35話 部活の足枷
咲葵が入院してから、気づけばもう一週間が経っていた。相変わらず、彼女は学校には来ていない。病室で過ごす日々が続いている。
昼休み。ルイといつものように弁当を広げていたとき、校内放送で俺の名前が呼ばれた。聞き覚えのある、あの嫌な声に、俺は顔をしかめながらルイと視線を交わす。
「……すまん、無理だったみたいだ」
ルイが肩をすくめて言う。多分、ずっと俺の代わりに言い訳してくれてたんだろう。感謝してる、ほんとに。
「いや、今までありがとな。行ってくる」
職員室の扉をノックし、中へ入ると、待っていたのは案の定、サッカー部の顧問——寺田先生だった。
「やっと来たな、蒼。……さて、まずは言いたいことが山ほどある」
開口一番、予想通りの説教が始まった。数週間も無断で部活を休んでいるんだ。責められて当然かもしれない。でも、俺には理由があった。だけど——。
「お前はうちのエースだ。そんな奴が毎回休んでたら、周りがどう思うか……。聞いてるのか?」
顔を伏せて黙っている俺に、寺田先生はわざとらしいほどの悪意を込めて、言葉を投げつけてきた。
「場合によってはベンチ行きだな。それどころか、退部処分も視野に入れている」
俺は顔を上げ、先生の目を見た。その顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。ゾッとした。
「でも……理由があるんです。咲葵が——」
「くだらん。信用できん。証人を連れてこい」
咲葵を? 学校に来られないあの子を?無理に決まってる……そんなの、わかってるくせに。
「……わかりました」
もう言葉を交わす意味もない。俺は一礼して職員室を出た。
ルイが、こんなやつの相手を、ずっと俺の代わりにしてくれてたんだと思うと、胸が熱くなった。
放課後——教室に残っていた俺に、ルイが声をかけてきた。
「おい、なんでまだいんだよ。病院、行かなくていいのか? そっちは任せとけよ」
優しいやつだ、本当に。
「……今まで、ありがとう」
そう言った瞬間、遠くから足音が近づいてきた。寺田先生だった。俺の顔を見るなり、あの嫌な笑みを浮かべる。
「お、来たじゃないか。やっと分かったようだな」
俺は無言で、一枚の書類を差し出した。
「……なんだこれは」
目を細めながら紙を読み進める寺田先生。やがて、その表情が固まる。
「……は?」
「はい。俺、今日特別進学コースに申請して、無事に受理されました。これからはそっちに専念します。なので、サッカー部は退部させていただきます」
「おい……ちょっと待て!この学校は部活必須だ! 顧問の許可なしで他の活動なんか——」
「その点も確認済みです。特別進学コースは、部活免除の代わりに膨大な課題と進学指導がつく。だから、俺にはもう部活は必要ありません」
あの一言がきっかけだった。
「お前の言葉は信用できん」
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて切れた。なら、もう信用なんていらない。俺が本気でやりたいことを選ぶ。
校門の前に出たとき、背後から声が聞こえた。
「蒼!」
振り返ると、ルイが走ってきていた。息を切らしながら聞いてくる。
「……特進コースって、マジかよ。お前、勉強嫌いじゃなかったか?」
「ああ。俺には難しいってわかってる。でも、やるんだ」
「……なんでそこまでして」
俺はルイの目をまっすぐ見て言った。
「医者になる。咲葵のそばにいたいんだ。どんな形でも」
ルイはしばらく何も言わなかった。でも——ふっと笑って、拳を軽く突き出した。
「……蒼、頑張れよ」
「ありがとう」
背を向け、校門を越えて走り出す。向かう先は、いつも通りの病院。
でも、俺の中で今日からすべてが変わる。
これはもう、同情でも義務でもない。
本気の「未来」の話なんだ。
数日前から、香織と顔を合わせることがなくなった。
わざと避けられてるような気がして、俺はそれ以上踏み込むのをやめた。香織に何があったのかはわからない。でも、それ以上に今の俺にとって、一番大事なことがある。
——咲葵のことだ。
いつものように放課後、俺は病院に向かっていた。何度目かの入院。たぶん、今回も長くなる——そんな予感がしていた。だけど、信じたかった。いや、信じると決めてた。中学生のときも、咲葵は乗り越えた。誰よりも、あいつは強い。だから今度も大丈夫。俺が信じなくて、誰が信じるんだよ。
病室の前に立ち、深く息を吐く。明るく、元気に、いつも通り——それが咲葵を安心させるための、俺なりのやり方だ。心の中で何度かシミュレーションしてから、ノックする。
「はい」
咲葵の返事が聞こえて、俺はスライドドアを開けた。——その瞬間、一瞬だけ息が止まる。
ベッドの上で、咲葵がいつものように笑っていた。けど、その頭にはニット帽。何が起きたのか、すぐに理解した。言葉にする必要もなかった。
髪が……抜けたんだ。
心がざわつく。でも、顔には出さない。——気にするな、気づかないふりをしろ。いつも通りに。
「よっ、お疲れ」
俺はなるべく自然に、笑って声をかける。
「蒼。毎日ありがとうね」
「早く戻ってきてくれないとな。……正直、暇すぎるんだよ、学校」
他愛もない学校の話を、なるべく明るく話した。バカみたいな話、くだらない出来事。咲葵が笑ってくれたから、それでいいと思った。——でも、ずっと胸の奥がチクチクと痛んでいた。咲葵の笑顔が、少しだけ細くなった輪郭が、妙に遠く感じた。
あっという間に時間が過ぎて、俺は立ち上がる。
「……そろそろだな」
「ごめんね、毎回この時間までにしちゃって」
「気にすんなって。……咲葵にもやることあるだろ」
バッグを肩にかけながら、振り返る。でも咲葵の声が、ふと、俺を引き留めた。
「……蒼、ありがとね」
「ん? なんだよ急に」
少しだけ、咲葵の声が違って聞こえた。静かで、やわらかくて……でもどこか儚くて。まるで、消えそうな風の音みたいに。
「……なんか、言いたくなったの」
その言葉が、やけに胸に残る。俺は、なんて答えたらいいかわからなくなって、苦笑いを浮かべた。
——やめろよ、そんな顔すんなよ。俺に、そんな目を向けるなよ。
「……そーかよ。…………また、明日な!」
振り返らず、明るい声を無理に出して、背中を向ける。泣きそうになる自分の心に蓋をして、精一杯、いつもの俺を演じた。
だって、信じてるから。咲葵は、大丈夫だって。




