言葉のラミネート
小窓から差し込む朝日。それは瞼越しに私の目を刺激すると覚せいを促す。
もう少し眼を閉じていたい。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、瞼を軽くこすって身を起こした。
おはよう。今日も一日がんばりましょうね。
これは君のいつものセリフ。
ああ、おはよう。今日もいい朝だね。
私はそう言って返した。
今朝の朝食は食パンとハムエッグ、それと少々のサラダ。
ちゃんと野菜も食べてね。 ……あなたの健康のためなんですから。
君は少し困り顔で微笑んで言っていた。
少々野菜の苦手な私は、君のその顔にサラダとにらめっこを余儀なくされる。
そしていつも根負けするのは私だった。
スーツを着て会社に行く準備をする。実は今日で定年で会社に行くのは今日で最後だ。
私は、玄関に置いてある小さな鏡に向かってネクタイを締め直す。
今日もネクタイがばっちり決まってるわよ、あなた。
君のその言葉まででいつものワンセット。私はよしと玄関のドアノブに手をかける。
いってらっしゃい。
――いってきます。
私は扉を開いて外へと踏み出す。
君が先に逝ってから、もうだいぶ経つ。
君が命がけで遺してくれたものは見事に次へと繋がっていったよ。
君がもう長くないと分かった時に残してくれた言葉。それは今でも家のいたるところに置いてある。
もっと早く気付けばよかったんだけど、少しラミネートするのが遅くて紙は少々黄色くなってしまった。
それでも、私の君との思い出は色あせていないつもりだ。
覚えているかい?
君と初めてデートした日の事だ。
初めてのデートだと言うのに私は待ち合わせ時間に遅れてしまった。
念願の君とのデートだと言うのに、何と説明しようか。いや、それよりも何と説明するべきか。
……それよりも、呆れて帰ってはいないだろうか?
そんな事も頭をよぎったがそれを振り払うように私は走って待ち合わせ場所へ行った。
待ち合わせ場所に着いた時、君は待っていてくれた。
すぐに言い訳をしなければ。私はそう思ったものの、走るのに必死になりすぎて言い訳を考えていなかった。
いや、それよりも君の純白のワンピースが眩しすぎて言葉を失っていた。
私は君の傍まで駆け寄るも、すぐに言葉が紡げずに一瞬佇んでしまっていたかのように思う。
そんな不自然な様子の私に対して君は――
あ、おかえり。
――何故かそう言った。
はてなと、私は君の顔を眺めた。ショッピングモールのショーウィンドウに移る私の顔はキョトンとしていた事だろう。
君もそれはすぐに気が付いたのか、ハッと息を飲んだ顔をした。
そんな君が可笑しかった。
そんな君が改めてすごくいとおしかった。
私は――
ただいま。
――っと返した。
緊張していたし、時間になっていても来ないから急にあなたの顔が見えた時は頭が真っ白になってついって。君は必死に言い訳するようにそう言ったね。
なんだ、僕と一緒だったんだね。そう言って笑うと、君も笑ってくれたんだ。
それで緊張がほぐれて、あの日はとても楽しい一日になったね。
そんな君がもう余命幾許もないとの告知を受けた時。私はまさにビルの屋上から転落するかのような錯覚さえ覚えた。
その日は君と抱き合って一日中泣いたのだったね。
だけど君は次の日には何かを書き出していた。
私は何を書いているのかと聞くと、君は言った。
まだ何も分かっていない子供が大きくなるまで……
それと寂しがり屋のあなたの傍にずっといれるように。
……そう言って書いてくれた君の言葉を私は抱きしめた。そして、半年後に家中に貼ったんだ。
会社の送別会もそこそこに済ませて、私は家に帰って扉を開ける。
真っ暗な玄関。私はそばに在るスイッチを押して明かりをつける。
そしたら一番に目に入ってくる言葉。
おかえりなさい。今日もお疲れさまでした。
そして私はこう返す。
ただいま。
何百回、何千回、もう万ほど言ったのかもしれない。
だけど、いつまでたってもそれに飽きることなどは無い。
私はリビングで晩酌をする。
送別会とは名目で、ただ酒を飲んで騒ぎたいだけの連中が集まった会だ。
ありがたいが、私としては少々飲み足りない。
グラスは二つ。君と、私の分。
今日は何の話をしようか……
そういえば、今日は子供から手紙が送られてきたんだった。
孫の写真が沢山添えられていた。君も見るかい?
ずいぶん大きくなったね。子供は私に似たが、孫は君の面影を感じるね。
特にこの写真。満開の笑顔が君にそっくりだよ。
……こうなると欲が出てくる。
子供が大きくなって、定年になって会社に迷惑をかけないようになったら、君の後を追おうかと思った事もたくさんあった。
それでも、今こうしてかわいい孫の写真を見ると、もう少しだけ大きく成長する姿を見たいと思った。
私は結構優柔不断なのかもしれないね。
案外、子供も私のそういうところを知って今日に手紙が届くようにしたのかもしれない。
……なら私は外に出かけるときはネクタイを締めよう。
君が私のネクタイがばっちりときまっていると言うのなら、私はネクタイが似合う私であり続けたい。
会社にいくわけでもない、だがそれをこれからの私の矜持としよう。
ふふふ……。今日は少し飲みすぎたかな?
そろそろ寝るとするか。
私は寝室に戻るとそのまま倒れ込むようにベッドに寝転がった。
そして枕もとのスタンドライトに手を伸ばす。
おやすみなさい。また明日。
ああ、おやすみ。
そうやって私はスタンドライトの灯りを消した。
真っ暗になった部屋で私は目を閉じる。
その時瞼に浮かんだのは君が言った最後の言葉。
先に逝って、待っています。
けど、あなたはゆっくり来て下さいね。どれだけ遅刻しても待っていますから。
……ごめん。もう少し遅刻させてもらうよ。
その代わり土産をいっぱい持っていこう。
実際に荷物を下げて行く事は出来ないだろうから、土産話くらいになるだろうけど。
たくさんたくさん持っていくから。
いつ待ち合わせ場所にいけるかは分からない。
それでも今日が終わって、一歩待ち合わせ場所には近づいた。
必ず辿りつくから、待っていて欲しい。
もし、待ち合わせ場所にたどり着いたら。
私はただいまって言うよ。
……君は、おかえりって言ってくれるかな?