ナミダイロ
病気の描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。
別サイトで公開していたものを転載しました。
『これから仲良くしてあげてね』
そう言ったのは、いったい誰だったのだろう。幼い頃のオレの記憶は、曖昧だった。それでもその言葉に、戸惑いながら頷いたことは覚えている。
『ホタルの、── になってあげてね』
同じ声が、そう言った。いったいオレは、何を任されたのだろう。音の記憶は靄がかかったように朧げだった。
けれど、そうして目の前に広がっていた景色は、今でも色鮮やかに甦ってくる。ホタルと呼ばれたキミは、真っ直ぐに正面を向いたまま微笑んでいた。ベッドサイドに立つオレのことなど、気が付いていないかのようだった。
同じ歳の男の子と教えられていた割には、ベッドにおさまるホタルの身体は小さい。弟がいればこんな気持ちになるのだろうか。兄弟がいないオレは、幼心にそう思った。
それは、記憶の引き出しの、一番取り出しやすい場所にある。それは、キミと顔を合わせるたびに思い出す、一番初めの記憶だ。
*
「おはよう。ヒカリ」
オレの気配を感じたのか、空を見つめたままホタルはそう言った。柔らかな髪が、秋風に吹かれて広がる。既に玄関の前に姿を現していたホタルの頬は、冷たい空気のおかげか、仄かに赤く色付いていた。
それはいつまでも子どものようで、出逢ったばかりのあの頃から寒い季節を迎えるたびに変わっていない。
「ごめん、待たせた。冷えただろ」
「ううん。今出てきたところ。平気だよ」
オレの声に反応して、ホタルの視線がこちらに向く。暗闇の中を彷徨う視線は、光に導かれるようにオレを捉えた。
「そう。正解」
それを受け止めて笑ってやれば、ホタルの赤い頬も緩んだ。
「おはよう。ヒカリ」
「あぁ、おはよう。ホタル」
オレたちの一日は、確かな挨拶の交換から毎日始まる。
ホタルは、目が見えない。出逢った頃から、そうだった。足が不自由なこともその頃からで、オレは今日もホタルの乗った車椅子を押して歩み始めた。
「文化祭、いつ?」
ホタルの声は、車椅子の振動に合わせて揺れた。
「今月末だよ。来るのか」
「もちろんだよ。楽しみにしてる」
オレとホタルは、別々の高校に通っている。生まれつき不自由な目で、まだ光や形を捉えることが出来ていた頃のホタルは、オレと同じ学校の支援学級に通っていた。
でもそれは最初の六年間だけで、ホタルは中学生になると支援学校に転入した。それぞれが高校に進学した今も、それは変わらない。
「ヒカリのクラス、今年は何をやるの?」
「ミニライブだって。オレのところ、軽音部のやつが多くてさ」
「ヒカリも楽器出来るの?」
「ギター、一応練習してる」
「へえ、すごいね」
ホタルは音楽が好きだ。子どもの頃、よく遊びに行ったホタルの部屋にはいつも音楽が流れていた。緩やかなクラシックだったり、軽やかな流行りの邦楽だったり、ジャンルは様々だった。曲に合わせてオレが鼻歌を歌えば、ホタルはいつも喜んだ。
今でもそうしているのかは分からない。けれど、音の世界に瞳を輝かせるホタルが、オレは好きだった。
「ほら、着いたぞ」
毎日会っていてもオレたちの何気ない会話が途切れることはなくて、気が付けばホタルの学校に辿り着いていた。
「今日もありがとう」
「あぁ。いってらっしゃい」
待機していた職員と、ホタルの背後を交代する。ただの幼なじみなオレたちは、まるで兄弟のように見えるだろう。
「あ、そうだヒカリ」
学校に背を向けたオレを引き止めるように、ホタルの澄んだ声が響く。
「どうした」
「今日、帰りは大丈夫だから」
「何か、用事?」
「うん。通院。早退するんだ」
「……分かった。じゃあな」
「また明日。ギターの練習、頑張って」
微笑んだままのホタルを乗せた車椅子は、オレから遠ざかって行った。
ホタルにとっては、これが日常だ。常に誰かが傍にいて、病院が身近な存在で。それは、オレの日常とはかけ離れていて想像し難い。それでもホタルは、いつも笑う。オレよりもずっと、光を放っているように見えた。
*
また明日。そう交わした約束は叶わなくて、オレたちが数日振りに顔を合わせたのは、ホタルの病室だった。
「わざわざ、来なくていいのに」
「通院の流れでそのまま入院なんて、心配だったんだよ。いいだろ」
少しの検査入院だったはずが、風邪を貰ってしまって拗らせている。そう聞いた時は、心臓が冷えた。
「思ったより元気そうだな」
言葉にすれば本当にそうなる気がして、オレは透明な嘘をついた。
ベッドの傍で声をかけても、今日のホタルは遠くを見たままだ。声色もやっぱり掠れていて、辛そうだ。元気とは、まだ遠いところにいるのだろう。
「検査はどうだった?」
「いつもと同じだよ。風邪引いたのは、予定外」
ホタルの声はざらついていて、いかにも病人だった。いつもと同じが、良いのか悪いのか、それ以上は何となく尋ねることを躊躇った。
「間に合うかな。ヒカリの文化祭」
「無理しなくていいよ」
「嫌だよ。楽しみにしてるんだから」
いつかの朝と、同じ台詞をホタルは呟いた。
「なぁ、ホタル」
「うん。どうしたの」
熱はまだ高いのか、ホタルの頬は今日も赤く染まっている。ベッドに身を預けて、緩やかに身体を起こす姿は、オレたちの一番最初の記憶と重なる。
『これから仲良くしてあげてね』
記憶の音が、オレの頭の中に響いた。あの日から、オレの毎日には常にホタルが共にいる。初めは、使命感のようなものだったのだと思う。弟が出来た感覚だった。
『ホタルの、── になってあげてね』
曖昧な記憶は、探れば余計に滲んでいく。
オレと同じで兄弟のいないホタルは、一人で生きていくことが難しい。もしもオレだったら、投げ出したくなることも、泣きたくなることも、ホタルは全部を静かに受け入れている。涙を知らないホタルの代わりに、オレは誰にも見つからない場所で何度も泣いていた。
「ね、ヒカリ。なあに?」
束の間、タイムマシンに乗っていたオレの意識は、不思議そうなホタルの声で今に引き戻された。オレの反応を待ち続ける様子は、やっぱり小さな子どものようで、いくつになっても変わらない。
「なんでもない。早く良くなれよ」
そう言って、驚かさないようにそっとホタルの肩に触れる。オレにはぐらかされて不満気だった表情は、素直に柔らかく綻んだ。
*
「ホタルくんでしょ?ちょっと私の相手、してくれるよね」
もう何度も訪れたことがあるヒカリの学校で、お手洗いに行くだけだからと、母さんの傍を離れたことが間違いだった。聞き慣れない女子の声が降ってきて、ボクの車椅子は自分の意志とは関係のない方向に進んで行った。
「あの……、」
ボクのか細い声は、文化祭の賑やかな雰囲気に紛れて消えた。車椅子が乱暴に押されるおかげで、身体が雑に揺れる。誰と一緒にいるのかも、どこに向かっているのかも、暗闇の中では分からない。
ふと周りが静かになると、聞こえてきた呟きに鳥肌が立った。
「目が見えないって、本当なの?」
「ヒカリと仲良しだって、うちの学校じゃ有名だよ。毎日学校の送り迎え、してもらってるんでしょう?」
「歩けないなら、私が手伝ってあげるのに」
反応を示さないボクのことなど気にもせずに、彼女は淡々と話している。まるで誰かと会話でもしているかのようだった。初めて聞く声だ。それは、嘲笑を含んでいて気分が悪くなる。背中を冷や汗が伝って、俯いたボクの肩は震えた。
「怖がってるの?震えてる」
「可愛いね。大丈夫。怖くないよ」
そう言う笑い声は軽くて、ボクの呼吸は自然と早まった。
「……あの、ヒカリの、ライブに、」
得体の知れない恐怖に目を閉じて、微かな言葉を紡ぐ。
「ライブ見に行きたいんだ。どうしようかな」
「ホタルくんが行っちゃったら、私、悲しくて泣いちゃうな」
明らかに、馬鹿にされていた。目の前にいる彼女が、ボクを見据えて嘲笑っている姿が頭に浮かんだ。見えなくても、容易に想像がついた。
「…………っ、」
大きな声を出して助けを求めようとしたけれど、喉が締まって引き攣ったような音が出ただけだった。恐怖にじっと耐えていると、次の瞬間に思い切り肩を掴まれて、ボクの身体は大きく跳ねた。
「やめて……、」
「黙ってるから、具合でも悪いのかと思って触っただけじゃない」
彼女の気配が、怒りの寸前にあることを悟った。ボクの何がそうさせているのかも、ボクが何をすれば放っておいてもらえるのかも、分からない。
でもその疑問も、次の一言ですぐに解決してしまう。
「ホタルくん、正直迷惑なんだよね」
そうか。この子は、ヒカリのことが好きなんだ。初めて向けられた敵意に、ボクの頭の中は真っ白になる。
「朝も夜もホタルくんのお世話ばっかりで、ヒカリが可哀想」
目が見えないおかげで、ボクは自分に向けられる好奇の目も哀れみの目も、気が付かない振りをすることが出来る。でも、これほどストレートに非難されることは初めてで、どうしたらいいのかが分からなくなった。
「何とか言ったらどうなの?耳は聞こえるんだよね?」
ただ俯くばかりのボクに、尖った声が矢のように降ってくる。自分が置かれている状況など、もうどうでもいい。
彼女の行動の矛先は、ヒカリに迷惑をかけている自分に向けられている。
ボクの存在が、ヒカリにとって枷になっているのかもしれない。初夏の儚い蛍のように、ボクも消えてしまえたらいいのに。そう思うと、心は震えた。
*
「お前の弟、まだ来てないんだな」
「弟じゃないって。あいつは幼なじみだよ」
教室の前方には小さなステージが作られている。クラスメイトたちは各々楽器の音出しをしていて、ライブ会場と化した教室内は賑やかだった。椅子が並べられただけの客席を舞台袖から眺めていると、オレは肩を叩かれた。
クラスで仲の良い友達は、ホタルことを知っている。オレたちの事情も心得ていて、敢えての冗談を交えたこのやり取りはお決まりだ。
「遅いじゃん、ホタルくん。いつも早くから顔見せてくれるのに」
「病み上がりだから、あんまり無理するなって言ってあるんだよ」
「入院してたって?」
「そう。まだ退院してすぐだから、」
ホタルが退院出来たのは、結局あれから一週間ほど経ってからのことだった。大事を取って学校はもう少し休むと連絡があって、その日にはもう、オレの文化祭が数日後に迫っていた。だからまだ、退院してからのホタルにオレは会えていない。
「悪い。本番まで少し抜けてもいいかな」
何だか嫌な胸騒ぎがする。おばさんと一緒のはずだけれど、何かがあったのかもしれない。一度思い浮かべてしまった嫌な想像は、瞬く間に広がっていく。オレは肩にかけていたギターを外しながらそう言った。
「ホタルくん?」
「あぁ。様子見て来る」
「行ってこい。ちょっとくらい時間過ぎても平気だから」
友達の気遣いに背中を押されて、オレは小さなライブ会場から駆け出した。
*
遠くの方から、曲を奏でるでもないギターの音が聴こえてくる。きっともうすぐ、ヒカリのライブが始まる。どこかも分からない暗闇に置き去りにされて、もうしばらくの時間が経っていた。
母さんに預けてしまった上着が恋しい。寒空の下、時折吹く風がその度に冷たく全身を包む。車椅子を漕ごうとしても手はかじかんで上手く動かない。元より、頭の中に想像がつかない場所で無暗に動くことも出来ない。ボクはその場で、恐怖と寒さに震えることしか出来ないでいた。
「これじゃあまた、ヒカリに、迷惑だ……」
じっと待っていてもどうにもならないことを悟って、ボクは自分に言い聞かせるように呟いた。
少しの距離だったら、どうにかなる。歩ける。ここに連れて来られたとき、車椅子が乱暴に揺れていたことを思い出す。地面の感触を頼りに来た道を辿ろうと、覚束ない足に力を込めた。
人の賑わいを求めて、耳と足の感覚を研ぎ澄ませる。小さな歩幅を刻む。どれだけ目を凝らしてみても、微かな光すら感じない。まだ朧げに形を捉えることが出来ていた幼少期が、急に懐かしく思えた。
ヒカリは、どのくらい大きくなったのだろう。どんな顔をしているのだろう。今、ボクが生きている世界は、どんな色をしているのだろう。
気持ちは混乱しているはずなのに、どこか冷静だった。
*
嫌な予感は、当たる。ホタルの車椅子を見つけた。体育館裏の、人目のつかない場所だった。
「どこ行ったんだよ……」
触れた車椅子の座面はもう冷えている。ホタルがここを離れて、しばらく経っているのだろう。でも、ホタルの足でそう遠くまで行けるはずがない。オレは慌てて、辺りを探った。
「ホタル!いるのか、聞こえるか」
叫んだあとに、耳を澄ませる。返事は、聞こえて来ない。もしものホタルの声を消さないように、オレは静かに足を早めた。
ホタルは、茂みの傍に座り込んでいた。並んだ植木がホタルを覆い隠していた。置き去りになった車椅子から、たったの数メートル離れた場所だった。
「ホタル……!」
オレの声に、ホタルの肩が跳ねる。こちらを向いたホタルの顔は、蒼白だった。
「良かった……具合悪いのか、怪我は……」
ホタルの無事を確認出来た安堵が、色々尋ねたくなる気持ちを先行する。触れた身体は冷たいけれど、怪我はしていなようでひとまず胸を撫で下ろした。
「ごめん。オレだよ、ヒカリ。分かる?」
ホタルには見えていないと分かっていても、オレは自分を指さしながらそう言った。そうして、呆然としたまま固まっているホタルの肩に触れる。
「……ヒカリ、」
「うん。おばさんは?なんでひとりでこんな所に、」
オレはそこで、言葉を切った。ヒカリの瞳は揺れていて、薄く開いた唇は震えていた。
「寒かっただろ。戻ろう。車椅子、持ってくるから」
いつもは赤く染まるヒカリの頬に色はない。消えてしまいそうなホタルの光を守りたくて、オレはその小さな身体を抱きしめた。
*
「ごめんね。ヒカリのライブ、始まっちゃうよね」
「クラスには言ってあるから平気だよ。それよりお前、本当に大丈夫か。体調も心配だし、今日は帰った方が、」
「大丈夫だよ」
ようやく身体の力が抜けて、普通に会話が出来るようになったけれど、ヒカリはボクの具合を見兼ねていた。何があったのかは、聞かないでいてくれた。
ヒカリに押される車椅子は静かに揺れて、居心地が良い。それでも、胸の中に広がった安心は長く続かない。傷付いた瞬間の痛みは和らいでも、一度刺さった矢は消えずに居座っていた。
『ホタルくん、正直迷惑なんだよね』
『朝も夜もホタルくんのお世話ばっかりで、ヒカリが可哀想』
軽薄で冷酷な言葉が、耳に焼き付いて離れない。頭を振り払っても、それはしつこく付き纏う。
「頭、痛む?」
ボクの様子に気が付いたのか、背後からホタルの声が聞こえる。
「ううん。平気……」
ホタルは今、どんな表情をしているのだろう。声色はいつもと同じで、優しくて柔らかい。けれど、もしかしたらそれは、無理をしているだけなのかもしれない。音は、いくらだって取り繕える。
「ね、ヒカリ、」
「どうした?」
「やっぱり、帰ろうかな」
ボクがそう呟くと、車椅子が止まった。
「やっぱり、調子良くないのか」
ボクの言葉をなぞるようなヒカリの声が、正面に移動する。暗闇の向こうでヒカリが、ボクの目線の高さに顔を合わせてくれていることが分かった。
「そういうんじゃないよ。ちょっと、疲れちゃった」
自分の文化祭を放り出して、ヒカリは今、ボクの車椅子を押している。こんなこと、きっとヒカリにとっては迷惑でしかない。
「ごめんね。ヒカリのライブ、諦める」
精一杯に平気な振りをしたボクの顔は、どんな風に見えるのだろう。
「それはいいけど……なぁホタル。何があった?」
ヒカリの声は、真剣だった。いつだってそうだ。でも今は、真っ直ぐなその優しさが信じられない。
「話せない?」
「……ごめん」
ボクが謝ると、ヒカリは鼻を啜った。それ以上は、何も聞かれなかった。
*
小さな客席は、既に観客たちで賑わっていた。置き去りになっていたギターを手に取ると、待っていてくれた友達はすぐ、オレに気が付いたようだった。
「ホタルくんは?」
「帰らせた。まだ本調子じゃなさそうで、」
「そっか。残念だな、会いたかったのに」
「今度また、連れて来るよ」
「──目が見えないって、嘘だと思うんだよね」
友達とは別の、女子の声が耳に入って来て、オレの動きは止まった。普段からホタルが傍にいるおかげで、恐らくオレの聴覚は他より優れている。悪意が込められたその声は、客席の前方から発せられていた。
「構って欲しいだけなんだよ。ヒカリ、優しいから」
「肩に少し触れただけで、黙っちゃうんだよ。だからもう、放って置いてきちゃった」
周りに従えた仲間の反応など待たずに、彼女は一人で話し続けていた。中学も同じでよく知っている、隣のクラスの女子だった。蔑んだようなその態度に、オレの中で何かが崩れた。
「おい」
「あ、ヒカリ。ライブ楽しみにしてるね」
怒りに溢れたオレの声に、彼女は気が付いていない。
「今の話、どういうことだ」
「え?なんのこと?」
オレと対峙してもなお、彼女は恍けたような表情で笑う。
「ふざけるな」
「ちょっと、怒ってるの?」
「あいつに、何をしたんだ」
「あ、ホタルくんのこと?ちょっと遊んであげただけだよ」
「ふざけるな……!」
低く響いたオレの声は、一瞬、その場の時を止めた。辺りはすぐに、賑わいを取り戻す。これ以上怒りをぶつけても、どうにもならない気がした。悔しくて、許せなくて、オレは唇を噛んだ。
「どうしてヒカリが泣いているの」
頬を濡らした涙を拭う。戸惑った装いもまるでない彼女を一瞥して、オレはその場を後にした。
*
数年振りに訪れたホタルの部屋は静かだった。あの頃は常に流れていた音楽が、今はない。ベッドサイドに立つオレの気配に気が付いて、ホタルは目を開けた。
「よく寝てたな。調子どうだ」
帰宅してすぐに眠ってしまったと、おばさんは言っていた。緩やかに上体を起こして、ホタルは伸びをした。そこまで具合が悪かった訳でもなさそうで、安心する。
「……文化祭は?」
「抜けてきた」
「どうして」
口を開きかけて、すぐに閉じる。ホタルがもう思い出したくないのなら、そうした方がいいのかもしれない。オレは返事に迷った。
「ごめんね。ボクのせいで」
先に口を開いたのはホタルで、悲し気な表情は歪んでいるように見えた。
「迷惑だよね……迷惑、だったよね」
今日のこと。それだけではない、これまでのこと。ホタルはその全てを、反芻しているのだと思った。すぐにでも否定したい想いが、胸元で燻る。オレが素直にそうしてしまえば、ホタルは感情を隠してしまう気がした。
迷惑なんかじゃない。オレがホタルの傍にいるのは、オレがそうしたいからだ。オレの意志だ。
『ホタルの、── になってあげてね』
初めは、きっかけに流されただけだったのだと思う。でも、使命のようだったそれは、いつしか、オレが自分で選んだ道になっていた。
オレなんかよりもずっと困難なことが多くて、辛いことがあるはずなのに、ホタルはそんなことなど何でもないように、真っ直ぐ笑う。同じ歳なのに大分子どもらしくて、でも、大人よりもどこか達観している。何色にも囚われない、透明な世界で生きるホタルが、ほんの少しだけ羨ましくて、好きだった。
健気なホタルの光は、いつだって、オレの毎日を照らしてくれていた。だから、オレは──。
「味方だよ。ホタル。オレは、お前の味方だ」
最後の方でオレの声は揺れた。ホタルのことで泣いてしまうのは、これが何度目だろう。ホタルは下を向いていて、その表情が分からない。でもきっと、オレよりもずっと泣きたいに決まっている。
視力が完全に失われた朝、オレの姿が分からなくなったとき。これからはもう、同じ学校に通えないと知らされたとき。無理も自由も利かない身体を、嘲るように笑われたとき。挙げ始めれば、キリがない。
いつだって、泣きたいのはホタルの方だ。それなのに泣かないでいるホタルの代わりに、オレは隠れて泣いていた。
「ホタル。手、触っていい?」
自分の膝の上で握られていたホタルの手に触れる。ホタルは、怖がらないでいてくれた。
「これが、オレのかお。かみのけ、みみ、はな」
小さな子どもに教えるように、ホタルの手を取る。呟いた言葉を辿ってオレの顔に触れるホタルの手は、柔らかくて、温かい。
「オレの方、向ける?」
俯いていたホタルは、オレの声に少しだけ躊躇ったあとで、緩やかにこちらを向く。ホタルの瞳が、精一杯にオレを捉える。
「これが、オレのなみだ」
そうして、ホタルの手を動かす。触れたオレの頬は、涙で濡れていた。
「分かる?涙だよ」
ホタルの手が微かに震えたのを感じて、オレの声も上ずった。
「ホタルが悲しいとき。悔しいとき。辛いとき。オレはいつも泣いてる」
オレは鼻を啜って、先を続けた。見えないはずのホタルの視線が真っ直ぐにオレを見つめていて、オレはまた泣いた。
「………お前も、泣いていいんだよ。強くならなくていい。オレが、ホタルの味方でいるから」
止まらないオレの涙が、ホタルの手を濡らしていく。
今度はオレが、ホタルの頬に触れた。まるでそうされるのを待っていたかのように、ホタルの表情は静かに崩れた。そして、一筋の涙がオレの手を濡らした。
『ホタルの、味方になってあげてね』
曖昧な記憶の霧が晴れていく。今日までの全てが溢れ出すように、ホタルは声もなく泣き続けた。
*
「ね、ヒカリ」
「どうした」
ボクが呼べば、ヒカリはすぐに返事をしてくれる。今朝も、ボクを乗せた車椅子はヒカリに押されていた。ボクたちを包む空気は、すっかり冬らしく澄んでいる。
「歌ってよ」
「なんだよ、いきなり」
「あの日、聴けなかったから」
ボクは結局、あの文化祭でヒカリのライブを聴くことが出来なかった。ヒカリも結局、ライブには出ていない。
「オレはボーカルじゃない。ギターだよ」
「小さい頃はよく、歌ってくれたよね。ボクの部屋で」
寝込むことも多かったボクは、あまり外に遊びに行くことが出来なくて、ヒカリはしょっちゅうボクの部屋を訪ねてくれた。
音楽が流れていればそれだけで、ボクはどんな世界も思い描くことが出来た。穏やかなヒカリの歌声は、見えないボクの世界をカラフルに色付けてくれた。
「なんでもいいよ。ヒカリが好きな曲、歌って」
返事はすぐに聞こえなかった。ボクの後ろで、ヒカリが思案している様子を感じる。ボクの車椅子は、しばらく静かな道を進んで行った。
もう、いいよ。そう言うつもりでボクが口を開くと、ヒカリの呼吸音が重なった。柔らかな追い風に乗って聴こえてきたのは、懐かしい、ヒカリの鼻歌だった。
何の曲かは分からない。ボクが知っている曲かどうかも定かではない。けれど、ヒカリの歌う声は優しくて、爽やかで、ボクの心は自然と晴れていく。ボクの頬が緩む。
「なにそれ。変な歌」
「なんでもいいって言っただろ」
「うん、言った」
ボクが冗談を言えば、ヒカリは拗ねたように笑った。
「好きだよ。ヒカリの歌。ヒカリの声も」
ヒカリはいつだって、ボクを導いてくれる。守ってくれる。
あの文化祭の日、どれだけの時間が経っても泣き止まないボクを、ヒカリはずっと抱き締めてくれていた。出逢った頃から今まで、ヒカリは純粋にボクの隣にいてくれた。味方でいてくれた。
ずっと、ずっと、遠回りをして、ボクはようやく、素直になれたのだと思う。何も映さない視界の向こうに、幻の光を見つけた気がして、ボクの暗闇は仄かに滲んだ。
「泣いていいって言ったのはオレだけど、泣きすぎ」
ボクが音もなく肩を震わせたことに気が付いて、ヒカリは苦笑した。感情をしまい込んでいた扉を開ければ、それは想像もつかないほど多彩で、ボクはその度に頬を濡らしていた。そのひとつひとつが、どれも新鮮だった。
「ね、ヒカリ……嬉しくても、涙は出る?」
「そう。正解」
いつもの朝と同じようにそう言って、ヒカリはボクの涙を拭った。
『これから仲良くしてあげてね』
『ホタルの、味方になってあげてね』
その言葉に頷いてくれたヒカリの影を、ボクは一生忘れたくない。これは、記憶の引き出しの、一番取り出しやすい場所にある。これは、ヒカリの声を聞くたびに思い出す、もう二度と見ることが出来ない一番初めの記憶だ。
ヒカリは、ボクの光だ。今までも、これからも、それはずっと、変わらない。
了
いつか、もっと書いてみたいなと思う二人でした。
もし良ければ、評価や感想などいただけたら嬉しいです。




