8話 大切な約束
観覧車を出てからのことは、あまり覚えていない。たぶん、それなりに楽しくしゃべっていただろうし、いつも通りにふるまえていたと思う。でも、心だけがふわふわと浮いていた。
何度も、何度も、繰り返し頭の中でフラッシュバックする。樹くんの涙。赤く染まった頬に、一筋の光の線。
わたしは、あの涙の意味を何ひとつ知らない。だけど、それが心にこびりついて離れなかった。
日がすっかり暮れて、遊園地を出た帰り道。
樹くんと香織ちゃん、わたしと蒼、それぞれ帰る方向が一緒だったから、途中で別れることになった。
「じゃあね、また学校で」
樹くんと香織ちゃんが並んで歩いていく後ろ姿を見送って、わたしと蒼は並んで歩き始める。
——二人きりの帰り道。なんだかんだ久しぶりかもしれない。
「なんか、この帰り道久しぶりだな」
蒼が、夜空を見上げながら言う。
「そうだね。二人で帰ること自体は一昨日あったけどね」
「こんな形で約束がかなうとはな」
その言葉を聞いた瞬間——。
わたしの足が、ぴたりと止まった。
何か熱いものがこみ上げてくる。喉の奥が詰まるような感覚とともに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
蒼の言葉をきっかけに、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇る。
——その思い出は、わたしにとって、とても大切な思い出……。
忘れるなんて、許されないのに。絶対に許されないのに——。
「咲葵!」
蒼の声が聞こえる。でも、なぜか遠くで響いているように感じた。
視界がぐにゃりと歪む。
あれ……?
世界が暗くなる。
——あお……い……。
これは、今から七年前。
わたしがまだ小学五年生だったころ、蒼と一緒にこの遊園地に来た日のこと——。
わたしにとって、特別な意味を持つ思い出。
蒼とこうして遊べるのも、もしかしたら最後かもしれない。
そんなことを、心のどこかでぼんやりと思いながら、一緒に園内を歩いていた。
でも——楽しい時間は、一瞬で過ぎてしまう。
帰り道。
もう少し、この時間が続けばいいのに。そんなことを考えていたわたしに、蒼はいつもの無邪気な笑顔で言った。
「今日、すごい楽しかったね! きっと、もっともっと楽しいことが、これからも待ってるよ」
「そうかな……」
つい、うつむいてしまう。自信のない声が、自分の口からこぼれ落ちる。
すると、蒼はしゃがみこんで、わたしの目線に合わせてきた。
「うん! 絶対!」
わたしの瞳をまっすぐ覗き込んでくる蒼の瞳は、まるでわたしの不安なんてものごと、ぜんぶ吹き飛ばしてしまうかのような力を持っていた。
——ずるいなぁ、蒼は。
「でも……」
「大丈夫だって! 咲葵ちゃんなら余裕だよ! どんな困難でも蹴っ飛ばしちゃうもん!」
——そんなわけないのに。
わたしには、わかっていた。
どうしようもないことが、この世界にはあることを。
努力だけじゃどうにもならないことがあることを。
それでも、蒼の言葉はあまりにもまっすぐで——。
「……だから、また一緒に行こ! この遊園地、絶対だよ!」
「……絶対って言ったなー!」
蒼の勢いに、いつの間にかわたしも乗せられていた。
単純だった。
でも、蒼が言うと、不思議と信じられる気がした。
——もしかしたら、本当にまた来れるのかもしれないって。
蒼が差し出した小指に、わたしもそっと小指を絡める。
——約束だよ、蒼。
わたしたちは、小さな声をそろえて言った。
「指切拳万、嘘ついたら針千本呑ます、指切った!」
——未来なんて、誰にもわからないのに。
それでも、その時のわたしたちは、何の迷いもなく、強く小指を結んでいた。
薄っすらと目が覚める。
ぼんやりとした視界の中で、何かが動いているのが見えた。でも、それが何なのかを考える気力はない。頭がふわふわしていて、まだ現実に戻りきれていなかった。
それと——懐かしい夢を見ていた気がする。とても、大切な夢を。
「……わたし、さいてー」
かすれた声で、心の中に渦巻いていた言葉がそのまま口から漏れ出た。
「お、起きたのか。もうそろそろ家に着くぞ」
聞き慣れた声。
はっきりと視界が定まってくる。
——わたし、気絶しちゃったんだ。
また蒼に助けられた。あの時みたいに。
ゆっくりと顔を上げると、暗い道の先にわたしの家が見えてきた。玄関の明かりが灯っていて、その前には、お父さんとお母さんの姿があった。
「着いたぞ。今日は疲れたんだから、ゆっくり休めよ」
蒼の声がして、体がふわっと傾く。
——ああ、そっか。
わたし、今まで蒼におんぶされてたんだ。
蒼がゆっくりしゃがみ込むと、わたしはその背中から降りた。
「……っ」
地面に足をつけた瞬間、ズキンと足首に痛みが走る。ぐらついた体を、お父さんが慌てて支えた。
「大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
そう言ってみたものの、力が入らなくて、お父さんの腕に寄りかかってしまう。
「すみません、蒼くん……娘をありがとうございます」
お母さんの言葉に、蒼は笑顔で軽く首を振る。
「いや、そんな。俺はただ……」
そこまで言いかけて、ふっと目を伏せた。
——そんな顔しないでよ、蒼。
わたしの方が、よっぽど情けないんだから。
わたしはお父さんに支えられながら、蒼の方を見上げた。
「……蒼」
名前を呼ぶだけで、喉がつっかえて、うまく言葉が出てこない。
それでも、ちゃんと伝えたかった。
「……覚えててくれて、ありがとう……」
約束、守れたね。
「良かったぁ……」
言い終えると、ほっと力が抜けるのがわかった。
玄関の明かりが、滲んで揺れる。
気づけば、意識はまた、静かに沈んでいった——。