34話 入院
咲葵が倒れて入院してから、ちょうど一週間が過ぎた。学校では彼女の姿はまだ見えず、変わらず病院での生活が続いている。
「悪い、俺今日も部活休むわ」
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室で準備していたルイに声をかけた。できるだけ早く病院に行きたかった。あの子の顔を、一秒でも長く見ていたかった。
「おい、蒼」
急いでカバンを掴んだ俺の前に、ルイが立ちはだかる。このタイミングで呼び止めるってことは……わかってる、どうせ言いたいことはあれだろ。
「蒼……本当にそれでいいのかよ」
「……なんだよ、前にも言ったろ。今は急いでんだって」
避けようと一歩踏み出すと、ルイが俺の腕を掴んで止めた。その手に、いつもより強い力がこもってた。
「一回、落ち着け。蒼は、まだ好きなんだろ。なら、それをちゃんと伝えろよ。……もし——」
「ルイ‼」
反射的に、声が出た。その先は聞きたくなかった。聞いた瞬間、現実になりそうで怖かった。
どう返せばいいのかわからなくて、ちぐはぐな苦笑いを浮かべながら、静かに言葉を落とす。
「ありがとな……じゃあ、また」
ルイが黙って手を放してくれたのを確認して、俺はそのまま教室を飛び出した。
本当は、ルイの言いたいことなんて痛いほどわかってる。「もし、咲葵がいなくなった時、想いを伝えてなかったら、一生後悔するぞ」
それを伝えたいだけなんだろ。俺だって……そんなのわかってる。でも、咲葵がいなくなるなんて、そんな可能性、信じたくなかった。
病院の自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り、いつもの病室の前で深呼吸をひとつ。扉の前に立つだけで、胸が締めつけられる。でも——。
ノックをして、ゆっくりとドアを開ける。
「おつかれえー!」
ベッドの上から、咲葵の明るい声が飛んできた。まるで何事もなかったかのように、笑ってる。
「ああ、お疲れ」
俺も笑って返したけど、正直なところ……少しやつれてきてるように見えた。でもそれを認めたくなくて、きっと気のせいだと、心の中で繰り返した。
ベッドのそばに座って、今日あったこと、どうでもいい話、ちょっとした笑えるネタを並べる。笑ってる咲葵を見ると、それだけで少し救われた気がした。
そして、時間はあっという間に過ぎていった。そろそろ、俺と咲葵だけの時間、いわゆる「面談」の時間になる。
もともと、俺と香織、ふたりで一緒に面談をしていたけど、咲葵の希望で、今は別々になった。香織と話す時間、俺と話す時間。それぞれ別にしてくれと、咲葵が言ったのだ。……きっと、それぞれに違う「顔」を見せたいんだと思う。
「そろそろだな」
俺が立ち上がると、咲葵が微笑みながら、小さな声で言った。
「ほんと毎回ありがとう。……ごめんね、わがまま言って」
「なに言ってんだよ、そんなの全然気にしてねーって」
「……部活も、ずっと休んでるでしょ」
「だから気にすんなって。お前が元気ならそれでいい」
「……うん」
「じゃあな、また明日!」
「うん、またね!」
ベッドの上から手を振る咲葵を見て、俺は振り返らずに病室を出た。心のどこかで、願ってた。
——明日も、こうして会えますように。
「本当に……いいの?」
いつもの病室で、香織ちゃんが心配そうにわたしを見つめて聞いてきた。その目を見てると、少し胸がきゅっとなるけれど——わたしは笑ってうなずいた。
「うん、大丈夫」
わたしは、自分から言ったんだ。蒼との面談時間を少し短くして、香織ちゃんとゆっくり話す時間をもらったのは。それに、わたしのことをあまり蒼と話さないようにしてって、お願いしたのも。
「そう……で、例の進捗はどうなの」
香織ちゃんが声を低くして言うから、ちょっと笑ってしまった。わたしはベッドの横に置いていたノートを手に取って、香織ちゃんに差し出す。
「もうね、ほんっと大変なの。何を書いたらいいか悩むし、肩もこるし〜」
香織ちゃんは無言でノートを受け取ると、ページをめくって読み始めた。病室の空気が静かになって、わたしはそっと香織ちゃんの横顔を見つめる。
「……少女漫画みたい」
少しだけ笑った声で香織ちゃんが言った。
「だって〜、わたし、少女漫画しか読んでないもん」
「……いいよ、咲葵らしい。あとは、私が直しとくから」
「ほんとに⁉ やったー、ありがとっ」
香織ちゃんはわたしのノートを大事そうにカバンへしまった。わたしは病室の窓の外、うっすらとオレンジ色に染まりかけた空をぼんやり見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……間に合うかな」
「……何言ってるの。咲葵は、書き終わるまで——」
香織ちゃんの声が少し震えていた。視線を戻すと、彼女が制服の袖をぎゅっと握っているのが見えた。
目が合った。香織ちゃんは少しだけ驚いたような顔をして、それから、なにも言わずにふっと目をそらした。
——大丈夫だよ、香織ちゃん。ありがとう。ほんとに、ありがとう。
わたしは言葉にはしなかったけれど、できる限りのやさしさで微笑みかけた。香織ちゃんは、ゆっくり立ち上がると、小さな声で言った。
「……じゃあ、今日はこれで。また明日来るから、待ってて」
「うん、待ってる」
病室のドアが開いて、香織ちゃんが出て行くと、すぐに看護師の美幸ちゃんが入ってきた。
「あら、今日は早かったのね」
「うん、ちょっとね。大事な仕事があって。……ちゃんと、考えなきゃなって思って」
「仕事? ふふ、なにそれ」
笑いながら、体温計や血圧計を取り出す美幸ちゃん。わたしはちょっと得意げに言った。
「私の人生を残すお仕事、だよ」
「へえ、じゃあそのお仕事、私にも見せてよ」
「もちろん!」
そう言い合って、軽く笑い合って、それからまた美幸ちゃんは部屋を出ていった。わたしは前髪をそっとかきあげて、ふと手元に視線を落とした。……手に、髪の毛が絡まっていた。いつもより、たくさん。もう一度、指でそっとすくってみる。やっぱり、たくさん抜けてる。
——ああ、いよいよなんだな。
どこかで覚悟していたはずなのに、現実がこうして形になって現れると……やっぱり、苦しかった。何も考えたくないのに、考えずにはいられなかった。
「……っ……うぅ……」
こらえきれなくなって、ぽたぽたと涙が落ちる。声にならない嗚咽が喉の奥から溢れて、わたしはただ、シーツに顔をうずめた。
何も終わってないのに、何かが終わっていくような気がして。
何も失っていないのに、何かがどこかへ流れていく気がして。
それでも。
わたしはまだ、書き終えていない。
わたしの「伝えたい気持ち」は、まだ、ここにあるんだ。




