前編 夜の箱庭
その男の子と出会ったのは私の十歳の時だった。
「クロエ、お前にいいプレゼントがある」
伯爵である父に呼び出され、私は執務室まで出向いた。そして開口一番に父はそんなことを言ってきたのだ。
「お前ももう十歳だ。そろそろ生き餌の一匹でも食べてみたほうがいいだろう」
そう言って父が指をパチンと鳴らすと、隣の部屋に通ずる扉から私と同い年くらいの男の子が入ってきて父の一歩後ろに立った。
伯爵家の使用人服を身に纏いところどころに傷跡がある顔、本来なら綺麗だろう白銀の髪に濁りきった紺碧の瞳の男の子だ。しかしそれよりも目に入ったのは頭の上についたオオカミのような大きな耳と、後からチラチラ見え白い尻尾だった。
「獣人の子供だ。獣人の血はとても美味でな、生き血血が苦手などとほざくお前でも食べられるだろう。お前にコレをやる好きに使え、別に食い殺しても構わない」
父は口元の牙をチラつかせて男の子を見遣る。すると男の子は、生きた餌と呼ばれているのに死んだような顔で私の前に歩いてきた。
「……父様、この子は本当に私のものなのですか?」
私の言葉に父は嬉しそうに牙を光らせて「ああ、そうだ」と頷いた。私は一つ微笑むと目の前の男の子の傷だらけの頬をそっと撫でた。その目はひどく淀んでいて私のすることにまったくの反応を見せなかった。
「……ねぇ、私はクロエ。あなたの名前は?」
その時、初めてその紺碧の瞳と目が合った。そして私の生き餌となった彼は掠れた声でこう言った。
◆◆◆
「シリウス!!」
屋敷に着くなりドタバタと階段を駆け上がり、私は自室へと走った。迷路のように長い廊下を抜けた先にある一枚の豪奢な扉を蹴破るように開き私はそこにいるだろう人物の名前を叫んだ。
「なんですかお嬢様?そんなに大きな音を出して、イノシシが突っ込んできたのかと思いましたよ」
その人は私の部屋を掃除中だったらしく、不機嫌そうな顔をしながらもこちらに近づいてきて私から鞄を奪い去った。
「そんなことどうでもいいわ!それよりも大変なのよ!王太子殿下が近々私に婚約を申し込むらしいの!」
「……ああまあそうでしょうね」
テンパった私が、掃除に戻ろうとする男の肩を掴みグラグラ揺らすと、彼は呆れたようにため息を吐いてその紺碧の瞳で私を射抜いた。
私がこの男、シリウスと出会ったのは八年前の十歳の頃だった。私の住む国『ナイトガーデン』は吸血鬼が支配する常闇の国である。もともとは吸血鬼と吸血鬼の王しか住んでいなかったが、最強種である吸血鬼の庇護を求めて地上の他種族が移住してきたらしい。その際彼らは自身らの血を吸血鬼に捧げることと引き換えに庇護を得たのだ、それ以来『ナイトガーデン』では貴族の吸血鬼と平民の他種族が血の繋がりを持って共生していた。
かく言う私も吸血鬼の伯爵の娘として生まれた生粋の吸血鬼である。血を飲まねばお腹は空くし最悪死んでしまう、私にとって血はご飯だ。味は良くないが他種族から献上された血は飲んでいたしそれに忌避感などない。
しかし生き血となれば別だった。なんというか、私は生きた生物に直接噛みつき血を啜るという行為が怖かった。だって痛そうじゃないか。噛んだら穴はできるし吸いすぎれば死んでしまう。年齢が上がるにつれて友人たちもやれどの種族の生き血が美味しいだの言い出したが私には全く分からなかった。新鮮な血は確かに美味しそうだがそれよりも恐怖心が勝ってしまう、餌を餌として見れない。おそらく私は吸血鬼としての本能が少し弱いのだ。
そんな私を心配した父が用意したのがこのシリウスと言う獣人の男の子であった。獣人は吸血鬼に次いで強い種族でありわざわざ『ナイトガーデン』に吸血鬼の庇護を求めに来ない。それなのにその生き血は格別に美味しいのだとか。
同族に裏切られ、生殺与奪を完全に握られる生き餌となった彼は同時に私の従者になった。そして結果的に言うなら私は生き血嫌いを克服した。今では学園を卒業した十八歳の少し舌のこえた普通の吸血鬼である。
そう、いたって普通の吸血鬼だ。特質すべきところなど何もない、強いて言うなら少し学園の成績が良かっただけのその他王勢である。それなのに………
「どうして王太子から求婚されるのよ!父様から誰からも求婚されなければ結婚しなくてもいいって言われたから学園で奇人変人として振る舞って殿方から好かれないようにしていたのに!」
私の父は基本私に冷たい、私にシリウスを充てがったのもどちらかというと家の名誉のためだ。しかしそれでも私の自由意志をなるべく尊重してやろうという気概はあるようで結婚したくなかった私は父にそう約束を取り付けた。
だから異性と最も関わらざるを得ない学園で誰にも求婚されることがないように変わり者として振る舞っていたのにこれでは全て水の泡だ。しかも唯一引っかっかってしまったのが我らが吸血鬼の王の息子だとは……。
私は地団駄を踏んでこの憤りをシリウスにぶつける。しかしシリウスは驚いた顔一つせずまた掃除に戻ってしまった。
「まあ学園でのお嬢様は確かに奇人変人でしたね。突然呪いに傾倒しだしたり、木に登って降りられないと泣きついてきたり、裏庭の花畑でいつの間にか寝てたり」
シリウスも私と一緒に学園へ通い、四六時中ずっと側にいたから私の蛮行をよく知っている。改めて聞くと貴族としてあり得ないようなことばかりだ。しかし全て演技なのだ、それを忘れないでほしい。
「あ、いえ最初の一つはともかく後の二つは平常運転のお嬢様でしたね」
「……別に、あれは猫が降りられなくなってたから助けただけだし、花畑で寝たのもいつの間にか気持ちよくなっちゃっただけだし」
シリウスは私の赤い天蓋付きのベッドを整えながらも私の話に付き合ってくれる。この何気ない会話や温度感が私は好きだった。
「ですが王太子様はお嬢様のその変わった言動に惚れたらしいですよ。よくお嬢様の奇行を見つめて面白そうに目を細めていらっしゃいまし、学園では結構有名でしたよ」
シリウスの後ろで彼の手元を眺めながら私は愕然とする。まさかあの言動にトキメク人がいるなんて驚きだ。
「王太子殿下の趣味はどうかしちゃってるんじゃない?もっと将来性見たほうがいいわ。それにうちは本当にただの伯爵家よ、特別裕福な訳じゃないし特別歴史ある訳でもないのに王様はお認めになったのかしら」
「……まあ王太子様の趣味は俺もとやかく言えませんが、十中八九お嬢様は苦労されることになるでしょうね」
シリウスは一瞬どこか気まずげにベッドメイクを完了させた。そしてサイドランプの紐を引っ張り部屋の明かりを消すと私のベッドに腰掛けた。
「……そんなことよりもお嬢様お腹、空いているでしょう?」
その瞬間部屋の空気が変わった。シリウスは首元の服を解き、瞬く間に野獣のような表情になって私を見上げた。いやもともと獣人である彼の半分は獣なのだがなんというかこう……真っ暗闇で目をギラギラさせて見つめられるとまるで捕食者に狙われた獲物のような気分になってしまう。
私は吸血鬼だから獣人であろうと負けることはないのに、どうにも心胆を寒からしめる。そしてその美味しそうな首元にかぶりつきたくなる。
「でも……昨日も食べちゃったから、シリウスの負担になるかもしれないし」
常闇の国である『ナイトガーデン』に自然光など存在しない。その上ランプを消したのだから部屋の中は真っ暗だ、しかし吸血鬼である私はそれなりに見えていた。それはオオカミの獣人であるシリウスも同じらしく私を見つめて離さない紺碧の瞳が暗闇の中ランランと光っていた。
「獣人の回復速度を舐めないでください。俺はお嬢様に半日血を吸われ続けても生きている自信がありますよ」
だから、とはだけていた襟元を引っ張りシリウスは首から肩まで露出させる。瑞々しく実に美味しそう肌の下に確かに蠢く血の脈動が見えて私はゴクリと喉を鳴らした。
シリウスに出会ってから私の吸血感覚は随分と変わってしまった。最初の頃は嫌がっていたが一度その味を知ると徐々に彼の血に溺れていった。心身から漏れる芳醇な匂いが私の鼻腔を刺激し、その新鮮で瑞々し味を思い出してしまう。今では毎日のように彼の血を吸っている。こちらが遠慮しようとしてもシリウスはこうして誘うように首元をチラつかせてくるのだ。
「……分かった、でも無理になったらちゃんと言ってね。私に食い殺されないでよ」
私は、ベッドに腰掛ける彼の上に膝を立てて座る。その光を放つ紺碧の瞳と間近で目が合い心臓がドクンと跳ね上がった。
「――あなたに食い殺されるなら、本望ですよ」
流れるように言われ嘘偽りのない言葉に私はまた心臓がキュンと締め上げられた。食い殺すなんてそんなことはしない、私は彼が好きだ。ずっと一緒にいたいしずっとその血を吸っていたい。だから学園で奇人を演じてまで誰とも結婚したくなかったのだ。
その広い肩と背中に手を回す。剥き出しになった首筋からシリウスの匂いが鼻腔に入り、自分の牙が鋭く伸長していくのを感じる。昨日つけたはずの噛み跡はきれいさっぱりなくなっていて私のモノだという証を刻み込みたくなる。
「どうぞ召し上がれクロエ、この身は全てあなたのものです」
ああ……こんな時ばかり名前を呼んで、いつもは何を言っても『お嬢様』なのに。しかし添え膳食わぬば吸血鬼が廃るというものである、私はシリウスの柔らかな肌に白い牙を突き立てた。
「……〜〜〜!!」
プツ――という音が立して、シリウスの首筋に私の牙が突き刺さった。そこから唇を付けて血を吸い上げると、シリウスは衝撃に耐えるようにブルッと体を震わせ私の頭を後から軽く押さえた。
「ハァックロエ……」
ちゅっ…ちゅぅと血を吸う度に新鮮な血が流れ込んでくる。それは今の今までシリウスの肌の下で生きていた血、彼の命を支えていた大事な血、そして何よりもシリウスの血。
……美味しい…美味しい……
恍惚とした気分で彼の血を啜る。口元から漏れた血がツツツ――と彼の肌を伝っていく。その度に彼は疼痛な痛みに耐えているのか、はたまた気持ちよさに耐えているのか体をビクビクっと微動させて熱い息を漏らしていた。
その時夢中で彼の肌に噛み付く私に、シリウスは私の肩を掴みグイッと首筋から引き剥がした。
「あっ………」
彼の首から私の唇に唾液と血が入り混じった糸が伝う。そして突然取り上げられた彼の血に私は子供のように声を上げて、もっと欲しいとシリウスに視線を投げかけた。
しかしシリウスは私のそんな表情を見て、嫌がるどころか飢えた獣のように口角を上げて紺碧の瞳に怪しげな光を宿した。
そしてシリウスは口元を手で押さえてガジッと何かを噛むように口を動かした。
「シリウス……?」
首を傾げて彼の名前を呼ぶと、シリウスは何やらモニュモニュしていた口を開いた。そしてそこから血だらけの舌を覗かせガブッと私の唇に齧り付いた。
「…………!!」
彼の血だらけの舌が私の口にねじ込まれる。どうやら自分で自分の舌を噛んだようだ。ジクジクと漏れる血が美味しくて私も夢中に齧り付いた。お互い熱い吐息を吐き、唾液が混じる音が暗い部屋の中に響く。
……これは吸血行為、これは吸血行為
言い訳のように頭の中でその言葉が繰り返される。これはただの食事であって決して口づけではないのだ。もし違う意味で喜んでいると知られればシリウスは嫌がるかもしれない。餌に恋をするなんておかしい、もう血は吸わせない、とそんなことを事を言われると思うと胸が張り裂けそうになる。
だからこれは愛を求めての行為ではない、ただお腹が空いて美味しい血を求めているだけの健全な行為だ。
そう言い聞かせて私はまた夜の帳の落ちた部屋でしばらくシリウスの血を堪能した。
◆◆◆
「ねぇ実際私が王太子殿下と結婚したら、シリウスはどうするの?」
小一時間ほどシリウスの血を飲んだ後、私はベッドに寝っ転がりグシャグシャになった襟を整えるシリウスの後姿を見ていた。
さっきあれだけ吸われたのにシリウスは貧血になることもなくピンピンしている。なんなら先に私がお腹いっぱいになってしまったくらいだ。その逞しさにまた胸が高鳴るのを感じつつも、吸血前の本題に戻ろうと問いかけた。
「……まあ恐らくあの王太子様は俺がお嬢様に付いていくことを嫌がるでしょうね、吸血なんて持ってのほかです」
吸血鬼の中ではパートナーに他者との吸血を嫌がる者もいるらしい。私の場合はシリウスが獣人なので分からないが、夫婦同士でのみ吸血を行うことが多いようだ。
「ええー私別にシリウスの生き血だから飲めるだけで今でも他の相手とはムリだよぉ」
ベッドでゴロゴロ転がりながら不満を漏らすとシリウスは「そ、そうですか……」と一瞬言葉に詰まってたように相槌をうった。
「まあ俺がお嬢様と共に行けない以上、旦那様は別のところに俺を売るんじゃないですか?」
私はシリウスの言葉にふぅーんと生返事をしながら、シリウスが私以外の誰かの者になるのは、嫌だな……と心の中で呟いた。
◆◆◆
「いや、絶対にそれだけじゃない済まないわよ」
その次の日、私は学園で唯一の友達であったフリソスという吸血鬼の元を訪ねていた。そして開口一番、彼女にそんなことを言われてしまい私は「え?」と牙もしまい忘れて口をぽかーんと開けた。
「あの王太子よ。学生時代クロエに散々アピールしたのに名前を覚えてもらうのに一年かかり、話しかけてもらうのに三年かかり、結局想いは一粒も伝わらずシリウスに嫉妬しまくりで嫌がらせをしていたあの王太子よ」
「えぇ……あの嫌がらせって王太子がやってたの?」
フリソスの言葉にほんの半年ほど前のことを思い出す。そう言えばシリウスの持ち物はなくなることが多かった。本人はたかが生き餌が学園にいることへの嫌がらせでしょうと気にしていなかったしノートがなくなれば私のを見せてあげた、コートがなくなれば一緒に羽織って帰った。だから私も過剰には心配していなかったのに、まさか王太子が仕組んでいたとは……。
「学生時代はクロエが常にシリウスの側にいたから直接的な害はなかったけど、クロエがいなくなるならあの王太子は確実に何かやるわよ」
フリソスの凄んだ声にゴクンと固唾をのんだ。正直王太子のことは全く印象にない、存在は知っているし名前も何となく分かるがどんな人なのかは全然分からない。ただフリソスの勘はよく当たるのだ。
「どうしようフリソス、私シリウスに何かあったらと思うと……」
「……ただの生き餌にそこまで情を寄せるのもあなたくらいよクロエ」
私の震える声にフリソスは呆れたように笑い指を一本立てた。
「そもそも今日はどうしたら王太子との縁談を止められるか話してたわよね。私にいい考えがあるの」
そう言ってフリソスはニヤと牙を見せて私に自身の作戦を説明した。
◆◆◆
「シリウス!」
私は先日と同じ様に自室の扉を蹴破る勢いで開いた。
「……おやお嬢様、最近はイノシシごっこが流行っているのですか?昔は一緒にオオカミごっこもしましたが俺に教えられるのは犬系統のみですよ」
シリウスは頭に生えたオオカミの耳をピクンと動かし白い尻尾をブゥンと振った。
「そんなことはどうでもいいのわ!それより見てよあなたに食べてほしくてお菓子という物を手作りしたの!」
私は袋の中に詰めた『クッキー』と呼ばれる食べ物をじゃじゃーんとシリウスの前に差し出した。
吸血鬼は水と血液以外の食事を必要としない。だから調理なんて概念は存在しないけれど、この度初めて料理という物をしてみた。
「お嬢様が……?俺に、手作り、ですか……?」
いつも通りスルーしようとしていたシリウスだがその言葉に紺碧の瞳を瞬き呆然として私と『クッキー』を見返した。
「そうよ。あなたのために私が手ずから作ったのよ、受け取ってくれる?」
首を傾げてそう尋ねればシリウスは感極まったように目を丸くして尻尾をブンブン振りながら『クッキー』の袋を受け取った。
「……とても、嬉しいです。まさかお嬢様が俺のために何かを作ってくださるなんて、夢みたいです……」
シリウスは珍しく頬を緩ませ『クッキー』を大切そうに抱いた。その純朴な反応に少し胸が痛くなりつつ私は誤魔化すように笑った。
「あなたのために作ったんだから絶対に誰にも食べさせないでね。あと残したら承知しないから」
「……はい、誰に強請られようと絶対に渡しません。大事に食べます」
フサフサの尻尾が千切れんばかりに振られて本当に嬉しいのだなと分かる。その年相応の笑顔に胸が高鳴るのを感じていると、シリウスはその瞳に怪し気な光を宿して私を射抜いた。
「お嬢様、俺の腹を満たすのもいいですがそれよりも今はあなたを満たしたい気持ちでいっぱいです」
さあどうぞ、と首をはだけさせいつもより甘い口調でシリウスは私を誘ってくる。
前々から思っていたがシリウスはこういう場面になると妙な匂いを出す。甘くてクラッとくる、血液とはまた違った怪しげな匂いが部屋中を漂い、いつもシリウスの誘惑に負けてしまう。
その柔らかそうな肌にゴクンと喉を鳴らす、しかし今日は何となくやめておこうと思って伸びていた牙をもとに戻した。
「……ううん、今日はいいや。これからやることがあるの、シリウスも今日は早く部屋に戻って寝たら?」
私が笑顔でそう言うとシリウスは「そうですか……」と少し残念そうにして襟を整えた。
「それではお嬢様、クッキー美味しく頂きますね。それと、あまり夜更かしはしすぎないように」
そう言うとシリウスは甲斐甲斐しくこの場を後にした。扉が閉まるまで私は笑顔を貼り付け手を振っていたが、その足音が遠ざかるとドッと力が抜けて膝から崩れ落ちた。
「あ~緊張した〜」
私は肺の中で張り詰めていた空気をはぁー吐き出した。どうやら怪しまれずに事を成せたようだ。
私は天井を見上げて、数日前フリソスと話した内容を思い出す。
『つまりシリウスに呪いをかけるってこと?』
私の発言にフリソスは『ええそうよ』と小さく頷いた。
『クロエに呪いの惚れ薬をあげるわ。それにあなたの血を混ぜてシリウスに飲ませなさい、そうすれば彼はあなたの虜よ』
フリソスは妖艶に微笑んで、呪いという怪し気なワードを口にする。
何を隠そうフリソスこそ私が学園で呪いに傾倒しているなどと噂がたった大原因である。呪いに精通しているフリソスと仲良くしている内にいつの間にか私も怪しげな呪いに関与していると噂されたのだ。
呪いはいわゆる使用が禁止されてる魔術領域だ。危険性が高くナイトガーデンでは王から認可を得ないと扱えない。
フリソスの場合、一応王から許されているが一個人である私に惚れ薬などという呪薬を渡すのはさすがにリスクがある気がする。そしてそんなリスクを侵してまでシリウスを惚れさせる理由が分からない。
『シリウスが私に惚れてもどうにもならないでしょ?それにあんまりそういう方法で心を動かすのはシリウスに悪よ。ねぇ嫌われ薬とかはないの?それを王太子殿下に飲ませれば私と結婚したくなくなると思うの』
多少、王太子の心を勝ってに弄ることに罪悪感を感じつつもシリウスに比べたら王太子なんて割とどうでもいい。というか逆にたかが伯爵家の娘を娶るよりも周囲は納得すると思う。
『さすがに王太子に呪薬をもるのはねぇ……それに惚れ薬も嫌われ薬も効果は一週間くらいだから王太子に嫌われても根本的には解決しないわ。でもシリウスを惚れさせたら話は別よ』
『……それは具体的に何をすれば?』
なんだか嫌な予感がしつつも私は息を呑んで怪しげに笑うフリソスの言葉を待った。するとフリソスは衝撃的な言葉を口にした。
『簡単よ。クロエ、あなたシリウスに処女を捧げなさい』
つまるところフリソスの提案は、私がシリウスと交わり純潔でなくなることで王太子の婚約者になる資格をなくそうという物だった。
これにはさすがに私も反対した。確かにシリウスを押さえつけることは吸血鬼の私には簡単だが、それからのことは単に力だけじゃどうにもならない。そう言って反論したがフリソスは『だから惚れ薬を使うんでしょ』と呆れたように返してきた。その後もシリウスが可哀想だとも言ったが『じゃあそれでシリウスが王太子に殺されてもいいの?』と返されてしまえば私は押し黙るしかなかった。
結局、私もフリソスの提案に同意した。なんたってシリウスの命がかかっているのだ。これは彼のためではないのかもしれない、分かってる。でも私は彼が嫌がろうがどうしても生きてほしかった。
そして私はシリウスに惚れ薬を飲んでもらうべく『クッキー』に薬を練り込んで渡した。勘の鋭い彼のことだからもしかしたら気付かれるかも、と思っていたが杞憂だったようだ。怪しむどころかとてもご機嫌に私の部屋を後にしていた。きっと今日か明日には呪いにかかり一週間だけ私に恋をする、そしてその間にどうにかこうにか同衾して純潔を散らすのだ。
まあ最終手段は媚薬だが、なるべく使わない方針でいく。
「……はぁとりあえず今日はもう寝よう」
この作戦が上手くいくかは分からない。でもやらないとシリウスはもっと酷い目に遭うことは分かっている。だから今日は英気を養おう、どうせすることもないのだし。
そう思って私はランプを消してベッドの中に潜り込んだ。そして真っ暗闇の中「おやすみシリウス」と呟き目を閉ざすのだった。
◆◆◆
ナイトガーデンに夜はない、強いて言うなら常に夜だ。この国はかつて吸血鬼の始祖が日光を苦手とする同胞のために作った国らしい。吸血鬼はみな一様に日光を嫌う、しかし明けない夜はないようで地上での暮らしは吸血鬼にとってとても窮屈だったようだ。だからこここそが安寧の地だとみんな言う、誰も出ていくなんて考えもしないのだ。
しかしふと考えてしまう、朝日とはどういうものなのか、夕暮れとはどういうものなのか。それはきっと吸血鬼としての本能が薄い私だから感じることなのだろう。生き血が苦手だったり餌に恋をしたり私はきっと吸血鬼としてどこかおかしいのだ。
生まれた時からずっとそういう疎外感を感じていた。ふとしたところでかけちがっているような感覚がどれだけ経っても拭えず、十歳の頃には周りとは本質的に分かり合えないのだと理解した。
だからシリウスと出会った時本当に嬉しかった。初めて、自分の絶対的な味方ができた気がした。生き餌と言われながらもその死んだような顔を笑わせたい。この子に好かれたい。そういう気持ちがグルグル巡っていつの間にか恋になっていたわけだが、現実とはままならないものである。
そんなことを一人夢の中で考えていた。
吸血鬼にとって睡眠とは本来必要のない行為だ。一応回復手段として存在するが、十分に血を吸っていれば寝る必要はない。ただ私は小さい頃、最低限の血液しか摂取していなかったため他種族並みに寝ていた。シリウスの血を飲むようになってからは十分すぎるほど満たされているが、幼い頃の習慣は未だに私の中に根付いている。
まあつまり私の睡眠はほぼフリということだ、寝てはいるがとても質は浅くちょっとした物音ですぐに起きてしまう。もちろん眠っている淑女の部屋に無断で入ってくる者などいないからいつもは起きないのだけれど、今日は違ったようだ。
私は夢の中で見知った気配を感じ意識を浮上させた。目を開けずに無反応を貫いたのは混乱と戸惑いがせめぎ合いどうすればいいか分からなかったからだ。
その人物は入ってきた扉を閉めて内側から鍵をかけると、音もたてずに私の眠るベッドの横まで移動した。逃さないように、少しずつ、でも確実に。それはまるで暗闇に紛れて狩りをするオオカミのようだった。
しばらく顔に熱い視線を感じながらも私は寝た振りを続けた。もはや起きるタイミングを完全に逃してしまった。これなら最初に部屋に入ってきた瞬間とっとと起きればよかった。
そして後悔先に立たず、私を凝視する気配は視線をそのままに、
ベッドの上に乗り上げてきて私の両手首をシーツに縫い付けるように押さえた。
顔を寄せられスリと額を押し付けられる。飢えた獣のように息は荒く、目を閉じて逆に敏感になった耳に熱い吐息が直にかかる。辺りには私が血を吸っている時のような甘やかな匂いがムワムワと湿度を帯びて立ち込めて、喉に妙な渇きを覚えた。
密着した胸から伝わるその鼓動があまりにも速くそして強かったので釣られてとても遅く弱いはずの私の心拍も跳ね上がる。視界に入る白い尻尾は私の足に巻き付き撫で上げるようにスカートの中に入っていった。私はベッドの上で完全に組み伏せられた。
混乱して頭が回らない、力も上手く入らないし白い尻尾が素肌を撫でる度にくすぐったくて声が出そうになるのを必死に我慢した。
分からない、何も分からない。頭が妙にクラクラしてきて少しの隙間も厭うようにピッタリと重なった体の境目が混じっていく感覚に襲われる。理性は溶けるようになくなっていきどうしようもない熱が体をグルグル巡っていた。
それでも寝たフリを続けた。もしかしたら時間が経てば満足して出ていくかもなんて一縷の期待を持って瞼を閉じ続ける。だって今起きたら私は判断をしなければならない、拒絶か受け入れるか、今ここで決めなければならなくなる。それができなくて私は問題を先送りにしようとした。
しかしそんな私を嘲笑うかのごとく注がれるように熱く掠れた声が耳に触れた。
「――――起きているのでしょう、お嬢様?」
その言葉に私はビクッとして目を開けた。目の前には私が幾度となく噛んできた首筋があり、それがスッと離れこの八年であまりにも見慣れた私の従者であり生き餌でもある白銀の人狼―――シリウスの顔が目の前に現れた。
その紺碧の瞳は今まで見たことがないほど危うい熱を孕み、熱く火照った頬や息苦しいそうな様子がまるで熱に侵されているようだった。
シリウスは鬱陶しげに首のネクタイをとって襟を緩めると、獲物を捉えた肉食獣のような瞳を向けた。
「さて申し開きを聞きましょうか、かわいいかわいいお嬢様?」