後編 朝露の光の中で
「率直に聞きます。あのクッキーに何を盛ったのですか?」
シリウスは私を組み伏せたまま尋問するように問いかけてきた。声は私を責めるものでありとても冷たいのだが吐き出される息や朱色の頬はあまりにも熱を含んでいてその温度差に『風邪』をひきそうになる。
「な、なにもしてないわよ……不味かったかもしれないけどそれで毒を疑うなんてあんまりじゃない?」
咄嗟に頭を働かせてそれらしいことを言う。しかしシリウスは「はっ」と嘲笑するように笑い私のおとがいを掴んでそらしていた視線を無理やり合わせた。
「嘘を付くと顔を背ける癖、変わってませんね。いつもならただ愛しさを感じるだけですが、今はあなたのかわいい仕草一つ一つがとても憎くたらしく感じます」
顎を捕らえていた指が滑るように頬を撫でた。その手付きはどこまでも優しいのに熱烈的な欲望が肌にひしひしと伝わってきた。
「お嬢様知っていますか?俺は普段自分で作ったもの以外食べないんですよ、だから今日食べたのはお嬢様から頂いたクッキーだけです」
この意味分かりますよね?と凄んだ表情で言われて私は負け認めざるを得なかった。
「…………そうよ、あなたに呪いの惚れ薬を盛ったのはこの私よ!悪かったとは思ってるわ、ごめんなさい」
ヤケになって洗いざらいに叫んだ。きっと軽蔑や侮蔑の言葉が返ってくると思ってギュッと目を閉じていたのになかなか反応が来ず、薄目を開けてシリウスを見ると彼は紺碧の瞳を大きく瞬いていた。
「惚れ薬、ですか?そんなはず…………いえ、それよりもどうしてそんなものを俺に飲ませたのですか?」
どこか納得いってなさそうだが、シリウスは頭を振りまた私に迫ってきた。そして私が言葉を噤んでいると頬を撫でていた指先が首筋を通り怪し気な動きで胸元まで降りてきた。
「ひゃっちょっと何をして……」
「……本気で嫌なら突き飛ばしてください。それも無理なら速く洗いざらい打ち明けてください」
指先がツツ――と谷間の中に吸い込まれていく。私はグルグルとした熱に侵されながら咄嗟に「分かった!言う、言うから!」と声を上げてその手の動きを止めさせた。
「……シリウスは知らないかもしれないけど、王太子殿下はあなたのことがとても嫌いらしいの。今は私が側にいるから大丈夫だけど、私が王太子殿下と結婚したらあなたは多分酷い目に遭うわ。だから、その……勝手なやり方ではあるけれどあなたに惚れてもらって処女じゃなくなれば王太子殿下との婚姻は破談になって、あなたは助かるの」
言っててどんどん恥ずかしくなる。しかし湯気がでそうなほど顔が熱くなる私に対してシリウスは呆然とした面持ちで私を凝視していた。
「……そんな理由で、自分の初めてを捧げようとしたのですか?というかどうして相手が俺なんですか……」
そう言われて、私は目をぱちくりと瞬かせる。思えばわざわざ惚れ薬を使わずとももっと楽にできる人はたくさんいただろうに、そんなこと考えもしなかった。
「……シリウス以外とするなんて考えもしなかったわ、勝手に相手はシリウスって思い込んでた」
「…………お嬢様、言っていることの意味がちゃんと分かっているのです?」
今までになく鋭い視線を向けられて、私ひゅんと縮こまる。吸血鬼の私が獣人のシリウスに負けることは万に一つもあり得ないはずなのに、今この瞬間は形勢が逆転していた。
「……勝手に作戦に組み込んでごめんなさい。でもどうしてシリウスに生きてほしかったの。シリウスは私が王太子殿下と結婚してもただ別のところに売られるだけだと思っているみたいだけど、そうじゃないの。王太子殿下はずっと私のことが好きで一緒にいたシリウスをとても恨んでいるってフリソスが……」
私がしどろもどろにそう言うとシリウスは「なるほど、フリソス様の差し金ですか……」とため息を吐き諦めたような表情で私を見下ろした。
「………知っていましたよ、お嬢様が王太子様と結婚した場合の自分の行く末くらい」
「え…どうして……」
その表情がひどく脆い砂上にあるような気がして、私は咄嗟に手を伸ばした。するとシリウスはその手を掴み取り自らの頬に押し当てた。
「あの独占欲の塊のような吸血鬼ですよ?学園でも何度も俺を殺そうとしてきたあの方がこれを好機にと何かすることは容易に想像できます」
スー、ハーと私の手の匂いを嗅ぎながらシリウスは平然と言った。彼は私の匂いを嗅ぐのが好きらしい、自分にそんな特徴的な匂いがあるのかは分からないが一生懸命に嗅ぐシリウスを見ているといつも幸せな気分になった。
でも今はそんなどころではない、私は「そうじゃない!」と声を荒らげシリウスを睨みつけた。
「そうじゃなくて……知っていたのならどうして何もしなかったのよ、どうして私に言わなかったのよ。私が気づかなかったらあのまま殺されちゃってたかもしれないのよ!」
潤んだ視界の中でシリウスはなんの感情もなく私の話を聞いていた。そして私の頬から零れ落ちる涙を指で掬うとそれをペロンと舐めた。
「……お嬢様のいない世界に生きる意味なんてありません。どうせあなたが結婚して俺のもとからいなくなるなら、別に自分が生きていようが死んでいようがどちらでも構わないんです」
シリウスは出会った時のような死んだ目で俯く。でもその瞳に一筋の慈愛の光を宿し私の輪郭をなぞった。
「せめてあなたのために死にたかった、あなたの中に俺がいたという真実を残したかった。言ったでしょう?―――あなたに食い殺されるなら、本望だと」
その瞳には狂気を感じない。ただひたすらにそれが一番の望みだと言い、私の牙に自身の指を突き立ててプツリ――と血を流した。
シリウスの血がポタポタと口の中に流れ込んでくる。その味があまりにも甘美で蠱惑的で私はとろんとした気分でその指を吸った。
「ああ……かわいいですクロエ。あなたに血を吸われている時が俺は一番幸せななんです。まるであなたの一部になれたような気がして全てを捧げたくなります」
指をくわえて夢中でちゅうちゅう吸う私の頭をシリウスが撫でる。その焦がれたような掠れた声はシリウスの血のように甘く私を溺れさせた。
「あなたが好きです、クロエ。あなたが初めて俺に優しくしてくれた、あなたが初めて俺を必要としてくれた。同胞に裏切られ一度死んだ俺に生きる希望を与えてくれた。あなたは俺の全てなんです」
「…………それはつまり、惚れ薬が効いているということかしら?惚れた途端に寝込みを襲うなんて随分ケダモノなのね」
シリウスの発した『好き』という言葉に私は彼の血が滴る手を離した。それが空虚なものと知っているから。やはり薬で心を手に入れても虚しい気持ちになるだけだった。
「それは違います、クロエ。おそらくその薬は俺に本来の効果を引出せず、違う方向に作用しています」
シリウスは私の唾液がついた指をペロンと舐めながら言った。その意味をよく理解できず私は首を傾げて口の中に残るシリウスの血を飲み込んだ。
「いくら獣人といえどもそこまで本能に忠実な訳じゃありませんよ。あなたにクッキーをもらった後俺は使用人部屋で全て食べきりました、今まで食べた物の中で一番美味しかったです。でもそのあとすぐに熱っぽくなってしばらく寝ていたのですが、起きたら得も言われぬ欲求に全身を支配されていて、ほぼ無意識のうちにクロエの部屋まで来てました」
「……得も言われぬ欲求って?美味しすぎてお腹が空いちゃったとか?」
ならあんなに気配を消さずとも普通に入ってくればよかったのに。私が首を傾げてそう言うとシリウスは途端に微笑みを深くして私の耳元で囁いた。
「もう少し性的です。言葉で表すなら――あなたをどうにかしたくなりました」
熱く注がれた声に私はバッと耳を隠しその紺碧の瞳を見た。最初に比べればよくなった気がするがそれでもまだシリウスは熱に囚われているようだった。
「最初は発情期が来たのかと思いました。でもいつもと違って何度治めても湯水のようにあなたをどうにかしたいという欲求が湧き上がってきて、きっとあのクッキーに何か盛られたのだなと思ったのです」
聞こえてくるワードの方向性を理解し私は急に恥ずかしくなる。潤んだ瞳に上気した肌、スカートをめくり上げるフサフサの尻尾や魅惑的な甘い匂いが、確かに私を猛烈に求めている事が分かる。
「でも私が入れたのは惚れ薬よ?媚薬じゃあるまいし、そんな状態になるのかしら……」
まさか最終手段として用意していた媚薬と間違って入れたかと焦ったが、さすがにそこまで馬鹿じゃない。間違いなくシリウスが摂取したのは惚れ薬だ。
「…………俺、思うんです。惚れ薬が、相手を惚れさせる呪いなら『もともと惚れていた場合』その呪いはどこに行くのかと」
「もともと惚れていた場合……?」
確かにその場合行き場のなくなった呪いはどうなるのだろうか?呪いは役目を果たさねば絶対に消えることはない、おそらく目的とは少し違ってもどうにか発動しようとするだろう。
小首を傾げた私にシリウスは笑みを深くして、怪しい手付きで私の輪郭をなぞる。
「きっと相手への愛おしさが止まらなくなるのだと思います。そして制御できない愛情は発散したくなる、ちょうど今の俺のように」
シリウスの目に宿る剣呑な光に私は捕食者を前にした動物のように震え上がった。瞬間的に起き上がろうとした私を、しかしシリウスは全身を押し付けるように私に抱き着いてベッドに二人ともども沈んでいった。
「ハァ……発情期って結構辛いんですよ。獣じゃあるまいしがっつく訳にはいかない、だからいつも一人で耐えているのに、今はそれだけじゃ全然足りないんです」
後からお腹に手を回されピッタリとシリウスは私を抱き締めた。耳元で囁かれる声がやけに扇情的でゾクゾクっと全身が震えた。
「……シリウスは私が好きなの?」
震える声を絞り出して発した言葉にシリウスはしばらく間を置いてから「……はい」と答えた。
「ずっと、お慕いしておりました。クロエの全てが好きです。顔も体も性格も、俺の血を美味しそうに啜る姿も、全て好きです愛しています」
抱き締める力を強めてシリウスは溜めていたものを吐き出すかのように答えた。その言葉が私の心を満たし溢れた分が涙として出そうになる。
「ねぇクロエ、あなたの目的は俺に純潔を散らされることだったんですよね?なら今ここで、俺に愛を与えてそして薬で狂わした責任、とってもらっていいですか?」
「へ?」
その発言に私はビクンと体を跳ねさせた。私のお腹に回っていた手が尻尾によって捲し上げられた服の中に侵入し素肌に触れていた。首に埋められた唇が犬のように肌を舐めて熱い吐息が当たる。
「ちょっとシリウス……少し待って……!」
「クロエの力なら私を跳ね除けることも簡単でしょう?いやならそうしてください」
そんなこと、できるわけがない。シリウスを拒絶するなんて無理だ。確かにこれは私が望んでいたことかもしれないが未知の感覚に心も体も怖気付いてしまった。
私がギュッと目を閉ざし体を震わせているとシリウスは手の動きを止めしばらくそのままでいると、急にガジッと何か音を立て起き上がった。
「…………すみません意地悪を言いました。あなたの嫌がることをするべきではなかった……」
突然なくなった感覚に「え?」とシリウスの方を見るとシリウスの口元から血が滴り落ちていた。
「そもそも俺を助けるためにこんなことをしたんでしたよね?……ならあなたの善意に乗っかる形で迫るなんて卑怯でした」
口元の血を拭いながらシリウスは私の姿を目に映し泣きそうな顔で後ろを向いた。そして微かな声で「……本当に、すみませんでした……」と呟くとベッドから降りていった。
その後ろ姿に出会った時の生きているのに死んでいるような雰囲気を感じ私は咄嗟にその背中に飛びついた。
「待ってシリウス!違うの嫌じゃないの!さっきはちょっとびっくりしただけだから。お願いどこにもいかないで!」
このままではダメな気がする。ここで別れればシリウスはきっと私から離れていく、そんな気がして私はギュッと後ろから抱き締めた。
「……クロエ、俺はあなたの全てが欲しい。でもそれ以上にあなたに嫌われたくないんです、あなたに嫌われるくらいなら死んだ方がマシです」
こちらを振り返ることなくシリウスは掠れた声で言い募った。その声に深い絶望と苦しみを感じ、私は頭をブンブンと振った。
「私もシリウスが好き!ずっと好きだった!あなたを助けるためだけじゃない私もシリウスが欲しいからこんな事をしたの!」
思い返せば最初からシリウス以外とするなんて考えもしなかった。それで今ようやく分かった、結局なんだかんだと言いつつも私がシリウスを欲しいから私はフリソスの提案に乗ったのだ。シリウスに死んで欲しくないのも、今こうして抱き着いているのも全てシリウスが欲しいからだ。
結局私も吸血鬼のようだ。自分勝手で全てが欲しくなる。求めることに慣れていて求められることに慣れていない。絶対的な強者であるゆえに誰かに食われることを全く想像できていない。
そういう人たちが嫌いだったのに、やはり吸血鬼は『血』を争えないらしい。
「シリウスが好き。ずっと側にいて、私から離れないで、私を譲らないで、私に血を与え続けて、私を見て、私に触れて、私を暴いて、私を甘やかして、私を可愛がって、私を愛して、私と一緒になって、私だけのものになって!」
「クロエ……」
抱き締める力を強めて私はシリウスの大きな背中に叫んだ。欲しがりでワガママで本当にどうしようもないけれど、ここまで言わないと自罰的なシリウスにはきっと伝わらない。その心臓に直接響くように私は顔を押し付け喋った。
「あなたがいなくなったら私は誰の血を飲めばいいの?誰が頭を撫でてくれるの?誰を……好きになればいいの?私を求めてよ、私がどこかに行かないようにあなただけのものにして」
泣きつくように懇願して想いを伝える。誰よりも、大切な人にいったい自分の気持ちのどれほどが伝わっているだろうか。この渦巻く想いを正確に表せる言葉があればいいのに、そうすればきっとあなたは迷うことなく私に触れてくれる。
「……クロエ、言っている意味が分かっているのですか?」
「分かってる。だからこんなに必死なの、好きってすごく重いのよ」
シリウスの気配が後ろを振り向き私のことを見つめる。そして私がお腹に回した手にそっと触れて体ごと振り返ると正面から強く私を抱き締めた。
「…………俺で、いいのですか?」
震える声が怯えるように私に問いかける。最終勧告にも似たそれはあまりにも弱々しく涙に濡れていた。それでも私に回る腕の強さがたまらなく私を求めていることを物語っていた。
その求めに応えるように私も彼の震える背中に手を回た。
「――――あなたがいいのよシリウス」
そうして私とシリウスは暗闇の中深く混じり合った。
◆◆◆
「そう言えば知っていますか?吸血鬼の体の細胞は約五年で全て入れ替わるらしいですよ」
情事の後、一糸纏わぬ姿で身を寄せ合い私とシリウスはベッドに沈んでいた。
私はその言葉に、シリウスの首筋に噛みつき血を吸っていた牙を抜き上目遣いで首を傾げた。
「そうなんだ、でもそれがどうしたの?」
私を愛おしげに見つめ、シリウスは頬を撫でるとそっと唇を合わせた。先ほど自分で噛んで血まみれになった彼の舌が私の口内に入ってくる。漏れ出る甘美な血と唇を合わせたことによる気持ちよさに私は夢中で齧り付きお互いの境目が分からなくなるまでぐちゃぐちゃに求めあった。
しばらくして唇を離すと私とシリウスとの間に銀色糸が妖艶に伝い、シリウスはそれを絡め取るように私にもう一度軽く口づけた。
「俺とクロエが出会ってから約八年、クロエはずっと俺の血だけを飲んできましたよね?つまりクロエの全身、髪の毛から一つの細胞にいたるまで余すことなく全て俺でできているってことになりませんか?」
「…………!!」
その瞳から覗かれる怪し気な光に胸がドクンと高鳴った。そしてこの身が全て彼でできていると思うと足先から脳髄まで鈍い電撃のような何かが走った。
「……なんだか表現がいやらしいわ」
「そうですか?俺はとてもロマンチックだと思います、クロエが俺のものみたいですごく興奮します」
シリウスは微笑みを浮かべながら私の胸に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
「クロエは本当にいい匂いがしますね、甘くて優しくて穏やかで俺の血の匂いがします」
「……シリウスってよく私の匂いを嗅ぐよね?本当にオオカミみたい」
なんだか可愛い様子のシリウスにキュンとしてシリウスの白銀の髪の毛に指を通して撫でた。
「オオカミの習性みたいなものですよ。好きな相手に余所の男の匂いが付いてないかとか、自分の匂いを擦り付けたりとか。あとは単純にクロエの匂いが好きだからです」
「……なんかさっきから思ってたけど、シリウスって結構独占欲が強いよね。別に嬉しいんだけどさ」
体中に残る赤い斑点を見てシリウスに問いかけた。この最強種吸血鬼の体を持ってしても事後体中に妙な疲れが残っている。
シリウスは胸の中で小さく笑うと顔を上げて私と視線を通わせた。
「そもそもオオカミとはそういうものです。独占欲や所有欲が強く執着的、一度結ばれた相手は決して離さないんです」
シリウスは私を強く抱き締めた。喜色を滲ませた声に私も嬉しくなりその背中に手を回す。
「そう。ならもう絶対に離そうとしないでね、処女じゃなくなったし王太子殿下との結婚もなくなるからこれからもずっと側にいてね」
私が吸血鬼でシリウスが生き餌である以上、結婚はできないがこうして肌を重ねたり想いを重ねたりはできる。
しかし私が穏やかに言ったのに対しシリウスは「ああ……そのことですけど」とバツが悪そうに言葉を濁した。
「別に処女じゃないからと言って結婚できなくなる訳じゃないと思いますよ、そんな規則もありませんし……」
「ええ!?な、なんで?だって歴代の王様はみんなそうだったじゃない!?」
安心しきっていたところに突然降ってきた爆弾発言に私は目をひん剥いてシリウスを見た。彼は苦笑いを浮かべると私の頭をよしよしと撫でた。
「まあ確かにそうですが、それは歴代の王たちは結婚相手がよりどりみどりだったからです。でも今の王太子様はクロエが処女でなかろうと望むと思いますよ。もちろん嫌な顔はするでしょうが俺を殺して自分で上書きすればいいくらいに考えるでしょうね」
どこか軽く捉えているらしいシリウスに私は真っ青な顔をして唇をハクハクさせる。
「そんな……じゃあどうすれば、このままじゃシリウスが殺されちゃう……」
絶望的な気分に陥り俯いていると、そっとおとがいを掬われシリウスの唇が私のと合わさった。
まるで思考をすることすら許さないかのような激しい口づけに私は頭がクラクラするのを感じされるがまま彼の舌の侵入を許していた。
「ぷはぁ……ちょっと、いきなり……んぅ!」
やっと離してもらったと思ったら一呼吸するとまた唇が合わさる。そうして何度もそんなことを繰り返す内に私は息も絶え絶えに何も考えられなくなっていた。
「……すみません、あまりにも美味しそうだったのでつい」
シリウスはご飯を食べた後の犬のようにペロンと口元を舐めて、惚けっぱなしの私をとても愛おしげに見つめて頬を撫でた。
「俺と二人でいる時にあまり他の男の事を考えないでください。クロエはただ目の前の男のことだけ見て感じて考えればいいんです」
分かりましたか?とシリウスは私の瞳を覗いて問いかける。私はコクコクと頷いて乱れた息を整えようとした。
「それと、今後のことについてですが俺から一つ提案があります。聞いてくれますか?」
私の反応に気を良くしたシリウスはフッと笑みを浮かべると私にその提案を語り始めた。
◇◇◇
深い眠りの中、温かな光に刺激されて私の意識はフヨフヨと目覚めた。薄目を開くとほんの少しだけ開いたカーテンから光の筋が浮かび上がり私を照らしていた。
まだまだ眠たかったが隣にあるはずの温もりがなくなっていることに気が付き、私は眠い目を擦りふわぁとあくびをして起き上がった。
歩く度に鈍く軋む木製の床をそーっと踏みしめてドアを開く。その先には白銀の髪にピョコンとした耳を生やした男の後ろ姿があった。
もう寝間着から着替えたらしい彼はフサフサの尻尾を揺らして何かを『料理』しているようだった。その背中にそーっとそーっとと近づきばあっ!抱き着いた。
「!クロエ?起きたんですね」
その男――――シリウスは一瞬驚いた表情を見せるとクルッと後ろを振り返り私のおでこにキスを落とした。
「うん!えっと……『おはようございます』?シリウス」
たどたどしくそう言えば、シリウスは愛おしげに紺碧の瞳を細めて「はい、おはようございますクロエ」と私の頭を撫でた。
お互いが一つに溶け合ったあの日、私はシリウスからその提案を聞いた。
そしてその案とは私の想像打にしていないものだった。
『つまりナイトガーデンを出ていくってこと?』
二人で抱き締め合って沈んだベッドの上で、私はシリウスからの提案――『ナイトガーデンを抜け出す』という作戦を聞いていた。
『はい、ここを二人で抜け出して太陽のある地上に行けば他の吸血鬼たちは追ってこられません。そこで二人で暮らしませんか?』
シリウスはどこか不安げに私に問うた。
吸血鬼の安寧の地、ナイトガーデン。ここを出ていくなんて発想今まで私は欠片も思い浮かばなかった。
最強種である吸血鬼には一つだけ明確な弱点がある。それが日光だ。日の光に当たると吸血鬼はとんでもないほど弱体化するらしい。死にはしないが力をほとんど失い体質までもが変化する、最強の種族から最弱の種族に様変わりするのだ。
だからナイトガーデンが作られた。憎き太陽が昇らぬ常闇の王国、吸血鬼の安寧の地。ここにいれば何にも脅かされることなく誰よりも強くあれる。明けない夜こそが彼らの理想、だから誰もそこから出ようとはしない。
『俺がクロエを守ります、日の光からも他種族からも。吸血鬼であるクロエにとってとても恐ろしい日々になることは分かっています……でもどうか俺を信じてこの常闇の国からあなたを連れ出されてくれませんか?』
シリウスは私の手を取って懇願するように額を押し付けた。
故郷であるこの国を捨て見知らぬ大地に逃げる、そこは危険に溢れていて色々なものを失うことになる。きっと同族の誰もが拒否するであろう提案に、私は一瞬の迷いもなく答えた。
『いいよ。それでシリウスと一緒にいられるなら、私は喜んであなたに攫われるわ』
私の何の迷いもない返答にシリウスは『え?』と戸惑ったように目を見開いた。
『ほ、本当にいいのですか?ここを抜け出すということは太陽にさらされるということですよ。力はほとんど失いますし、寝たり風邪を引いたりもするようになります。果てはあなたの寿命も随分短くなってしまうでかもしれないのですよ……』
私を説得したいのかしたくないのか分からないほどシリウスは何度も『本当にいいのですか?』と聞いてくる。その度に私は『うん、いいよ』と笑顔を浮かべて頷いた。
『確かにすごく不便にはなるだろうけど、シリウスが守ってくれるんでしょ?今までだって寝てたし、シリウスの血さえあれば私は生きていけるよ。それに寿命が減るってことはシリウスと一緒に生きていけるってことじゃない?』
吸血鬼の寿命は約千百年、対して獣人の獣人は百年かそこらしかないらしい。それを知った時、私は三日三晩泣きはらした。私はシリウスと同じ時間を生きれない。今はたまたま重なっているがこれからの年月で私はシリウスに置いていかれ、最後には死別することになる。
それが自然の摂理であることは分かっている。しかしできるならば大切な人と同じ歩幅で生きていきたい。そんな幼い頃の小さな夢が今ここで叶うのならば多少のデメリットは度外視できる。それほどまでに私はシリウスが好きなのだ。
『シリウス、私は大丈夫だから。あなたと一緒にいる時だけ私は生きていけるの、怪我も病気も怖くない、そんなものよりもあなたがいない世界の方がよっぽど怖いわ』
私はシリウスの首に手を回しギュッと身を引き寄せた。その瞳に届くように、決して離れないように、迷いの一つもない満面の笑みで私は今にも泣きそうなシリウスに微笑んだ。
『私を攫ってシリウス』
それから私たちはナイトガーデンを飛び出した。初めて触れた太陽に全身が焼け焦げるような苦痛に苛まれたが、シリウスの血を飲んでなるべく日のない道を選び前に進んだ。
道中は多くの危険があった。地上では武力のある種族が幅を利かせ道行く道で山賊や魔物に襲われた。吸血鬼の力があればそんなもの一瞬で薙ぎ倒せたが、もはや私は非力な女の子、しかしシリウスは違った。
シリウスはオオカミの獣人である。吸血鬼についで力があるとされる獣人の中でも上澄みに位置する彼は吸血鬼のいない地上では最強だった。
確かにこれは吸血鬼が引きこもりたがるのも分かる。いくら死なないとは言えこんな場所で非力な状態でいたらすぐさま殺されてしまうだろう。私はシリウスがいたから何とかなったが、もし私を追ってこようとする吸血鬼がいたのなら恐らく他種族の餌食になることは間違いない。
そしてナイトガーデンを出てしばらく経った頃、私たちは人けのない深い森の中で小さな家を見つけた。
そこはかつてシリウスが同胞に裏切られナイトガーデンに落とされる前に住んでいた家らしく私たちはそこで二人で暮らすことになった。
私の体は随分と変わった。力は消えすぐに疲れてしまう、一日の半分くらいは眠いし病気にもなった。
シリウスはその度に泣きそうな顔になったが、いつも私を守り血を与えてくれた。だから私はどんなに慣れない災難に見舞われても大丈夫なのだ。
シリウスの胸に顔を埋めてぐりぐりと擦り付ける。ここに彼がいてくれることが嬉しい。生きて側にいて触れ合えるこの瞬間が何よりも愛おしく幸せだった。
シリウスは私の頭の匂いをクンクン嗅ぐと満ち足りたような息を吐き頬を擦り付けた。
「今日もクロエがかわいいです。あの頃よりも俺の匂いが体の奥まで染み付いてとても嬉しいです」
シリウスはそう言って私のあちこちにキスを落とした。彼とまぐあうようになって分かったが多分シリウスはキス魔だ。オオカミとしての習性なのかなんでも舐めたくなるらしい。
やがて唇に啄むようなキスが落とされる。それはすぐに重く深いものに変化していき私は呼吸することもできずされるがままに食い尽くされていた。
「ハァ……クロエ、そろそろ『朝ごはん』にしませんか?」
息も絶え絶えになる頃、シリウスは唇を離すと上気した顔で私を誘うように見つめた。
「でも……シリウスのご飯がまだでしょ?あんなに手が凝ってるんだから先に食べてもいいよ……」
私は彼の後ろにある料理を見た。美味しそうかどうかは分からないが色々な材料を使い時間をかけて作られていることは分かった。
しかしシリウスは笑みを深めると「大丈夫です」と答え私の頬を撫でた。
「あなたに食べてもらう血だから、なるべく自己の健康に気を使っているだけです。そんなことよりもあなたを満たす方が先です」
シリウスはそう言って襟を解き首元をはだけさせた。そこから現れた柔らかく美味しそうな首筋にゴクンと喉が鳴るのを感じて私は「……じゃあいただきます」と頷いた。
椅子に座ったシリウスの膝の上に跨り私はその首筋に噛み付いた。じんわりと染み出てくる血液が美味しくて美味しくてちゅ…ちゅぅと吸い続ける。シリウスは私の頭を押さえて偶にビクンと震えながら熱い吐息を漏らし私に血を吸わせ続けた。
時折、頭に落ちてくる口づけや首や背中や腰のラインをなぞるように動く指先はあの時にはなかったものだ。夢中になって吸血している間に現れる感触は実に刺激的でピクンピクンと体が跳ねてしまう。その光景は少なくともただの食事シーンではなかった。
「ハァ……美味しいですかクロエ?」
しばらく吸い続け一度休むために私は牙を抜いた。力が弱まると血を吸うだけで疲れてしまうらしく私はシリウスに体を預けて呼吸を整えていた。
「うん……すごく美味しい……」
背中をさすられて体に染み込んでいくシリウスの血を感じる。そのまま休憩し落ち着いてくると私はふとした疑問を彼に投げかけた。
「ねぇシリウス、どうして『ナイトガーデンを出ていく』っていう策を前もって言わなかったの?私がそれを知ってれば惚れ薬なんて使わずに済んだのに」
その紺碧の瞳を見上げて私は問いかけた。結果的に収まったがここまで来るのにだいぶ遠回りをした気がする。
私を見下ろしたシリウスは困ったように眉を下げながら私の頭を撫でると「言えませんよ……」と弱々しく漏らした。
「だってそれはクロエの命を削ることに等しいですから。あなたを俺のわがままで高貴な吸血鬼の座から引きずり下ろすなんて、あの頃の俺にはムリでした」
その思考に至ったのは容易に想像ついた。私のことを誰よりも欲しがっているくせに私のために身を引くような男が確かにそんなことを提案するなんて考えられなかった。
「……でもあの日クロエと交わり想いを聞いてあなたを手放せなくなりました。オオカミは一度結ばれたら相手をもう二度と手離せないんです。理性がどれだけ騒いでもクロエとずっと一緒にいたかった…………本当はあの提案を却下されたら無理やりにでも連れ出して俺だけのクロエにするつもりだったんですよ」
耳元で囁かれた言葉に私は閨にいるときのようにゾクゾクしてしまった。どうしようもないほど彼に惹かれてとろんとした気分で彼を見つめた。
「…………クロエ、朝食もいいですがもっとあなたの深いところを満たしたくなりました……あなたを愛してもいいですか?」
シリウスの甘く掠れる声に鼓膜がドロドロに溶けてしまいそうになる。私を触る手が、声が、視線が獲物に噛みついて離さないオオカミのように纏わりついて捕えられる。
それがとても嬉しかった。どちらのものとも分からない鼓動が高鳴り続け体の境目がなくなったように思えた。
私は返事のかわりにギュッとシリウスの首に抱き着いた。後ろでシリウスが小さく笑うと彼は私を抱き締めたまま立ち上がり寝室のドアを開いた。
そっとベッドに置かれた私は私に覆いかぶさる白銀のオオカミを見つめた。白くサラサラな髪や私の噛み跡がくっきりとついた首筋が日光に照らされてキラキラと輝いている。
しかしシリウスはカーテンが少し空いていることに気がつくとすぐさま腕を伸ばしてサァと閉めた。その行為に私を気遣う優しさが伺えてまた胸が高鳴った。
あの常闇の国で二人の間を仕切っていた壁は消え去り、今溶け合うようにキスをする。混じり合った二人はもはや分かたれることなくどこまでも共にあり続ける。
闇の中で太陽から見捨てられた光を見つけた。それは弱々しく今にも消えてしまいそうほど小さな火種で、でも光を見たことのない私はその光がとても眩しく見えた。
そして息を吹き返した火種は冷たかった私の心を温めた。それは夜を破り私を日のもとへ連れ出してくれた。空は蒼く高いものだと教えてくれた。
恋とはどんなものかしら。きっとそれはあなたの形をしている。私を焼き焦がす太陽ではなく、夜闇の中でも私を温めて危険から遠ざけてくれる焚き火のような人。
その温かな腕に抱かれて私はフッと笑みを零した。
「どうかしましたか?クロエ」
不思議そうに問いかけてきたシリウスは私は「いいえ」と首を振った。
「ただもし『血の繋がり』は深いというのなら私たちは切っても切れない関係にあるんだなって」
シリウスは私の言葉に驚いたような表情を見せるとまるで焚き火がパチっ火の粉を散らすように笑い首筋に残る私の噛み跡を撫でた。
「そうですね、俺はあなたの生き餌ですから『血の繋がり』は誰よりも深い自信があります」
お互いに小さく笑い再び影が重なりあう。愛の沼に溺れる中どちらともなく私たちは想いを伝え、血を啜る時のように幸せを噛み締めた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。