闇の色
和風テイストがお好きな方におすすめします。
闇に怯える美津を見て、翔はくすりと笑った。
「ただ暗いだけじゃないか。怖いことなんて何もない。それよりも……」
本当に怖いものが何なのか教えてやろうか?
耳元でささやくように告げられて、あわてて首を横に振る。
翔はなおも笑いながら、それでも手早く明りを灯し、闇を追い払ってくれた。
美津は暗闇が苦手だった。
今年で十五になろうというのに、真っ暗い部屋に一人でいたりすると、ぎゅっと喉元を抑えられたように息が苦しくなり、心の臓が勝手に暴走を始めてしまう。
いつもはとんでもなく優しい兄が、なぜかそんな時に限って意地悪になる。
闇なんか少しも怖くない。
もっと怖いものは他にあるというのだが、それが一体何なのか、美津には聞く勇気がなかった。
翔はこの世でただ一人の身内なのに二人は少しも似ていない。
お姫様のようだと皆から羨ましがられる自分の外見が、美津はどうしても好きになれない。
外見だけなら我慢もできようが、見かけ通りの虚弱な身体が恨めしい。
黙々と立ち働く翔を不安な思いでそっと盗み見る。
冴えた美貌。
すっと伸びた背中。
野生の獣を思わせる引き締まった肉体から紡ぎ出される動きは洗練されていて、猫の額ほどの田圃を耕し、さらには近所の手伝い仕事をしながら、十歳年下の妹の面倒をみているような男にはとても見えない。
「具合が悪くなっても知らないぞ」
美津が野良仕事を手伝おうとすると、露骨にいやな顔をする。
翔の言葉を無視した翌日は決まって熱を出し、働き詰めの兄の仕事をさらに増やすことになる。
大切にされるのは嬉しいが、役に立てないことはとても悲しい。
「お嫁さんをもらわないの?」
「もてないからな」
さらりと告げる兄の顔をまともに見られない。
少なくとも、この村に住む年頃の娘たちはみんな兄に夢中なのだ。
養子の口だっていくらでもある。
隣村の庄屋から婿養子に欲しいと言われた時はさすがに驚いた。
断わる理由など何もないのに、兄はあっさりと断わってしまった。
それでも美津は騙されたふりをする。
ひょっとしたら自分と兄は血がつながっていないのではないか。
そんな思いが、ひょいと浮かんだのはつい最近のことだ。
「お美津ちゃん」
井戸端で野菜を洗っていると物陰から声をかけられた。
一人の少年が人懐っこい笑みを浮かべて手を振っている。
村で一二を争う豪農の息子。
年は美津と同じで、気さくで明るい性格が誰からも好かれる人気者だ。
「お美津ちゃんに近付く勇気があるのは俺ぐらいだな」
川べりを並んで歩きながら、少年は妙なことを言い出した。
不思議に思って理由を訊ねると、あいまいに笑ってみせてから、急に真面目な顔になり、美津のことが好きだと言った。
「俺の所に嫁にきてくれないか?」
生まれて初めての告白に美津は耳まで赤くなる。
嫁ぐ方はともかくとして、十五で妻を娶るのは早すぎるのではないか。
とまどいをあらわにそう言うと、少年は即座に首を横に振った。
「お美津ちゃんはきれいだから、すぐに誰かに取られてしまう。それに翔さんが……」
「お兄ちゃんが?」
ふいに近付いてきた少年の顔が、ぱっと離れた。
驚愕に見開かれた瞳には明らかな恐怖が浮かんでいる。
視線の先を追って振り返ると、野良仕事を終えて帰って来たらしい兄の翔が立っていた。
少年を見つめる瞳の色は闇のように暗い。
胸がどきりと鳴った。
けれども美津と目が合うと、その闇にほのかな明りがともる。
あわてふためいた少年の足音が急速に遠ざかっていくのを感じながら、美津は兄の目を見つめていた。
その日を境に美津の中で何かが変わった。
気が付くと兄の姿を目で追っている。
そして今さらのように、兄もまた美津の姿を目で追っていることに気が付いた。
藁葺き屋根のみずぼらしい家には、土間の小さな台所の他には、一つきりしか部屋がない。
一つ布団で寄り添うように眠った子供の頃と違い、今は端と端に離れて眠る。
寝息すらたてない兄は、起きているのか、寝ているのかもわからない。
貧しい暮らしの中で夜中に明りを灯すことなどできないから、翔は美津のために囲炉裏の火を絶やさない。
けれども何かの折に、ふっと消えてしまうことがある。
大抵は朝まで気付くことはないのだが……。
「……怖い」
密やかな囁きだけで、翔は必ず目を覚ます。
「臆病だな」
呆れたようにつぶやきながらも、すばやく身を起こして灰の中にうずもれた火を掻き起こした。
「そんな調子で嫁に行けるのか?」
無邪気に笑っている兄が、ほんの少しだけ恨めしい。
唇をとがらせて寝床から抜け出した美津は、囲炉裏の前に膝をついている兄の背後に回り込んだ。
肩に指先が触れた途端、武士のようにぴんと伸びた背中がびくりと震えた。
「もう子供じゃないんだから……」
そんな風にしがみつくなと叱る声は、かすかに震えを帯びていた。
ぱちぱちと木の爆ぜる音を聞きながら、広い背中に頬を押し当てた。
かすかな期待を裏切って、翔は頑なに背を向けたままだった。
仰々しい甲冑に身を固めた遠国の男たちが、鄙びた村を取り囲んだのは、それから数日の後だった。
「お美津ちゃん、大変だ!」
興奮した面持ちで土間に飛び込んで来た少年は、有無を言わさぬ様子で美津の手をつかんだ。
「迎えが来た!お美津ちゃんはやっぱりお姫様だったんだ!」
家の前に見知らぬ男たちが跪いていた。
「お美津様、よくぞご無事で……」
美々しい軍装に身を固めた壮年の男が顔を上げ、感極まった様子で目を潤ませた。
精悍に引き締まった頬を涙が伝う。
他の男たちも俯いたまま肩を震わせていた。
男たちから目を逸らし、すばやく左右を見回した美津は、罪人のように縄をかけらた兄を見て絶句した。
「近付いてはなりません!あの者こそ、お方様のお命を奪いお美津様をさらった極悪人です」
駆け寄ろうとした美津を、あわてて男たちがひきとめる。
何を言っているのだろう。
両親は美津が幼い頃に流行り病で死んだはずだ。
翔は兄であり、親代わりであり、そして……。
「お兄ちゃん!」
考えるよりも先に身体が動いていた。
美津は目の前に立ち塞がる男を思い切り突き飛ばした。
翔がまとった着物はあちこちが破れ、血がにじんでいた。
屈強な兵士に左右から羽交い絞めにされたまま、木偶のように俯いていた顔がゆっくりと上げられる。
頬の傷から流れ出す鮮血が、肩口を赤く染めていた。
「本当に怖いものが何なのか教えてやろう」
翔の唇には冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「お前が本当に恐れるべきものは、闇ではなくこの俺だ」
その目に宿る深い闇を見て、美津は無意識に悲鳴をあげていた。
自らの悲鳴に揺り動かされたように、遠い記憶が蘇る。
どうして忘れていたのだろう。
どうして思い出してしまったのだろう。
男たちが口々に何かを叫びながら、両手をさし伸ばすようにして走り寄ってくるのが見えた。
その向こうで、翔はどんな顔をしているか。
何一つ答えを見出せぬまま、美津は意識を手放してしまった。
記憶の中の幼い美津は大勢の家来にかしずかれていた。
城主である父に仕える小姓の中に一際目立つ少年がいた。
外見が美しいだけでなく、舞いの名手でもあったから、しばしば奥の屋敷に呼ばれ、女たちの前で舞いを披露した。
少年が浮かべる作りものめいた笑みが、美津は何となく苦手だった。
その姿がちらりとでも見えると、急いで座敷から逃げ出し、庭の石灯籠の陰に身を隠した。
「姫は私のことがお嫌いなようですね」
いつものように庭に隠れていた美津は、座りこんだまま顔を上げた。
そこには例の少年が立っていたが、いつもの作り物めいた微笑を浮かべてはいなかった。
「あなたは人を見る目がおありだ」
私がここに来た時は、いつもそこに隠れているといい。
耳打ちした口調の冷たさとは裏腹に、美津の頭を優しく撫でた。
父と母以外の人に頭を撫でられたのは初めてだった。
美津は金魚のように口をパクパクさせたが、声にはならなかった。
たれこめた雲が、月も星も覆い隠した夜のこと。
猫のような敏捷さで座敷に入ってきた少年は、美津の小さな唇に素早く指先を押し当てた。
「用事を済ませたらすぐに出て行きますから、しばらく庭にいて頂けませんか?」
無言のままこくりと頷いた美津は、いったんは庭に出たものの、すぐに思い直して少年の後を追った。
頭を撫でてもらった日から、少年に対する小さな好奇心がむくむくと頭をもたげていた。
そのせいなのか、どうなのか。
美津はその日に限って、少年の舞いを見てみたいと思ったのだ。
けれども美津がそこで見たものは、舞いを舞う少年の姿ではなかった。
行灯の明りが消された真っ暗な部屋には奇妙な匂いがたちこめていた。
「母上様?」
前に足を踏み出した美津は、次の瞬間には、派手に転んで悲鳴をあげていた。
座敷に横たわるそれは温かく、触れるとねっとりと濡れていた。
闇の中に自分の手をかざした美津は、濡れた掌と目の前に転がる「何か」とを見比べた。
血まみれになって倒れているのは他ならぬ自分の母親だった。
母に仕える侍女たちも折り重なったまま動かない。
「美津姫だ、美津姫がいるぞ!」
ようやく全てを悟った時、野太い男の声がした。
「俺がやる」
続いて聞こえてきたのは、感情が欠落した少年の声だった。
その言葉が意味するものは、幼心にも理解できた。
逃げなくてはと思うのに、身体がどうしても動かない。
腕をつかまれて庭に引きずり出された途端、ごんと背中に硬いものがあたり、たわいなく尻餅をついた。
雲の切れ間から差し込んだ月の光が、血に濡れた刀をぼんやりと浮かび上がらせる。
ゆっくりと視線を上げていった美津は、恐慌をきたして悲鳴をあげた。
じっとこちらを見下ろしている。
全身に血を浴びて立つ少年の瞳は深い闇と同じ色だった。
それから十年もの間、美津は何もかも忘れたまま、少年とともに暮らしてきた。
舞いの名手とされた少年は、とある剣術流派の跡取だったという。
戦乱の世が終わり、武道は廃れ、細々と続けてきた道場も父の代で潰れてしまった。
少年の稀有な才能を見出したのは、皮肉にも闇に暗躍する者たちだった。
正室の暗殺を命じたのは、城主の寵姫である若い側室だったという。
懐妊によって大きな野心が膨らんだ。
正室とその姫をなき者にすれば、目がくらもほどの富みと権力を、手に入れることができると思ったらしい。
「闇は怖いんじゃなかったのか?」
暗い地下牢につながれた青年は、皮肉な笑みを浮かべてみせた。
端正な面には、どす黒い血のかたまりがこびりついている。
美津は答えるかわりに、牢の格子に手をかけた。
「どうして私を助けたの?」
「気まぐれだ」
感情のこもらぬ声で告げてから、青年は唇を歪ませた。
「気まぐれ?」
「そうだ、それだけのことだ」
そっけなく背を向けられても、美津はその場を動かなかった。
あの十年を「気まぐれ」という一言で片付けてしまっても良いのだろうか。
あともう四半時もすれば、青年は刑場に引き立てられ、首を刎ねられる。
その前に告げるべき言葉があるような気がした。
遠くからかすかな足音が近づいて来る。
美津ははっとして顔を上げた。
刑場の役人が来るまでに戻って来るというのが、牢番との約束だったのだ。
許された時間が今まさに尽きようとしている。
「怖くない!」
大声で叫んだ途端、翔ははじかれたように振り返った。
「怖くない、私はお兄ちゃんが好き、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい!」
驚愕に見開かれた瞳を一つ二つ瞬いて、翔は困ったように微笑んだ。
瞳を覆う闇の色がじんわりと溶けていく。
何も考えられなくなった美津は、格子にしがみついて泣きじゃくった。
瞳に宿った闇は絶望の色だ。
そして深い悲しみの色だ。
全てを洗い流した美しい瞳が切なげに細められ、伸びてきた指先がそっと美津の頬に触れた。
「お前が怖いと思っていたものは、俺が全部持って行く」
最後に向けられた笑みの優しさに、美津はまた涙が出た。
-了-
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