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カーテンの隙間から柔らかな朝の光が差し込み、オンディーヌはゆっくりと目を覚ました。
寝返りを打とうとして、足首の金の鎖がじゃらりと小さく音を立てる。その音で、昨夜起きたすべての出来事が一気に脳裏に蘇り、オンディーヌは跳ね起きるようにして視線をベッドの脇へと向けた。
「――おはようございます、オンディーヌ。心地よく眠れましたか?」
そこには、昨夜と全く同じ姿勢で、ベッドの横に端然と跪いたままのフロワがいた。一晩中一歩も動いていなかったのか、仕立ての良い軍服には皺一つなく、その漆黒の髪も完璧に整えられている。ただ、その赤い瞳だけが、朝露に濡れたように妖しくきらめいていた。
「貴方……本当に一晩中そこにいたの?」
オンディーヌは呆れを通り越して、少しだけ引いた。
「ええ。君が『勝手にしなさい』と仰いましたからね。私にとっては、君の寝顔を特等席で見守り続ける、至福の夜でしたよ」
「……変態ね。やっぱりつける薬がないわ」
オンディーヌがシーツを抱え直して睨みつけると、フロワは心底嬉しそうに目を細めた。
テーブルの上を見ると、昨夜彼が持ってきたタルトの器が綺麗に空になっている。オンディーヌが夜中にフロワがわざと目を閉じた隙に、こっそり完食したのを、彼はちゃんと気づいていた。
「お口に合ったようで何よりです。さて、朝のお着替えの準備を――」
フロワが立ち上がり、オンディーヌの夜着のボタンに手を伸ばそうとした、その時だった。
バァン!!! と、部屋の重厚な扉が文字通り蹴破られる勢いで開け放たれた。
「お姉ちゃん!!! おはよう!!!」
入ってきたのは、小さな王冠を頭にちょこんと載せた8歳の新王、デュークだった。
彼はまだ長い裾のマントを引きずりながら、一目散にベッドへと走ってくると、フロワを小さな体で思いきり突き飛ばし、オンディーヌの布団の中に潜り込んできた。
「デューク! おはよう。相変わらず元気ね」
「うん! 僕ね、お姉ちゃんに早く会いたくて、朝の会議を全部すっぽかして来ちゃった! えへへ、お姉ちゃんの匂い、すっごく落ち着く……」
オンディーヌの腰にぎゅっと抱きつき、猫のように顔を擦り寄せるデューク。
5年間の空白などなかったかのように、純粋に「お姉ちゃん」を求めて甘える弟の姿に、オンディーヌの心はポカポカと温かくなる。この子のこの純粋さを守るためなら、フロワの狂気くらい、いくらでも相手になってやろうと思えるのだ。
オンディーヌが優しくデュークの髪を撫でていると、背後から「ゴゴゴ……」と効果音が聞こえそうなほどの、凄まじく冷たい笑顔のフロワが静かに近づいてきた。
「デューク陛下。……朝の国務会議を『すっぽかした』とは、一国の王としていささか自覚が足りないのでは? それに、いくら実の姉弟とはいえ、17歳のお嬢様のベッドに殿方が潜り込むなど、不敬が過ぎます」
「うるさいなー、フロワ! 僕は王様なんだから、いつだってお姉ちゃんの隣にいる権利があるんだい! それに、フロワこそお姉ちゃんに変なハーブティー飲ませて毒殺しようとしてないだろうね!?」
デュークは布団から顔だけを出して、ふんす!とフロワを睨みつける。
フロワは完璧な笑顔で、デュークの小さな脇の下に手を差し入れると、ひょいと子猫のように抱き上げた。
「おやおや、人聞きの悪い。私はオンディーヌ様の健康を誰よりも管理する完璧な従者ですよ。さあ、陛下、オンディーヌ様がお着替えをされますので、大人しく退室を。……拒むのであれば、後ほど訓練場で、私の特製魔法をみっちり3時間ほどお見舞いいたしますが?」
「うわぁぁん! お姉ちゃん! フロワがまた僕をいじめる! 職権乱用だー!」
宙ぶらりんになりながら手足をバタバタさせるデューク。オンディーヌはクスリと笑ってしまい、ベッドからフロワを見上げた。
「フロワ、デュークをあまりいじめないで。……デューク、お仕事が終わったら、また一緒にお昼ご飯を食べましょうね。約束よ」
そのオンディーヌの優しい言葉に、デュークは一瞬でパァァァと顔を輝かせた。
「うん! 僕、お仕事頑張る! フロワ、早く僕を降ろせ! 執務室に行く!」
「……御意に」
フロワはデュークを床に降ろすと、パタパタと廊下を駆けていく足音が遠ざかり、部屋に再び2人の呼吸の音だけが残される。
「さて……」
フロワは静かに扉を閉めると、鍵をガチリと施錠した。その音だけで、オンディーヌの背中に小さな鳥肌が立つ。昼間の光の中だというのに、彼と二人きりになる空間は、どうしてこうも濃密で息苦しいのだろう。
フロワは部屋の隅にあるドレッサーから、一本の純銀の髪梳きを手に取り、ゆっくりとベッドの上のオンディーヌへと歩み寄ってきた。
「まずはその美しい髪を整えましょう。幽閉されていた間も、私の教え通り、手入れは怠っていなかったようですね。見事な艶だ」
「……触らないでって言ったでしょう。お着替えも髪結いも、侍女を呼んでくれれば自分でやるわ」
オンディーヌはベッドの頭のボードに背中を預け、彼をキッと睨みつける。だが、フロワはその強い視線すら極上のご褒美であるかのように受け流し、オンディーヌの背後に音もなく腰掛けた。
「我が儘を仰らないでください。君の髪に触れていいのは、この世で私一人だけです」
「っ……!」
有無を言わせぬ絶対的な声音。
フロワの長い指先が、オンディーヌの豊かな髪にそっと分け入る。ひんやりとした純銀のブラシが、頭皮から毛先へと滑り落ちるたび、オンディーヌの身体が微かにビクンと跳ねた。
5年ぶりの、彼の指の感触。
戦場を潜り抜けてきた男の指先は、かつての少年の頃よりも少し硬く、けれど驚くほど優しく、丁寧にオンディーヌの髪を梳かしていく。
「……ねえ、フロワ、私考えていたの」
ブラシの心地よい刺激に身を委ねながら、オンディーヌはぽつりと、壁の絵画を見つめたまま呟いた。
「何を、ですか?」
「貴方がお姉ちゃんを救わなかったのは、あの女の命令だったからなのか。それとも……本当に、貴方が冷酷で、最初から私たちを道具としか思っていなかったからなのか、って」
フロワの手が一瞬、ピタリと止まる。
鏡越しに視線を交わすと、フロワの赤い瞳が、ひび割れた硝子のように痛ましく歪んだのが分かった。昨夜、彼は「エトワールの死を回避しようとした」と言ったが、それは彼にわずかに残った人間としての良心だ。
オンディーヌが知りたいのは、彼自身の『本心』だった。フロワはゆっくりとブラシを動かしながら、オンディーヌの耳元に、呪文を吹き込むように低く囁いた。
「……半分は正解で、半分は不正解です、オンディーヌ」。
「どういう意味?」
「私は確かに間者でした。あの女の呪殺計画を知りながら、それを完全に止める力は当時の私にはなかった。ですが……」
フロワはブラシを置くと、オンディーヌの背中を後ろから包み込むようにして、その白い首筋に、自分の熱い額をそっと押し当てた。
「今思えばもし、あの時あの女が呪い殺そうとしたのがエトワール王女ではなく、オンディーヌ様。貴方だったなら……私は16歳の未熟な身であっても、自分の命と引き換えにして、あの場で実の母親の首を撥ねていたかもしれない。――それが、私の答えです」
「――っ」
心臓が、跳ね上がるなんて生易しいものではない。ドクン、と胸の奥が痛いほどに脈打った。
(この男は、何を言っているの……?)
お姉様を見殺しにした罪悪感に苛まれていたはずの男が、平然と言ってのけたのだ。死んだのがオンディーヌでなかったから、自分は生き永らえ、力を蓄える道を選んだのだ、と。
あまりにも独善的で、あまりにも残酷で……そして、狂おしいほどの情愛。
「貴方は……本当に、最低の男ね」
オンディーヌは震える声で、首筋に触れる彼の髪を振り払うように身を捩った。
許せるはずがない。お姉様を失った悲しみは本物なのに、この男の胸の中にあるのは、自分への歪んだ執着だけなのだ。けれど、これほどまでに真っ黒で重い愛を突きつけられて、心が動かないわけがなかった。裏切り者だと憎みながらも、彼の言葉一つで、自分の体温がカッと上がってしまうのが、悔しくてたまらない。
「ええ、最低です。ですから、その最低な男の髪結いが終わるまで、大人しくしていてください」
フロワは満足そうに微笑むと、今度はオンディーヌの美しい髪を、器用に三つ編みにしてまとめ上げ、一本の青いリボンで結んだ。その手際は、かつて毎朝彼女を送り出していた「完璧な従者」そのものだった。
「終わりましたよ、オンディーヌ様。……お召し物に着替えられたら、デューク陛下との昼食会へ向かいましょう。もちろん、私もお供いたします」
フロワは立ち上がり、胸に手を当てて優雅に一礼する。オンディーヌは、結ばれた髪にそっと触れながら、彼をジロリと睨みつけた。
真実は少しずつ見えてきた。けれど、だからといってこの檻から出す気は彼にはないのだ。
「絶対に、貴方の思い通りにはなってあげないんだから」
オンディーヌは心の中でそう強く毒づきながら、ベッドから足を降ろした。足首の金の鎖が、またじゃらりと、甘く冷たい音を立てて響いた。
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