情一つ変えようとしなかった。
「ずっと気になってたんだ。なんで相澤のローファーは、本人に直接返されなかったんだろうって。でも、海での目撃情報を聞いた時にひらめいたんだ。もしかして、返さなかったんじゃなくて、返せなかったんじゃないかって」
「……返せなかった?」
本田は頷くことで、相澤に同意を示す。
「相澤に対するいじめが行われたことを知っていて、それを好ましく思わない生徒がいたとする。その生徒は、海に置き去りにされた相澤のローファーを回収したけど、本人に直接返そうとは思わなかった」
なぜなら、
「そうすることで、いじめをした連中に、相澤を助けたことがばれることを恐れたんだ。だから、直接じゃなく、間接的に返すことにした」
「だけど、だからってわざわざ一番リスクの高い方法をとる? 教師に手渡すとか、更衣室に置いておくとか、他にも方法はあるわよね?」
「そこがまた謎ではある。けど、逆に考えれば、一番リスクの高い方法を選ばないといけない理由があったのかもしれない」
「理由、ねえ……」
「まあ、これにあくまで僕の推測であって、事実かどうかはまだ分からないけどな」
本田の話を聞き終えた相澤は、深く吐息する。
「……まあ、私がいじめられてたかもしれないって云々は一旦置いておくとして」
「え、いいのかよ」
「いいのよ」
岡本の心配する声を、相澤は一蹴する。
「現時点で分かってるのは、EとFの正体だけ。AとB、CおよびG、そしてDの特定にまでは至っていない。あくまで候補が絞れたって段階ね」
相澤は、手に持っていたシャープペンを、テーブルに置かれたままの生徒手帳に走らせる。
何を書いたのかと本田が手帳を覗き込むと、そこには「A」の下に「いじめの実行犯?」、「B」の下に「Aのいじめを阻止したかった人物?」という情報が付け加えられていた。
「だから、私たちはもう一回情報を集める必要がある。とりあえずは、さっき本田クンが言った方法でCを特定すること。AとB、Dについてはその後にしよう」
「一応、袋を持ってた女子が誰なのかは分かってるから、先にそっちを当たるっていうのもあるけど」
「それは一番最後。本田クンの推理が当たってるにしろ当たってないにしろ、何か他につながる情報が、そいつから得られる可能性は低そうだからね。私としても、下手に波風は立てたくない」
相澤はそう言うと、空のカップを手に立ち上がり、三人に向けて言い放った。
「――じゃ、この先の行動方針も決まったし、そろそろ解散しよっか」
***
解散の一言を受け、本田は岡本と喋りながら店の出口へと向かっていた。相澤と夏川は、二人の少し後ろを歩いていたが、店を出てしばらくしたところで、本田は相澤に呼び止められる。
「本田クン、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……何だ?」
さっき聞き忘れたことでもあったのだろうか。
本田は、普段であれば間違いなく聞こえていない振りをするであろう相澤の呼びかけに応じた。
「理系クラスの女子でさ。私より背が高くて、普段から不機嫌そうな顔してる奴って、誰だか分かる?」
「……それだけの情報で分かると思ってるのか」
「思ってないから。そんな呆れ切った顔で見るのやめて」
相澤は吐息すると、
「十勝叶って分かる? 理系クラスの。そいつと修学旅行の班が同じで、仲は多分いい」
理系クラスとなると、十一組か、本田の属する十二組のどちらかにいるということになる。本田は、十勝叶という名前を自身のクラスで聞いたことはなかったが、
……物理の授業のときに、そんな名前を聞いたような。
理系クラスでは、物理と生物の科目が選択式となっており、物理選択の生徒と生物選択の生徒に分かれて、十一組と十二組が合同で授業を行うことになっている。
本田の選択は物理。その物理の授業において、十勝という名前の女子生徒がいた覚えがあった。十勝と仲が悪くなく、背の高い、不機嫌そうな顔の女子というと、
「あ」
一人思い当たる人物がいた、
「若鷺じゃないか? 断言はできないけど」
***
「若鷺?」
本田から返ってきた名前に、相澤は眉をひそめた。
「ああ。若鷺丞。「丞」って書いて、「じょう」って読む。顔はともかく、名前くらいならお前も知ってるんじゃないか?」
「……知ってるも何も、特進クラスでその名前を知らない生徒はいないでしょ」
高校に入学してから約一年半。相澤は、若鷺と同じクラスになったことも、顔を合わせたこともないが、彼女の噂だけなら嫌でも知っていた。
若鷺丞。入試試験をトップの成績で合格し、その後も学内の試験で一位の座を未だ誰にも譲っていないという秀才。その頭の良さは、何故もっと上の高校に行かなかったのかと誰もが疑問に思う程で、日本の最難関大学の合格も確実だといわれている。
今までまともに顔を合わせる機会もなかったが、
……そっか。あれが若鷺丞なのか。
一人納得している相澤をよそに、本田は首をかしげる。
「で、それがどうしたんだ? 今回の事件と、何か関係があるのか?」
相澤は、本田が勘違いしていることに気付き、いやと首を横に振る。
「ちょっと別に気になることがあって聞いただけだから。気にしないで」
そう言うと、相澤は本田と岡本に手を振り、夏川と共にその場を離れていく。
竹中たちが待つ場所へと歩みを進めながら、相澤は先程本田から得た情報を自身の中で咀嚼していた。
朝のやりとりを見た限りでは、十勝と若鷺の仲がいいのかどうか、相澤には判断しづらいところがあった。だが、「仲がいい」で本田に通じたあたり、第三者がみて分かる程度には、二人は良好な関係を築いているのだろう。
……叶みたいな奴と、若鷺が仲がいいとはね。
意外という思いがあった。
十勝は、損得勘定で人付き合いをする人間だ。自分にとって利益をもたらす人間としか、彼女は関係を持とうとしない。別段、それ自体は悪いことではない。問題は、
……叶にとっての利益っていうのが、人が不幸になった様を見ることだってこと。
人の不幸を喜ぶという点において、相澤の「快楽主義」と似通ったところはあるが、
……あいつの場合、それにしか興味がないあたり、私よりたちが悪いというか。
まあ、今気にするのはそこじゃない。
十勝と若鷺が親しい仲であるということ。それが、相澤が唯一気にしていることだった。
若鷺丞の名前を知らない特進クラスの生徒はいない。先程相澤がそう言ったのは、彼女にまつわる数々の噂をこれまでに何度も聞いてきたからだ。
曰く、今までテストで満点しかとったことがない。
曰く、何ヶ国語も使いこなせるマルチリンガルである。
曰く、一対三の男子とのバスケ対決で勝ったことがある。
曰く、警察もお手上げの数々の難事件を解決したことがある。
もちろん、噂の中には虚偽もいくつか混ざっているだろう。だが、それを抜きにしても、それらの噂の全ては、若鷺丞という人物がいかに優秀であるかを示しており、彼女を乏しめるようなものは一つもないのである。
相澤の疑念は、そこにこそあった。
……若鷺が噂通りの優秀な人物なら、十勝の性根くらい見抜けると思うんだけどなあ。
十勝は普段自身の性根が露見しないよう振る舞っているが、十勝と似た性根の者や、人間観察に優れている者であれば、それを見抜くことは可能ではあった。
……なのに叶とお友達でいるってことは、そもそも十勝の本性を知らないのか、それとも知った上で何か意図があって関係を続けているかのどちらかってことになる。
前者であれば問題はないが、後者であった場合、
……どういう意図かによって、若鷺を警戒する必要が出てくる訳だ。
めでたく要注意人物のリスト入りだ。十勝の名前がそのリストにあるのは言うまでもない。
……今回の件が解決したら、若鷺について探りを入れてみるか。
そう決めて、頷き、相澤は、知らない内に入っていた肩の力を抜く。待ち合わせ場所に佇む竹中と立花の姿を見つけ、相澤は二人の元に向かっていった。
***
●三日目 午後八時四十八分
那覇市内にあるホテルの一室。昨日までのホテルとは異なり、三日目に泊まるホテルは、全て二人部屋となっていた。相澤は夏川と同室だったが、今夏川は、竹中と立花の部屋に遊びに行っていた。
静かな部屋の中、相澤は、ベッドの上で大の字になって天井を見上げていた。
……なんか、話がどんどんややこしくなってるような
最初は、ただローファーとじゃ○りこを持っていったのが誰なのかを調べるだけだった。それが、
……ホテルの部屋の不法侵入者に、アリバイ工作、ひいては私に対するいじめの可能性まで出てきた訳だ。
もはや一つの立派な事件だ。生徒だけで解決する域をとっくに超えている。
……それでも、私たちだけで解決しなきゃね。
生徒間の問題に教師が関わってくると、無駄に事を大きくされるか、逆に事を小さくされる恐れがある。相澤は、教師の介入によって、事件の全容が分からない内に強制的に幕引きをされることを一番恐れていた。
……明日が勝負だよなあ……。
目を瞑り、明日することを頭の中でまとめていると、枕元に置いてある相澤のスマートフォンから、着信を知らせる音が鳴った。
……こんな時間に電話?
疑問に思いながらもスマートフォンを手に取ると、画面には、十勝叶の文字が表示されていた。
「………………」
電話に出ようとして、スライドボタンにかけた指を止める。
……いや、叶にしても何の用よ。
情報を伝えてくるために これまで十勝から何度か連絡はきていたが、それらは全てトークアプリの文面によるものだった。日中では、大っぴらにスマートフォンを使うのが難しいというのもあっただろうが、
……だからって、こんな時間にわざわざ電話をかけてくる理由が分からん。
考えて、しかし答えは出ず、相澤は仕方なしに電話に出る。
「もしもし」
「あ、やっと出た。今大丈夫?」
聞こえてくる十勝の声はいつもと変わらない。
起き上がって、ベッドの上であぐらをかきながら、相澤は十勝の声に応じた。
「大丈夫だけど……。電話までかけてきて何の用よ」
「うん。今日香楽から頼まれた件で、話したいことがあるんだけど。今から私の部屋まで来てくれない?」
「……ここで話せばいいじゃない」
「電話とか文字だと説明しづらいから、直接会って話がしたいのよ」
「……まあ、いいけど……。あんたと同室の奴は? まさか、一緒に話聞く訳じゃないでしょう?」
「ああ、そこは安心して。関係者以外は部屋に入れないようにするから」
――――?
何か引っかかる物言いだなと思いながらも、相澤はすぐに行くと言って電話を切る。
「………………」
時間にして数秒。相澤は目を瞑って天井を仰ぐ。
……何かある。多分、あいつ何か企んでる。
確たる根拠がある訳じゃない。十勝の様子におかしいところがあった訳でもない。ただの勘だ。一年と半年、十勝と友人であり続けたが故に働く勘。
……まあ、それでも行くんだけどさ。
十勝が何か企んでいようと、何かが仕組まれていようと、行かないという選択肢は相澤にはない。推理が煮詰まってきた現状では、どんな情報であっても手に入れておきたいのだ。
寝間着の上にパーカーをはおり、カードキーとスマートフォンを手に、自分の部屋を後にする。
……トラブルに巻き込まれそうになったら、まあ、その時に考えよう。
未来の自分に問題をぶん投げて、相澤は十勝の部屋へと向かう。
***
神楽:今部屋の前。開けて
相澤がトークアプリにそう打ち込むこと数秒。相澤の目の前の扉が開き、十勝が姿を見せた。
十勝は、廊下に人気がないことを確認すると、相澤を手招きで部屋へと入れる。
「誰にも見られてない?」
「当然」
なら良しと、十勝は相澤に、奥に行くように手で指示を出してくる。
「あんたと同室の奴は? もう出てった?」
奥に進みながら、相澤が後ろに問いかけると、
「――その問いに対する答えはいいえだな。相澤香楽」
前方、誰もいない筈の部屋の奥から聞こえてくる女の声が、相澤の問いに応じた。
途端、相澤は足を止め、後ろの十勝を睨む。
随分と聞き覚えのある声だ。具体的に言うと、今朝聞いたばかりの声。
……さっきしおりで、叶の泊まってる部屋を調べた時に気付きゃよかった……!
修学旅行に参加している特進クラスの全生徒に配られている旅のしおり。そこには、旅行の日程や注意事項の他、どの生徒が何号室に泊まっているのかといった情報も載っていた。
――相澤は、見落としていたのだ。
十勝のいる五○四号室。そこに、若鷺丞も泊まっているという事実に。
「………………」
逡巡して、相澤は前に進む。唯一の退路は十勝にふさがれていて、どのみち逃げることはできない。仕方ないという諦めが半分。残りの半分は、十勝に対する怒りだった。
何故、今この部屋に相澤と十勝以外の人間がいるのか。相澤がその理由を知る由はない。だが、それでも彼女には、分かっていることが一つだけあった。それは、
……これヘマじゃねえ、故意だ。
さっきから後ろの奴がへらへら笑っているのがいい証拠だろう。とりあえず叶は後で殴る。
とにかく、十勝は、自分の意思で若鷺を部屋から退出させなかった。それは何故か?
……決まってる。叶にそうしたい理由があったからだ。
その理由のヒントになることを、十勝は電話越しに語っていた。
……関係者以外は、部屋に入れないようにする。
変な言い方だと思った。私と叶の二人しかいないのに、どうして関係者なんて濁した言い方をするのか、と。今なら分かる。十勝にとって、関係者とは若鷺を含めた三人のことだったのだ。電話をしてきた時点で、そのことを相澤に伝えなかったのは、
……ま、私の反応見たさだろうけど。
しかし、これではっきりした。若鷺は、ローファー&じゃ○りこ行方不明事件について、何かを知っている。なら、相澤が進まない理由はない。
相澤は、若鷺とはほぼ初対面。若鷺のことは噂で又聞きする程度で、実際の人となりといった詳しい情報は何一つ知らない。本来であれば、そんな人物と相対をしにいくべきではないが、
……そっちから仕掛けてくるなら、こっちだって引く気はない。
ようは意地だ。成績トップがなんぼのもんじゃい。――情報、とれるだけとってやる。
出入り口の扉から進んだ先。今朝会ったばかりの人物の姿が視界に入ってきたところで、相澤は足を止める。
窓際にあるベッドの縁に腰掛けている若鷺丞は、部屋に入ってきた相澤を無表情で出迎えた。そんな若鷺に、相澤は愛想笑いを浮かべると、話の口火を切り出した。
「若鷺さん、だっけ? ごめんね、突然お邪魔して。
――とりあえず、用件だけ先に聞こうか。関係者さん」