7話 観覧車
わたしと樹くんは、香織ちゃんと蒼が座っていたフードコートの同じ席に腰を下ろした。
「樹くん……ごめん」
ぽつりと小さく謝ると、樹くんはすぐにやさしく微笑んで答える。
「大丈夫だよ」
その言葉に、ますます申し訳なさが募る。
——大丈夫じゃないよ……。
わたしは 顔を伏せたまま、樹くんの顔を見ることができなかった。
—— わたし……一人でずっとはしゃいで、楽しんで、樹くんのこと気遣えてなかった。わたしばっかり楽しんじゃってた……。
胸の奥が じくじくと痛む。 せっかく一緒にいるのに、わたしは何も考えずに浮かれてばかりだった。
「ううん……違う。そうじゃないの」
そう言いながら、わたしはぎゅっと拳を握る。 これ以上、自分の気持ちにフタをしたくなかった。
樹くんは黙ってわたしの言葉を待ってくれている。その優しさが、逆にわたしを苦しくさせた。
——でもこのままじゃダメ。香織ちゃんも蒼も、何度も助けてくれてる。このままじゃいけない。わたしもちゃんとしなきゃ。
勇気を出して、 勢いよく顔を上げた。
樹くんのまっすぐな瞳が、静かにわたしを見つめている。 逃げたくなるくらい、まっすぐに。
「購買で助けてくれた時も、夜に途中まで送ってくれた時も……わたし、お礼をちゃんと言えてなかった」
気持ちが溢れて、胸の奥が熱くなる。
「だから、改めて……ありがとう。ごめんなさい」
目をぎゅっとつむりながら、深く頭を下げた。
すると、 肩にやさしいぬくもりを感じる。
——え……?
樹くんの手が、 そっとわたしの両肩に添えられていた。
「顔をあげて」
その声に ゆっくり顔を上げると、樹くんはやわらかく微笑んでいた。
「全然、そんなこと気にしてないよ。でも……ずっと気にかけてくれてたんだよね。ありがとう」
わたしの心の中できゅっと何かがほどける。
「それに……咲葵といると、本当に楽しい」
そう言って笑う樹くんの顔は、 今まで見たことのないほど無邪気だった。
——こんな顔、するんだ……。
ふわっと心が温かくなる。
そして、 この時間を大切にしたい、と思った。
「お~い。元気か~」
少し離れたところから蒼の声が聞こえた。そっちの方に目を向けると、隣には香織ちゃんの姿。二人とも、なんだかすっきりした顔をしている。
—— わたしたちが休んでる間に、二人で楽しんできてたんだね。よかった――。
「元気だよー!」
蒼に向かって手を振りながら立ち上がると、蒼がどこかホッとしたような表情で軽く手を上げた。
それから、次は何をするかの話し合いになった。すると、意外にも香織ちゃんが口を開く。
「そろそろ観覧車いかない? 並ぶタイミングを考えても丁度いいと思う」
「そうしよっか」
樹くんもすぐに賛成し、もちろん誰も反対しなかった。
——うんうん、観覧車いいね! ゆっくりできるし、今日の思い出を振り返るのにもピッタリ!
そう思いながら、みんなで観覧車に向かい、順番を待つ。
並んでいる間も、四人で楽しく会話をしていた。
——意外と蒼と樹くんも仲良く話してて、びっくり!最初はちょっとギクシャクしてたから心配だったけど……二人が仲良くなってくれて嬉しい!
そんなふうに思っていたら、いつの間にか順番が回ってきた。
わたしの隣には蒼、正面には樹くん、その隣に香織ちゃんが座る。
観覧車がゆっくりと上昇し始めると、 みんな無言で外の景色を眺める。……でも、じわじわと上がっていくぶん、あんまり景色に変化がないせいか、 だんだんと会話が途切れていった。
なんとなく気まずくなるのが嫌で、 わたしは無理やり話題を振る。
「ねぇねぇ、恋バナしよ! 好きな人とかいるの?……蒼」
隣にいる蒼をチラッと見て、 軽く笑いながら問いかける。
すると、蒼はビクッと肩を震わせて、勢いよくこっちを振り向いた。目が大きく開いていて、まるで完全に不意打ちを食らったみたいな反応。
——ご、ごめん蒼。気まずくなるの嫌で、咄嗟に話題だしたけど、出す話題間違えた……。だから蒼に振った、ごめん!
蒼の驚いた顔を見て、 やばい、やらかした!? と思ったけど、もう遅い。
苦笑いしながら「えへへ……」とごまかしていると、蒼は 一瞬だけ視線をそらし、少し間を取ってからぽつりと答えた。
「俺は……いるよ。一応……」
——えっっっっ⁉
思わず 口を開けたまま固まってしまう。
だって、蒼って そんな素振り全然なかったし、恋愛とかあんまり興味ないタイプ だと思ってたし……。
——え、えええ!? だ、誰⁉ どんな子⁉
「意外! 蒼も恋するんだー!」
あまりにも驚いて、大きな声で言ってしまった。
「……あー、うっさい。いないって言えばよかった」
蒼はわたしの勢いに呆れたようにため息をつく。
でも、蒼は嘘をつかない人だって わたしは知ってる。
「でも、なんで"一応"なの?」
そう聞くと、蒼は ゆっくりと視線を窓の外へ向けた。
「叶わないからだよ。それに……」
——え……?
思わず 息を呑む。
でも、それ以上考えるより先に 咄嗟に言葉が出た。
「蒼らしくないじゃん!!」
思わず声を張ってしまった。
——違う、本当は違う。こんなこと言いたかったわけじゃない。
わたしの背中を押してくれた蒼、いつも助けてくれた蒼。だから、そんな諦めた蒼の姿を見たら、わたしまで自信がなくなりそうで、怖気づいてしまいそうで……。
蒼の前だと、なんか我がままになっちゃう。
——最低だね、わたし。
「仕方……」
——だめ、その続きは言わないで!!
蒼が続けようとした言葉を、遮るように別の声が響いた。
「私もいる、好きな人」
香織ちゃんの声だった。
視線を向けると、いつもの真顔のまま、香織ちゃんは静かにそう言った。でも、なんとなく、わたしに向けて言われたような気がしてしまう。
咄嗟のことで頭が回らずにいると、樹くんが口を開いた。
「そうなんだ、なんか意外だね。そういうの興味ないと思ってた」
香織ちゃんは樹くんの方を見ながら答える。
「心外。そーいう系の本だって読む。……けど、まぁみんなが思ってるほどの恋はしてないけど」
樹くんは「そっか」と短く返してから、前を向いた。
その瞬間、目が合った。
樹くんと、わたし。
わたしはドキッとして、思わず視線をそらしてしまった。
——ああああ、やっちゃったー……。なんか気まずい。すごく気まずい……。
「樹くんはいるの?」
冷めた声で香織ちゃんが問いかける。
——どうなんだろう。いるのかな、いないのかな。
樹くんの答えを待つ時間が、やけに長く感じる。心臓がドクンドクンと大きく鳴って、周りの音が遠ざかっていくみたいだった。視界が狭まる。暗闇の中に取り残されたような、嫌な感覚。
——落ち着いて、落ち着いて。
そう思っても、どんどん鼓動は早くなっていく。
——ねぇ、お願い。止まって。心臓、止まって……。
「いないよ」
樹くんの一言が、わたしを現実へと引き戻した。
——よかった……。
そんな安心感が、わたしの心をふわりと包んでいく。
まだチャンスがあるかもしれない。がんばれば、きっと……。
「というよりも、いらない……が、正しいかな」
樹くんはそう言って、やさしく笑った。
——え、どういうこと……? わたしにはもうチャンスがないってこと……?
さっきまでのワクワクした気持ちが、急速に冷えていく。ジェットコースターの頂上から急降下するみたいに。今までの行動が、今この時間が、ぜんぶ無駄に思えてくる。
そのときだった。わたしの左手に、ふわりと暖かいぬくもりが触れる。
——え?
驚いて隣を見ると、蒼がわたしの手を包み込むように握っていた。自信に満ちた顔で、まっすぐにわたしを見つめている。握る力が少しだけ増して、じんわりと伝わる体温。
大丈夫、咲葵なら大丈夫だ。蒼の手が、そんなふうに語りかけてくる気がした。
「咲葵はどうなんだよ。言いだしっぺだろ」
蒼は軽く笑いながら言う。でも、その声はどこかやさしかった。
——蒼の馬鹿……本当にかなわない。わたし、いつも助けられてばっかりだ。……ありがとう。
わたしは前を向き直り、樹くんの瞳をしっかりと見据えた。
「わたしはいるよ、好きな人」
樹くんの目が、ほんのわずかに見開かれる。意外だったのか、驚いたような顔をしていた。
その瞬間だった。
右側から、まばゆい赤い光が差し込む。観覧車のゴンドラがゆっくりと頂上へ達していたことに、わたしはそこでようやく気づいた。
眼下には、オレンジと赤に染まった街が広がっている。山と山の間から、燃えるような夕日が顔をのぞかせる。その光が、私たちを包み込むように染め上げていた。
——ちがう。わたしはただ夕日を見ているんじゃない。
わたしたちは、心を奪われていたんだ。
ことばにできない絶景の中で、わたしは思う。
——あきらめない。絶対にあきらめない。
この夕日のように、最後の最後まで全力で輝いてやるんだ。
そう決意して、もう一度樹くんの顔を見た、そのとき——。
「え?」
誰にも聞こえないくらいの、小さな声がわたしの口から漏れた。
樹くんの頬に、一筋の光の線が伝っていた。それが、涙だと気づくのに、一瞬の間が必要だった。樹くんは何事もなかったかのように手の甲でふっと拭い、すぐに視線をそらす。
——たぶん、わたししか気づいてない。
香織ちゃんや蒼の座る位置からは死角になっていたし、一瞬の出来事だったから。
樹くんの涙の理由を、わたしは知らない。でも、それを聞けるような気もしなかった。
わたしにだって、誰にも言えないことがあるんだから——。