記憶
実は、少し脚色してありますが、ほぼノンフィクションの私の体験談だったりします。続きがあるような終わり方をしているので消化不良かもしれませんが、続きはまた時間がある時に書こうと思います。感想ぜひお聞かせください。
確か、男の人の顔だったと思う。
赤黒い、顔のような——塊。
衝撃をもって脳に刻み込まれた幼い頃の記憶。
あの夜の事は鮮明に覚えている。
ただあの顔が誰だったのか
それだけが良く思い出せない。
恐怖に屈した脳が記憶を消そうとしているのだろうか。
その夜は、ばりばりと窓ガラスを揺らすほどの強い風が吹いていて、
とても怖かったのを覚えている。
このまま家が飛ばされてしまうんじゃないかと不安になりながら、私は姉の背中にくっついて布団の中で必死に目を閉じていた。
背を向けて横たわる姉はすでに寝息をたてていたが、風の音に過敏になった私はどうにも眠る事が出来なかった。
息を殺して目を閉じる。
すると怯えた私の耳は研ぎ澄まされ、姉の心臓の音を通り過ぎ、内臓がゆっくりと動くその粘着質な音さえも聞こえるようになった。
充満した二酸化炭素の息苦しさに布団から顔を出した私は、頬に触れた冷たい空気に思わず身震いをした。
薄く開いたふすまから明かりが漏れていた。
風の音に混じった、赤子の悲鳴のような猫の声。
何かが風に飛ばされたのだろうか。遠くの方からバケツが転がるような音が聞こえた。
また目を閉じて息をする。
冷たい酸素が肺の隅々まで行き渡る。
目を閉じて——それからどれくらい経っただろう。
あんなに耳障りだった風の音は気がつくとすっかりしなくなっていた。
ようやく眠気を感じ始めた私は、ゆっくりと沈み行く感覚に身を任せた。
ああ、やっと眠れる。——そんな時だった。
突然、私は誰かに揺り起こされた。
眠りの浅かった私はすぐに目を開き、私を起こしたその人を見た。
「由美、ちょっと起きて」
母だった。慌てた様子で覗き込む母の後ろでは顔を青くした父が立っていた。
「…何?お母さん」
「さっき電話があって親戚の満おじさんが危篤だそうなの。今から病院へ行って来るから…悪いんだけど恵美とお留守番してくれる?」
「…え?満おじさんが?」
電話の音は聞こえなかった。
浅いと思っていた私の眠りは、短い時間で深い所まで堕ちていたのだろうか。
満おじさんとは父の二つ上の兄だった。
旅行が趣味で、幼かった私にとってはよくお土産を持って遊びに来てくれる優しいおじさん。
父よりも年上なのに、独身だったからなのかとても若く見えた。
そんなおじが自分の家の近所の病院に入院したと聞いたのは、二年前の夏だった。
電話口で母が話していたのを覚えている。
「そうなの満さんが…そんな状態じゃとても一人暮らしなんかさせてられないわね。…でもまさか徘徊までするなんて…。ああ、そうだわ。看護士のお友達がいるから相談してみるわね」
電話の相手が誰だったのかはわからなかったが、電話口で話す母の顔がとても暗かったのを覚えている。
その電話を聞いた一週間後には、伯父さんの入院が決まったと父が話していた。
父が言った病院の名前には覚えがあった。
夏に一度、男の子の友達とそのお母さんと一緒に虫を捕りに行った事があった。
その森の一角に、その病院はあった。
森の清々しい木漏れ日の中にあったその建物は、その雰囲気と全く馴染む事なくそこにあり、灰色の壁に囲われたその姿は子供心にも異様な印象を受けた。
「由美ちゃん、あんまり奥まで行かないで」
そう言われて引き返したその病院が精神病院という種類のものだと、虫を捕りに行った帰りにその友達の母親が少し話してくれたが、幼かった私には良くわからなかった。
ただ、あまり近づいては行けない、という事だけ頭に残った。
「すぐに戻って来るから。きちんと鍵をかけるのよ」
母はそう言うと、パジャマの下をジーンズに履き替えただけの姿にジャンパーを羽織って、父とともに早足でと玄関へ向かった。
「いやだあ私も一緒に行くう」
突然両親がいなくなってしまう、という心細さに、思わず走って後を追った私は玄関先で大きな声を上げて泣いた。
「お願いよ由美、すぐに帰って来るから」
ひどく困惑した顔をしながら頼み込むようにして母はそう言うと、腰をかがめてジャンパーの裾を掴んだ私の手をそっと引き剥がした。
「恵美、悪いけど急ぐから後はお願いね。由美、お姉ちゃんの言う事聞くのよ」
母はそう言うと、ぎゅっと握った私の手を姉の手に乗せ、急いで玄関を出て行った。
庭に停めてある車からエンジン音が響く。
「大丈夫だよ由美、お姉ちゃんがいるじゃない」
声を引き攣らせて泣く私を、玄関の鍵を閉め終えた姉はそう言って優しく抱き寄せてくれた。
「寒いから早く部屋に戻ろう」
姉の手に引かれて私は俯きながら冷たい廊下を歩いた。
まだ春の気配のしない二月の真夜中。
がたがたと立て付けの悪い引き戸の玄関からは、時折狭い隙間を入って来た風がひぅうっと高い音が響く。
素足で歩く板の間は足先が痺れてしまいそうなほど冷たかった。
そんなに広い家ではなかったが、祖父の代から住み続けていた家は古く、ぎしぎしと軋む音がするのは日常茶飯事だった。だがいくら日常茶飯事だったとはいえ、慣れるものではない。
夜中になるとその雰囲気はぐっと怖さを増した。
「…何だか私、目が冴えちゃったな」
廊下にある裸電球の薄明かりの中、恐ろしさにぎゅっと目を閉じたまま歩いていた私に、姉は突然立ち止まるとあまり緊張感を感じない声でぼそりと呟いた。
「な…何?お姉ちゃん」
「ね、せっかくお父さんもお母さんもいないんだし、テレビでも見ない?」
「…テレビ?」
うきうきと目を輝かせる姉とは違い、私にはこんな真夜中に見たいテレビがやっているとは思えなかった。それに時間に厳しかった父の方針で、八時以降にテレビを見せてもらった事はなく、姉の言っている事がいけない事だと言う事はすぐにわかった。
「深夜にね、私の好きな歌手が出る番組があるって友達が言ってたの。こんな時じゃないと絶対に見せてもらえないし。由美だって一人で寝るの怖いでしょ?」
「え…」
明かりの付いた部屋は数歩先に見えていた。
早く部屋に戻ってこの怖い思いから解放されたい。
姉は私が返事をするまで立ち止まったまま動かなかった。
その瞳は優しく微笑んでいたが、『両親には絶対に言わないでね』と脅されているのだと感じた。
「…うん」
「よし。じゃぁお父さんとお母さんには内緒ね」
渋々そう頷いた私に、姉はそう言って笑うと、再び歩き始め、部屋のふすまを開いた。
付けっ放しの明かりの下で、姉と私の布団が抜け出た形のまま背中を見せて主人を待っていた。
本来ならまだ温もりの残る布団の中に戻るべきなのだろうとうらめしく思いながらも、私はおずおずと乱れた布団の足場の悪さもかまわずに布団の上を歩いて行く姉の後を付いて行った。
寝室と居間の間にあったふすまは開いていた。
部屋の中には焦げ茶色の小さな戸棚とコタツがあり、そして古びたテレビがあった。
それは今時珍しいダイヤル式のテレビで、祖父から貰ったものなのだと父が言っていた。
焦げ茶色の戸棚も、このコタツも、テレビも。全部祖父から貰ったものだった。
今思えば貰ったと言うより、祖父の家に両親が一緒に住んでいたと言うのが正しいのだと思う。
祖父、祖母が亡くなり、使っていた家具は自動的に両親のものになった。
「由美、早くこっちにおいで」
姉はこたつに入りながら手招きをした。
私は言われるままに姉の横にちょこんと座った。
テレビの電源ボタンは固く、押し込むとボチッという固そうな音をさせた。
どうん、と鈍い音をさせて画面が反応する。
そして眩しいほどの鮮やかな画は数秒置いてから映り出した。
私は思わず目を細めた。
「うわ、ちょっと音大きいね」
突然鳴りだした音に驚いた姉は、さっと手を伸ばすと音量のツマミをひねって素早く音量を絞ると、うきうきとした表情でダイヤルをまわした。
「…どのチャンネルだったかな」
そう言って姉が、がちゃがちゃと何度かダイヤルをまわしたその時だった。
突然、ざりざりとした耳障りな音が鳴った。
「——え?何?」
姉が声を上げた。
一瞬、画面が暗くなったのだ。
「何で?」
そう言った次の瞬間、一緒にテレビを見ていた姉が小さく悲鳴を上げた。
突然、浮かび上がって来たのだ。
テレビの画面が急に真っ暗になったのを不思議に思った姉が、電源ランプを確認しようと覗き込んだ瞬間。
黒い画面の一点が突然、大きな顔になった。
ぶあっ、と一瞬で画面いっぱいに膨張したそれは、顔中を赤黒く染めた男の顔だった。
それが若い男だったのか、年老いた老人だったのか。私には良くわからなかった。
とにかくその男はまるで狭い画面の中に押し詰められているように苦しそうに喘いでいた。
「ひ…っやだぁっ何…っ?」
ひぃっという悲鳴と共にそう叫ぶと、姉は飛び退きながらすぐにテレビの主電源を切った。
それを見たのはほんの一瞬だった。
私はまるで画面に映ったそれに心臓を掴まれたかの様に息を詰めた。
断ち切られた画面にはもう何も映ってはいなかった。
「やだ…っ何これ…っ何今の…っ」
姉は声を震わせながらそう言うと、腰を抜かしたままぶるぶると震える手で私の腕を掴んだ。
「ねぇやだ…もう寝よう…っ」
「でも…お姉ちゃん」
「い…いいからっ早く寝ようっ」
「…でも」
怖くなかった訳ではない。
今考えてみれば、その時の私は涙目の姉の願いに何故素直に動かなかったのだろう。
目にしたそれは明らかに異形だったし、私の指先はショックのせいでひどく冷たかったのに。
「もういいからっ早く…っ」
恐怖に怯えた姉は素直に動かない私に苛ついたのだろう。
叫ぶようにそう言った姉は、掴んだ私の腕を強く引っ張って無理矢理立たせると、その場から逃げるようにして布団に潜り込んだ。
飛び出した部屋には明かりが付いたまま。
「…お姉ちゃん」
頭でかぶった姉の布団の中で、私は息をひそめて声をかけた。
「ね…寝るんだから…っ声かけないでよ…」
眠ってしまえば全て夢に出来る。
そう信じている様に、姉は丸めた背中を向けながら必死に目を閉じていた。
「ねぇ…テレビの部屋の電気消さなくて怒られない?」
姉は背中をつついてぼそりと呟いた。
今思えば何て空気の読めない妹だろうと思っただろう。
しばらくの沈黙があった。
沈黙ではなく、今思えばそれは無視されていたのだと思うが、その時の私にはわからなかった。
ずっと待っていた。
呼吸とともに動く姉の背中にくっつきながら、「消して来て」と言ってくれるのを待っていた。
どのくらいそうしていただろう。
気がつくと姉の呼吸音は寝息となり、冷たかった私の足先はほんのりと暖まっていた。
(勝手に布団を出たらお姉ちゃん怒るかな)
そう思いながらも、私の意識はゆっくりと眠気に誘われ、身を委ねようとしていた。
(行かなくちゃいけないのに…)
そして私は知らぬうちに緩やかな深い眠りに沈み込んでしまった。
だってあのテレビの中の男は私の名を呼んだのだ。
『由美子、助けてくれ』と。
初めて書いたホラーです。感想お待ちしております。