31話 隠していたの気持ち
「ずっと……ずっと、羨ましかった」
その言葉を、ようやく口にしたとき、咲葵の目がわずかに揺れた。
蒼と笑い合う咲葵を、何度も見てきた。私だって、本当はもっと蒼と話したかった。もっと近づきたかった。けど、それが叶うことはなかった。蒼が笑っていたのは、いつも、咲葵といる時だったから。
「わたしだって、蒼ともっと話したかったし、もっと笑い合いたかった。でも、蒼が楽しそうにしてるのは、いつも咲葵といる時だった」
咲葵は、何も言わなかった。ただ黙って私を見つめていた。私は震える指先を押さえるように、手をぎゅっと握る。
「だから、全部諦めたの。咲葵の味方でいようって。応援しようって。そうすれば、きっと……少しは気持ちが消えると思った」
——でもね、咲葵。もう、限界なの。
「……もう、無理みたい」
涙が溢れるのが自分でもわかった。でも、止められなかった。
「わたし、蒼が好きなの」
波音が静かに響く。冬の海風が頬をなぞって、涙をすっとさらっていく。
「ずっと……ずっと、好きだったの」
苦しかった。親友の好きな人を、好きになってしまった自分が、なにより嫌だった。でも、それでも、心はごまかせなかった。
「ごめんね……もうこの関係、終わっちゃったね。私は咲葵みたいに優しくないし、まっすぐでもない。とっても、自分勝手な女の子だから」
そんな私に、咲葵はそれでも微笑もうとした。彼女のその声が、どうしようもなく優しくて、胸に痛かった。
「そんなことないよ。香織ちゃんは素敵だよ。……追いかけなよ」
「できないよ」
「諦めちゃだめだよ。香織ちゃんは、とっても、とってもすてきだよ」
——やめて。そんなふうに言わないで。そんなふうに許さないで。
「咲葵!なんで、そこまでして……自分の心にウソをつくの!」
「嘘なんかついてないよ」
「いい加減にしてよ!」
「……っ!香織ちゃんが蒼を好きになったんでしょ!私は応援するよ、何も困らないじゃん!!」
「ちゃんと向き合ってないのは咲葵の方でしょ!」
「なんで私が悪くなるの!香織ちゃんが蒼を追いかけたら済む話でしょ!私関係ないじゃん!勝手にしてよ!」
「あるから……言ってるの」
「じゃあ、何があるっていうのよ!」
……黙った。言葉が、喉にひっかかって出てこなかった。でも、言わなきゃ。ここで逃げたら、もう、戻れない。
「ある!」
声が、海風を裂いた。自分の声とは思えないほど大きな声だった。咲葵が、びくっと肩を揺らす。
そして私は、言った。
「蒼が……あなたのことを好きだから!」
——これが、私の答え。誰にも言ってはいけないはずだった。でも、咲葵が前に進むには、きっと必要なことだった。
咲葵の目から色が消える。呆然としたまま、何も言わず、その場から走り出した。私はただ、それを見送るしかなかった。どんな言葉も、あの背中には届かない気がした。
ああ、どうしてこんなにも苦しいんだろう。伝えたかっただけなのに。守りたかっただけなのに。
冷たい海風が、ただ静かに吹き抜けていた。浜辺に残された私は、咲葵の姿が消えるまで、その場を動くことができなかった。
咲葵の背中が、遠ざかっていく。砂を蹴る足音だけが、波音の合間に響いていた。
私はその場に立ち尽くしていた。泣きそうな咲葵を見送ることしかできなかった。胸が張り裂けそうだった。——これでよかったんだよ、私。自分に何度言い聞かせても、足元が揺れるような不安が消えない。風はどこまでも冷たくて、もう夏なんてとっくに終わったみたいだった。
砂浜に一歩、また一歩と膝をつき、私はそのまま崩れるように倒れ込んだ。波の音が近づいたり、遠ざかったりするなか、気づけば頬が濡れていた。
「……何やってるの、ほんと……バカ」
誰に言っているのか、もう自分でもわからなかった。ただ、胸の奥が痛くて、心の奥底に押し込めていた感情が、形を持ってあふれ出した。
「わかってた……わかってたはずなのに……覚悟してたはずだったのに……」
波風に混じって、自分の震える声が耳に残った。
「どうして……そんなに、強いの……蒼……」
わたしは誰よりも近くにいて、誰よりも気づいていたはずなのに。それでも、手を伸ばすことはできなかった。ただ、諦めるしかないと、自分に言い聞かせてきたのに。
「いやだよ……あきらめ、たく……ない」
唇が震える。言葉にならない嗚咽が喉からこぼれる。膝を抱えて、私は広い砂浜の上で一人、声を上げて泣き続けた。
波は何も知らないふりで、ただ寄せては返すだけだった。
あっという間に、球技大会当日がやってきた。香織ちゃんはいつも通り、何事もなかったみたいに接してくれるけど、やっぱりどこか、ほんの少しだけ気まずい。
うちの学校の球技大会では、バスケと卓球のどちらかに出ることになっていて、卓球部はバスケに、バスケ部は卓球にまわるっていうルールがある。
ちなみに、私と香織ちゃん、それに樹くんも卓球組。今日は朝からなんだか落ち着かなくて、みんなが試合に出たり応援に行ったりしてる中、私は教室に残って席に座ってた。気を紛らわせるために、鞄の中から漫画を取り出してページをめくる。
そのときだった。
「おい、咲葵。どうした?」
隣に蒼が座り込む。その声だけで、ほんの少し緊張がやわらいだ気がした。
「ううん、大丈夫だよ」
とっさに笑って答えたけど、すぐに蒼に見透かされる。
「いや、明らかに変だろ」
その一言に、私は一度深呼吸してから、正直に打ち明けた。
「今日ね、告白するの」
驚いたように目を見開いた蒼が、すぐに優しい表情で微笑んだ。
「お、ついにか。……応援してるぞ」
そう言って、私の頭をくしゃっと撫でてから立ち上がる。
「じゃあ、ちょっと試合見てくるわ」
手を振る蒼に「ありがとう」って返した声が、少し震えていたのは気のせいじゃない。
そのあと、私の試合が回ってきて……あっという間に、初戦敗退。
——緊張、してたから……うん、きっとそのせい。
教室に戻ると、香織ちゃんが一人で本を読んでいた。いつもの姿。いつもの空気。でも、今の私は……いつも通りじゃない。
黒板には、試合結果のトーナメント表が貼り出されていて、クラスメイトたちが群がっていた。私も混ざって見に行くと、樹くんも香織ちゃんも勝ち上がってる。
——すごい、二人とも。
樹くんの試合はトーナメントの後半。私は一度席に戻って漫画の続きを読んで、樹くんの試合が始まる時間に合わせて体育館へ向かった。
樹くんの動きはやっぱりキレがあって、格好良かった。でも、今回の相手は明らかに経験者で、三セットすべて取られてしまった。
——経験者とかずるい……!
試合後の樹くんに声をかけると、少し照れたように笑っていた。
「見てたんだ。恥ずかしいとこ、見られたな」
「全然そんなことないよ!すごく粘ってたし、かっこよかった」
「ありがと、じゃあ、またな」
手を振って去っていく樹くんの背中を、私はじっと見送った。
胸がふわふわして、少し息苦しくなる。そっと自分の胸に手を当てる。けど……やっぱり、気持ちは落ち着かなかった。
そのとき、体育館の隅で誰かが話しているのが耳に入る。
「バスケ、次決勝だぜ」
そんな声が耳に入った瞬間、わたしの心が跳ねた。
——そうだ、蒼……。
教室を飛び出して、わたしは体育館へと急いだ。
すでに試合は始まっていて、観客席には他クラスの生徒たちもぎゅうぎゅうに詰めかけている。どうにか隙間を見つけて場所を確保し、コートを見渡す。
赤いゼッケンの“九番”——それが蒼だった。ひときわ速く動くその背中。ドリブル、パス、シュート……。どれもがきびきびしていて、眩しいくらいだった。
——かっこいい……。
息をのむようにその姿を見つめる。思い返せば、蒼が本気でスポーツしてるところなんて、ちゃんと見たの、これが初めてかもしれない。去年の球技大会、蒼はたしか……卓球だったな。
「すごい……」
無意識に漏れた声に、後ろから静かな声が重なる。
「かっこいいよね」
振り返ると、香織ちゃんが立っていた。
——香織ちゃん……。
「今日、告白するんだって?」
「……うん」
香織ちゃんは、まっすぐな目でわたしを見つめてくる。その瞳が、少しだけ柔らかく揺れた。
「わたし、好きな人がいるの」
「……」
それが誰かなんて、聞かなくても分かってしまう気がした。
「その人がね、"好きな人が幸せならそれでいい"って言ったの。最初は意味がわからなかった。でも、あとから気づいちゃったんだ」
「どーいうこと?」
問いかけると、香織ちゃんは微笑んだ。とても穏やかで、まるで春の風みたいに優しい笑顔だった。
「関係が壊れるのが怖くて、本当の気持ちにフタをしないで。咲葵の“好き”は、誰に向いてるの? 初恋は? 一番近くで、咲葵のことをちゃんと見てくれる人は、誰?」
香織ちゃんの言葉が、心の奥に静かに染み込んでくる。
「……」
何も言えずにいるわたしの視線の先、蒼がコートを駆け抜けている。ボールを受け取り、パスを出し、仲間のシュートが決まると、手をあげて笑っていた。
——その笑顔、何度も見てきた。どんなときも、わたしを気遣ってくれた蒼の笑顔。
「咲葵の全部を知っても、愛してくれる人は……ちゃんと近くにいるよ」
その言葉が胸に落ちた瞬間、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。
ピィーーー……。
割れんばかりの歓声。コートへ駆け寄るクラスメイトたち。その輪の中心にいる蒼を、わたしはただ見つめた。
——そばにいてくれた。何度も笑わせてくれた。苦しいときも、嬉しいときも、ずっとわたしのそばにいた人。忘れようとしてた。気づかないふりをしてた。でも、もう、ダメだった。
「……蒼。好き……わたし……蒼が……好き」
かすれるような声で、だけど確かに、わたしは口にしていた。
いてもたってもいられなくなって、わたしはその場から逃げ出すように体育館を飛び出した。どこに向かうかなんて決めてなかった。ただ、どうしようもないこの気持ちが、胸をいっぱいにしていた。
——お願い、止まって……心臓。
ドキドキして、呼吸が苦しくて、涙が出そうで。どうしてこんなに苦しいの?なんで、こんなにもあなたが好きなの……。
初恋だった。本気で恋をしてしまった。ずっと怖かった。拒絶されるのが、関係が壊れるのが。だから、ずっと目を背けてきた。
でも、もう隠せなかった。
わたしは、蒼が好き。大好き。たったそれだけの気持ちに、こんなにも胸が締めつけられている。
ねぇ、お願い。止まって。心臓止まって。なんでこんなに焦るの。なんでこんなにドキドキするの。なんで素直に声が出てこないの。なんで声の震えが止まらないの。なんでこんなに顔が赤くなるの。なんで なんで なんで なんで。こんな思いをしてまでわたしは……あなたに恋してしまったの。
気がつくと、わたしは教室に戻っていた。席に座り、机に肘をついて、そっと額に手を当てる。
——あれだけ走ったのに、息ひとつ整っていない。
それよりも、胸の奥がふわふわして、うまく地に足がついていないような感覚が続いていた。
少しして、ぞろぞろと体育館からみんなが戻ってくる。笑い声、足音、普段通りの空気に少しだけ安心していると、蒼が真っ直ぐにこちらに近づいてきた。
「したのか?」
蒼の問いかけに、心臓が一度きゅっと跳ねた。
「い、いや、ま、まだ……」
「大丈夫か?」
すっと顔を近づけてくる蒼に、なぜか息が苦しくなって、わたしは思わず席を立った。
「だ、大丈夫だから!」
反射的に声が少し大きくなったせいで、蒼が少し驚いたようにまばたきをして、それから、いつものように優しい笑顔を向けてくれた。
「……頑張れ!」
「う、うん……!」
それ以上、何かを言われたら泣いてしまいそうだったから、わたしは勢いよく教室を出た。行き先は自然と決まっていて、気づけばトイレの個室じゃなく、洗面台の前に立っていた。
鏡の中のわたしは、目が少し赤くなっていて、額に汗がにじんでいる。それでも、わたしは自分に言い聞かせるように、笑顔を作った。
「よし……大丈夫、大丈夫。いける。ちゃんと伝えなきゃ……!」
そう言った瞬間、視界がふっと揺れた。
何かが崩れるように、足元がふらついて、思わず壁に手をつこうとするけど、間に合わなかった。
——え……?
次の瞬間、激しい衝撃が頭に走った。洗面台の縁にこめかみを強く打ちつけて、そのまま床に崩れ落ちた。
タイルの冷たさを感じる間もなく、意識が薄れていく。喉が震えても、声は出なかった。手も動かなかった。目の前が真っ暗になっていく。
トイレの外からはまだ、球技大会の歓声が遠く聞こえている。でもここは静かすぎて、まるで世界にわたししかいないみたいだった。
誰にも気づかれないまま、血がじわじわと白いタイルを染めていった。小さな網目模様に沿って、赤が静かに広がっていく。
——わたし、まだ……伝えてないのに。
意識の奥で、そんな声が小さく、小さく、こぼれた気がした。




