9話 かすかな不安
念のためにって、朝イチで病院に連れて行かれた。
検査はいつものルーティン。結果が出るまでの待ち時間は、暇すぎて逆に疲れた。でも、特に異常はなかったみたいで、なんとかお昼休みには学校に間に合った。
後ろのドアから教室に入ると、すぐ近くの席で香織ちゃんがいつものように漫画を読んでいるのが見えた。
——よし、驚かせちゃおう!
そーっと、そーっと、背後から忍び寄る。
——あとちょっと……あと少しで香織ちゃんに飛びつける……!
「え~なんでぇ~!」
飛びつこうとした瞬間、まるでわたしの気配を察知したかのように、香織ちゃんが急に振り返った。
そのまま勢いで椅子に座る香織ちゃんに抱きつくと、彼女は漫画を顔の前に突き出して、容赦なくわたしを押し返してきた。
「私、後ろに目ついてるから」
「ほんとについてるんじゃないの~?」
顔に押しつけられた漫画を手で払いのけると、香織ちゃんはそのままの調子で「はい、これ読んだ、ありがとう」とわたしに漫画を押しつけてきた。
「……違う!わたしの顔に押しつけないで!」
文句を言いながらも、ちゃんと漫画を受け取る。
「で、どうだった?どうだった?」
わたしが漫画をパラパラめくると、香織ちゃんは珍しく少しだけ口角を上げて答えた。
「ライトくん、かっこいいし、好き」
——あ、香織ちゃんちょっと顔緩んでる。
表情の変化はわずかなんだけど、長い付き合いのわたしにはちゃんとわかる。
「えー、もしかしてあの時言ってた好きな人ってライトくん?」
試しに聞いてみると、香織ちゃんは漫画のページをめくる手を止めずに「どうだろうね」と真顔で返してきた。
——わかりにくっ!
もう一つの可能性がふと頭をよぎる。もしや、もしかして……。
「まさか……いつ——」
「それはない」
わたしが言い終わる前に、低い声でピシャリと否定された。
「え、まだ何も言ってないのに!」
「言わなくてもわかる。はい、授業始まるよ」
スパッと会話を切られて、わたしは仕方なく席に戻ることにした。
——ていうか、わたしまだ教科書も出してないじゃん!
バタバタと準備をしながら、ため息交じりにつぶやく。
「なんとか間に合ったぁ~……」
すると、隣の席の蒼がすかさずツッコんできた。
「一応、昨日の今日なんだし、もう少し安静にしとけよな」
わたしは腕をまくって、力こぶを作って見せる。
——ほらほら、よ~く見て!細くて弱そうに見えるけど、ほんのちょっとだけ盛り上がってるんだから!
「どやぁ!」
「そんなに得意げになっても、全然すごくないぞー」
「なにおぅ!」
思わず蒼を睨みつけると、彼はおかしそうに笑った。
「ははは、良かったよ」
その顔が、すごく楽しそうで。
——うん、やっぱり蒼は笑ってなきゃ。
蒼が笑ってたら、わたしも安心できる。わたしもつられて笑って、二人でなんでもないように笑い合った。
ちょうどその時、教室のドアが開いて、先生が入ってくる。
「おーい。何笑ってんだそこの二人ー」
先生の声に、わたしと蒼は顔を見合わせて、慌てて口元を手で押さえた。
でも、まだ笑いは消えそうになかった——。
「蒼のせいなんだけど!」
「いや、きっかけ作ったのそっちだろ」
——もぉ~!蒼のせいでみんなに笑われて、すっごい恥ずかしい思いしたじゃん!ばかばかばかばーか!
「はい。今日は私たちが当番だから」
香織ちゃんの冷静な声が、わたしと蒼のやりとりをスパッと断ち切る。
今日は私たちが教室の掃除当番。香織ちゃんはいつもとってもしっかりしてて、わたしのお姉ちゃんみたいだなってよく思う。だから、蒼も香織ちゃんに対してはあんまり強く言えないの!ということは、香織ちゃんがわたしの味方になれば蒼が悪いことに……。
「香織ちゃ~ん」
甘えるように抱きつこうとすると、香織ちゃんは迷うことなくビニール袋をわたしの胸元に押しつけた。
「馬鹿なこと考えてないで、それにゴミ詰めて捨ててきて」
——香織ちゃん!エスパー⁉
「はーい……」
バレバレだったのが悔しくて、しぶしぶビニール袋を受け取る。教室のゴミ袋と入れ替えて、ひとまとめにする。
「じゃぁ、ゴミ出してくるねー」
香織ちゃんと蒼に声をかけてから教室を出た。
ゴミ捨て場は食堂の一番奥にある。二年生の教室からは一番遠い。
放課後の自由時間を楽しんでいる人たちの姿を横目に見ながら、ゴミ捨て場へと向かう。
——いいなー、わたしも本当なら、今頃自由時間のはずなのに……。そしたら……そしたら、どうするんだろう。
頭をよぎるのは、昨日の観覧車での樹くんの涙。
忘れようとしても、どうしても気になってしまう。それ以来、変に意識しちゃって、結局連絡先を交換したのに何も連絡してない。
——もう、どうしていいのか、わかんなくなっちゃったよ……わたし。
そんなことを考えていると、ゴミ捨て場に着いた。
「あ、咲葵」
驚いて顔を上げると、そこには樹くんがいた。
——うそ、こんなタイミングで……。
手を振る樹くんに、わたしも少し遅れて手を振り返す。
「咲葵も当番?」
「うん」
「奇遇だね」
「うん」
「今日は部活来る?」
その問いに、わたしはすぐに答えられなかった。
昨日のことが頭をよぎるし……何よりも、わたし自身の体のこと。そんなに体が強くないから、何かあったらやだし……。それに、樹くんには知られたくない。迷惑かけたくないもん。
何も言えずにいると、樹くんは少しバツが悪そうに頭に手を当てながら笑った。
「ごめんごめん。無理しなくてもいいから、それじゃ、またね!」
そう言うと、駆け足で教室へ戻っていった。
その背中をぼんやり見送ったあと、わたしは手に持っていたゴミ袋を回収場所に置く。
そして、大きく息を吐いた。
——なんか、疲れちゃった……。