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名ノ楔

作者: 莉音

 呆然とリリーは己を閉じ込めるように廻った王子の腕の中で、毅然とこちらを睨みつける黒髪の男を見上げた。当国第三王子であるセージに対して、不敬とも言える険しい表情を浮かべる彼の髪は腰まで美しくさらりと伸びていた筈だったが、まるで乱暴に引き千切ったかのように首筋でざんばらに揺れていた。

――アギ、どうして。

声なくリリーは衝撃に口を押さえ、幼馴染である彼を凝視した。動揺する彼女へ一瞬大丈夫だとでもいいたげに目を細めてみせた彼は、されどきりりとまるで敵を狙うような鋭い目でその身を挺して庇うべき王子へ向き合い、落ち着いてはいるが険しい声で、セージ殿下、と呼びかけた。そうして続けられた言葉に、リリーは呼吸が止まって死んでしまうかと思うほどに驚いた。


「もし私がリリー様の真名を一度で当てられたら、彼女を私と結婚させてください」


よろしいですね、と問う彼の声は、是という返答以外受付けようとはしていなかった。



 この国には、古くから続く婚姻に関するある特殊な慣習がある。それは、夫婦となる男と女のみが互いの真名を知り、その真名を知り合うことでもって婚姻の契約とすることだ。特に女の真名は重要視され、それこそ名を授ける両親と伴侶以外が真名を知ることは滅多になく、真名を表に出すことは他者がいる場で絶対にしない。王族ですら真名を明かさず、常に愛称で通すようになっている。

そんな風習の中で、リリーはセージと婚姻の儀を結ばれた。婚姻には両者の真名が必要であり、セージはリリーではなく、彼女の父であるイキシア伯爵が、王族との婚姻のために真名をセージへ教えたのだ。彼女自身も彼の真名を教えられたが、畏れ多くて一度も表に出したことはない。

 リリーはセージを良い友であると思っていた。遊び相手として伯爵家より城へ通うようになってから10年余り、一度だってリリーはセージを嫌ったことはない。しかし、そんな彼のことを夫として愛し、妻として尽くせるようになるかどうかは別の話だ。

何しろ、リリーの胸には幼い頃からずっと恋い慕う相手が居たのだから。



 真名を一度で当てるという行為は、横恋慕した男、もしくは女がその相手へ対し求婚する正式な作法であった。その作法に則って求めたアギは、律儀に立会人として互いに対して中立であり、リリーの友人であるクリヴィナを連れてきていた。赤いドレスに身を包んだ彼女はリリーを案ずるように見て、すぐにじっと視線を落とした。

「それではやってみろ」

そうなげやりに言いつつ、リリーを抱き寄せる白く細い骨ばった手に、ぎゅっと力がこもる。意図せず動かされたために、親衛隊の青い騎士衣装に身を包んだアギとの視線が逸れた。アギ。思わずリリーは視線を揺らし、縋るように距離をとって立つ黒髪の騎士を胸の内で呼んだ。

――アギ。


 暫く緊張したように、ぎゅっと口を結んでいた彼は目を伏せ、それから深く息を吐いた。じきにゆっくりと上げられた表情に険しさはなく、彼は、そっと薄い唇を開く。


「リリアヴェール、――来い」


 一瞬の沈黙の後、はっ、とセージの鼻で笑う声がリリーの頭上で響いた。リリアヴェール。セージの知るリリーの真名は、そんな安易なものではない。もっとずっと長く、複雑に構成された、もっと美しく神秘的な名だった。もとより王侯貴族の真名は捏造婚姻を防ぐために年々長くなっており、今ではそれこそ詩か歌のようなものが一般的である。嘲るようなセージの視線に込められた憐れみのような色にも構わず、アギはリリーの顔をじっと見つめた。微動だにせず見つめるばかりのリリーと視線が絡みあい、いくらか距離があるというのにアギにはくるんと丸い琥珀色のリリーの瞳の中に、己の顔が映っているとすら感じられた。

 薄紅色のリリーの唇が、頼りなさげに震える。ふらりとアギの方へ向き直ったリリーは、そっと己を拘束するセージの腕から抜けた。

「リリー」

予想外の反応に、セージは思わず己の妻の名を小さく呼んだ。リリーは、ゆっくりアギへ歩み寄り、その頬へ手を伸ばした。


「――アギルヴァーダ、正解ですわ」


「リリー?!」

 愕然とした声を上げるセージに構うこと無く、正解と言われた瞬間アギはリリーをその日に焼けた手で抱き寄せ、しかと腕の中に閉じ込めた。ぎゅうぎゅうと抱き締め、きついほどに抱き締められ、二人は幸せそうに微笑み合う。アギルヴァーダ、そのような名であるはずがない。アギとてリリーと同じ貴族出身であり、寧ろ伯爵家より位の高い公爵家なのだから、とうぜん覚え切れないほど長い名であるはずなのだ。


「殿下、失恋ですわね」

 呆然と立ち尽くすセージにそっと近づき、静かな声で告げたのは、立ち会っていたクリヴィナだった。しかし、セージは彼女に視線をやる余裕もなく、ただ唖然とした表情のまま二人の幸せそうな姿を注視し続ける。

「――リリーの真名は、あんなものではない筈だ…なのに、なぜ」

うわ言のように紡がれる言葉に、クリヴィナはそっと視線をさげ、憂いを含んだ表情で小さく首を振る。

「いいえ、殿下。リリーの真名はあれでよろしいのです。あれは、彼がリリーへ捧げた、生まれて初めての誓いなのですから」


 リリーとアギの出会いはそれこそ赤子の頃まで遡る。そして、幼いながらに互いに好意を抱きあった二人は、いずれ貴族の子どもとして生まれたからには家の都合で嫁がされることもあろうとある程度早いうちから知っていた。だからというわけでもないが、真名を交わすことで先に婚姻の約束を結ぼうと決めた二人は、されど長ったらしい己の名前すら満足には覚えきれておらず、親に聞くわけにも行かない二人は考えた。

――その結果が、互いで互いの真名を互いに付け合うことだった。

 その話をリリーから聞いたクリヴィナは、ロマンチックなその話に興味を持ち、文献を当たってみた。その結果、当然のように親から与えられた名を使うことが殆どである現在と違い、かつては互いに真名を付け合う風習が一般的であり、今も幾つかの辺境の村では尚行われているという事実が判明したのだ。


「殿下、他の誰かから伝え聞いた真名など、何の意味もないのです」

クリヴィナは酷なことだと知りながら、声が震えぬよう淡々と告げた。説明をうけたセージはぐっと苦々しそうに顔をしかめ、視線をそろそろと二人から外そうとした。


「殿下」

その矢先、アギがセージを呼んだ。はっとしたように視線を戻したセージは、すぐに深く溜息を吐いて、疲れたように言った。

「俺の負けだ、――リリーを連れて行け」

 アギがさっと頭を深く、ぴしっと腰を垂直になるまで下げて礼をした。リリーもそっとたおやかに頭を下げる。桃色の軽くウェーブのかかった柔らかな髪が、ふわりと宙に靡いた。そのまま数歩扉に向かい、振り向かずにアギは扉に手をかけた。


「セージ様」

 振り向いたのは、望んでこの場に来たわけでもなければ、望んで側にいたわけでもない、リリーだった。セージが一番好きで、しかし連れてきてから一度も見せてくれなかった笑顔をふわりと浮かべて、リリーはスカートをそっと摘んで礼をした。何を言うのかと身構えたセージとアギの予想に反して、リリーは何も言わず、さっと踵を返してアギの開けた扉の向こうへ姿を消した。アギが普段の仏頂面からは想像もできぬ柔らかな苦笑を浮かべて、その背を追った。そうして、扉が閉まる。


「――まったく、リリーったら」

 苦笑交じりのクリヴィナの声を背中越しに聞いたセージは、なぜだかとても泣きたくなった。

即興で浮かんだ設定で習作として書いたので、お見苦しい点もあると思います。

誤字脱字等ご指摘いただければ幸いです。

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