36話 独白
その日も、香織ちゃんが病室に来てくれた。扉をノックする音がして、わたしが返事をすると、香織ちゃんが静かに入ってくる。どこか少し疲れてるようにも見えたけど、いつものように優しく笑ってた。
「ありがとー」
わたしはノートを渡して、ページをぱらぱらとめくりながら言った。
「いいの。それと、今日はこっちも撮るんでしょ?」
「うん」
香織ちゃんはカメラとパソコンの準備を始めて、わたしもその様子を見ながら、自分の準備を整える。いつも通り、淡々と進む作業。だけど、こうして誰かと一緒にいられる時間が、今のわたしにはすごく貴重で嬉しかった。
でも……。
「私たちの視点、どうしよう……」
ぽつりとこぼしたわたしの言葉に、香織ちゃんがパソコンから顔を上げて、こっちを見た。
「それなんだけど、咲葵は“わたし”ってひらがな、私は“私”で漢字に統一しない?」
「それいいと思う。それと、終わったぁぁああ!」
咲葵が大きな声を上げて、ノートをぱたんと閉じた。私は思わず微笑んだ。
「お疲れ様」
咲葵の隣でタイピングしていた私は、軽く声をかけた。
「今この瞬間までは書けたけど、この先どうしよう……」
不安そうにぽつりと言った咲葵に、私は静かに言葉を返す。
「……私が書くからいいよ。最後に書いてあるのも、私がちゃんと入れておくから」
それだけで、咲葵はふっと笑った。
「すごい」
本来ならもっと大げさに「す、すごいね!」なんて言いそうなのに、どこか控えめなその反応が少し寂しかった。咲葵の体調が、言葉の端々から滲み出ている気がして……私は、心の奥がひどく冷たくなった。
でも、泣きたいのは咲葵のほうだ。だから、私は泣かない。咲葵の前では、絶対に泣かないって決めた。
「はい。これで最後かもね」
咲葵が静かにそう言ったとき、タイミングを見計らったように扉がノックされた。
「はい」
開いた扉の向こうから、看護師の美幸さんが入ってくる。
「あ、こんばんはー」
「こんばんは」
挨拶を交わした後、美幸さんが私の存在に気づいて言う。
「あら、書き終えたの?」
「うん、読む?」
咲葵はノートを差し出した。美幸さんが受け取って笑った。
「ありがとう」
私はその場を離れるタイミングを探し、席を立った。
「じゃあ……トイレ行ってきます」
読み上げられる前に、逃げ出すように病室を出た。……誰かに読まれるのって、なんだか気まずい。それに、咲葵の“最後”に触れることが、怖かった。
しばらく時間を潰し、もういいだろうと病室に戻ろうとした。でも、扉の前で手を止める。中から、咲葵と美幸さんの会話が聞こえてきた。
「だけど……結局、中途半端で幻想を追いかけてただけだったから……失敗したんだよ。香織ちゃんが蒼への恋心を思い出させてくれたけど、それと同時に香織ちゃんが蒼のことを好きなのに気づいちゃったから……。もうすぐ死ぬ私なんかが、蒼には告白できないなって……」
咲葵の言葉が、私の胸を鋭く刺す。面談終了のアナウンスが流れるなか、私は病室の前から逃げるように離れた。
廊下の先、自動販売機の前で立ち止まる。込み上げてくる感情を、必死に抑えた。泣いたらだめだ。ここで泣いたら、咲葵に全部バレてしまう。
その時、背後から美幸さんの声がした。
「どうしたの?」
「……いえ、特に何も」
「気をつけて帰ってね」
そう言って、美幸さんは微笑みながら去っていった。
私はもう一度深呼吸をして、病室に戻った。扉を開けると、咲葵がいつものように笑って迎えてくれる。
「……じゃあ、また明日」
私は、咲葵からノートを受け取り、静かに微笑んだ。病室を出ると、涙はもう出なかった。
その夜、どうしても眠れなかった。電気を消した部屋の中で、俺はただベッドに仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げていた。暗闇の中でうっすらと浮かび上がる天井が、やけに遠く感じる。思考がずっと一点にとどまって、動かない。
——「うん……蒼……ありがとね」
咲葵のあの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。優しい声、あの笑顔。考えたくない。けれど、気づいてしまった。あの時の空気、言葉の重さ……感じてしまっていた。サッカーの試合のとき、嫌な予感が当たるのと同じ。こういう時、自分の直感はいつも外れない。……だからこそ、怖かった。
その時だった。家の廊下から、バタバタと誰かが駆ける足音が聞こえた。——両親の声。勢いよく俺の部屋の扉が開かれ、両親の顔が飛び込んでくる。
「蒼‼ 咲葵ちゃんが……!」
その言葉だけで、十分だった。……分かってた。わかってたはずだったのに、心臓が一瞬止まりそうになった。
——その夜。咲葵は容態が急変し、そのまま帰らぬ人となった。




