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気づいて欲しかった  作者: 咲葵
27/38

27話 届かない背中

「ただいまって、結構食べてんじゃん」


 蒼がベンチに戻ってきて、呆れたような、でもどこか楽しげな声でそう言った。


「遅かったから」


 半分ほど残った焼きそばを膝にのせたまま、私は素っ気なく返す。けれど、内心では、彼の姿が戻ってきたことに少しだけ安心していた。


「飲むだろ?」


 ペットボトルを差し出してくる蒼。


「ありがとう」


 素直に受け取ってキャップに手をかけると、すでに緩められていることに気づいた。こういうところ、昔から変わらない。彼の優しさは、声よりも先に手が動く。

 一口だけ喉を潤してから、焼きそばを蒼に差し出した。


「もういいのか?」

「うん」


 蒼は残りを平らげると、スマホを取り出し、何気なくスクロールを始めた。私は、その横顔をちらりと見てから、問いかけた。


「蒼は好きな人いるんでしょ。だったら、その人と来ればよかったのに」


 言い終えた瞬間、胸の奥がぎゅっと音を立てた。言わずにいれば楽だったのに。けれど、もう何も隠したくなかった。

 蒼は夜空を仰ぎ、少しの間をおいて静かに答えた。


「前にも言ったけど……叶わないんだよ」

「相手には、もう恋人がいるってこと?」


 私は知っていた。蒼が誰を想っているのか、ずっと前から。だけど、それでも――確かめたかった。


「いや……でも、あの人にはあの人の幸せがある。俺じゃない誰かと一緒にいる方が、きっといいんだ」

「でも、それが……諦める理由になる?」


 まっすぐ問いかけた言葉は、ほとんど願いに近かった。どうか、私を見て。私の言葉に、少しでも心が揺れて。


「好きな人には、一番幸せになってほしいんだ。俺がその相手じゃなかったとしても……それでいいんだ」


 そう言って笑う蒼の顔が、あまりにも優しすぎて、残酷だった。

 その時だった。

 空に音が響き、光が尾を引いて夜を裂いた。一発目の花火。火薬の香りと熱が、少し遅れて風に乗って届いてくる。


「なんだかんだ、二人きりで見るのって初めてかもな」

「……そうね」


 私たちは、花火に気を取られるふりをして、言葉の続きをごまかした。

 次々と夜空に咲いては消える光の花。でも、私の心には、何も咲かなかった。

 ポケットの中でスマホが震える。

 咲葵からだった。『変な人たちに絡まれちゃった……怖い』すぐに、もう一件――樹くんからのメッセージ。『連絡した通りもう少ししたら僕は帰るよ。あとは、香織に任せるから』

 私の目が画面に釘付けになっているのを見て、蒼もスマホを手に取る。

 その瞬間、彼は立ち上がり、まるで呼吸をする間もなく、あたりを見回し始めた。


「蒼、待って」


 呼びかけても彼の足は止まらない。人ごみの中に吸い込まれていく背中を、私はただ追いかけるしかなかった。どこへ向かっているのか、見えているのかさえわからない。それでも、蒼は迷いなく走っていく。咲葵のもとへ。……私は、もう知っていた。あの背中が私のために振り向くことはない。

 追いかけながら、心が少しずつ剥がれていく。たった今、彼が向かっているのは、私の好きな人が、私じゃない誰かを想って走る姿。それを認めるのは、痛いほどに苦しかった。

 ――ねえ、蒼。どうして、私は、貴方を好きになってしまったんだろう。

 蒼は人混みをかき分けて一直線に走った。その背を追いかけながら、私は息を呑んでいた。咲葵のために動く蒼の後ろ姿は、どこか眩しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 人通りから外れた通りの先、街路樹の根のあたりで、蒼は立ち止まった。私も遅れてその場にたどり着く。そこで目にしたのは、三人の男に囲まれる咲葵と、その前に立ちはだかる蒼の姿だった。


「こっちは楽しく話してたんだよ」


 男たちの荒い声に、咲葵は声を出せずに立ち尽くしていた。蒼は言葉少なに、咲葵の腕をとり、強引にその場を離れようとする。

 けれど、簡単にはいかなかった。男の一人が咲葵の腕を掴み、もう一人が拳を振りかけた。蒼はその拳をとっさに止め、低く静かな声で言った。


「やめろ」


 怒鳴ったわけではなかった。それでも、その声音には凍るような強さがあった。私はスマホを取り出し、男たちに見せるようにして、電話をかけるふりをした。すると、男たちはお互いに視線を交わし、静かに引いていった。

 咲葵は蒼の腕にそっとしがみつきながら、私のもとに戻ってくる。小さく震えるその背中に、私はすぐに声をかけた。


「ごめん、大丈夫だった?」

「うん……ありがとう、香織ちゃん」


 蒼も私の顔を見て、短く礼を言ったあと、咲葵を気づかうようにやさしく笑った。そしていつも通りの調子で咲葵に声をかけ、咲葵もまた笑い返す。もう、いつも通りの二人だった。

 その後ろ姿を見ながら、私は少しだけ歩幅を落とした。二人の会話が前で弾んでいる。まるで、私がいなかった頃から、あの関係はずっとそこにあったように。

 思い返せば、咲葵が樹に恋をしたと言ったとき、私は胸の奥で何かがほどけた気がした。けれど、それはほんの一時の錯覚だった。蒼の優しさを目の当たりにするたびに、私はまた揺れてしまう。自分の中に確かにある、決して消えない想い。それを、もう見て見ぬふりはできなかった。

 蒼に振り返ってほしくて、咲葵の恋を応援しているふりをした。寂しさを埋めるように、彼の隣に立ちたかった。でもそれは、誰かの心を傷つける恋だった。咲葵の無防備な笑顔が、まぶしくて、痛い。

 私はようやくわかった。蒼があの夜に言っていた言葉――「好きな人には、一番幸せになってほしいんだ」

 それは嘘じゃなかった。自分の気持ちよりも、相手の幸せを願うこと。それが、本当の「好き」なんだと。その言葉の重さを、ようやく、私の胸の奥が受け止めた気がした。

 私はまだ蒼が好きだ。きっとこの先も、そう簡単に気持ちは変わらない。でも、今はもう――この想いを押しつけるのは、やめにしようと思った。

 二人の後ろ姿が、夏の夜に静かに揺れていた。




 夏休みは、思っていたよりも早く終わった。いつもの制服に袖を通し、教室に戻ると、季節の移ろいよりも先に、文化祭の準備が始まっていた。

 今年の私たちのクラスはお化け屋敷。使う教室は二つ、黒い布を窓や壁に垂らして、少しでも光を遮ろうと試行錯誤していた。私は他の女子たちと段ボールで窓をふさいでいく。想像よりもずっと骨の折れる作業だった。男子たちは机を積み上げて、その上から黒布を被せ、即席の壁をつくる。毎日、授業の終わりとともに始まる作業は、疲れるけれど、少しだけ心が浮き立った。

 そして文化祭前日。放課後の体育館では、運動部の生徒たちがステージの設営に集まっていた。蒼は外の飾りつけ、私はバスケ部のマネージャーとして、樹と一緒に体育館内の装飾を任されていた。

 照明の確認、紅白の幕、ステージ下の装花。目まぐるしく人が動く中で、私は淡々と作業をこなしていた。少しの沈黙も、忙しさのなかでは不自然ではなかった。

 やがて全ての作業が終わり、樹と二人、並んで帰るいつもの帰り道。蝉の声はすっかり鳴りを潜め、夏の終わりを感じさせる風が吹いていた。


「樹……今さらだけど、あの時のこと……ごめん」


 そう口に出した瞬間、彼が何を指しているのかすぐに察してくれたことがわかった。言葉少なに、けれど確かにうなずいてくれる。


「もう……咲葵の恋を手伝うのはやめる」


 夕暮れに染まる道で、私は前を向いたまま、ぽつりと告げた。樹は驚いたように一瞬私を見つめたけれど、何も言わなかった。


「あなたが恋をしないのは自由。でも、亡くなった彼女のために恋を封じてるのだとしたら……それは、ただの自己満足よ」


 返ってくるはずのない声を期待して、私は沈黙を受け入れた。言葉は降ってこなかったけれど、風がそっと頬をなでる。それだけで充分だった。


「……だから、私、自分の気持ちにちゃんと向き合うって決めたの。好きな人のために、頑張るって」


 沈黙のなか、樹は歩き続けていた。視線は遠く、でもその横顔に、ほんの少しだけ迷いが解けたような影が見えた気がした。


「あなたも、ちゃんと向き合って。過去にも、自分にも」


 強くそう言ったあと、私はふっと笑った。


「大丈夫。あなたなら、ちゃんと乗り越えられるよ」


 そのあとは、二人とも何も言わなかった。けれど、それでよかった。夏の終わりの風が、黙って私たちの背中を押してくれているようだった。歩く足取りは、どこまでも軽く、空も心も少しだけ澄んでいた。

 夏休みは、思っていたよりも早く終わった。いつもの制服に袖を通し、教室に戻ると、季節の移ろいよりも先に、文化祭の準備が始まっていた。

 今年の私たちのクラスはお化け屋敷。使う教室は二つ、黒い布を窓や壁に垂らして、少しでも光を遮ろうと試行錯誤していた。私は他の女子たちと段ボールで窓をふさいでいく。想像よりもずっと骨の折れる作業だった。男子たちは机を積み上げて、その上から黒布を被せ、即席の壁をつくる。毎日、授業の終わりとともに始まる作業は、疲れるけれど、少しだけ心が浮き立った。

 そして文化祭前日。放課後の体育館では、運動部の生徒たちがステージの設営に集まっていた。蒼は外の飾りつけ、私はバスケ部のマネージャーとして、樹と一緒に体育館内の装飾を任されていた。

 照明の確認、紅白の幕、ステージ下の装花。目まぐるしく人が動く中で、私は淡々と作業をこなしていた。少しの沈黙も、忙しさのなかでは不自然ではなかった。

 やがて全ての作業が終わり、樹と二人、並んで帰るいつもの帰り道。蝉の声はすっかり鳴りを潜め、夏の終わりを感じさせる風が吹いていた。


「樹……今さらだけど、あの時のこと……ごめん」


 そう口に出した瞬間、彼が何を指しているのかすぐに察してくれたことがわかった。言葉少なに、けれど確かにうなずいてくれる。


「もう……咲葵の恋を手伝うのはやめる」


 夕暮れに染まる道で、私は前を向いたまま、ぽつりと告げた。樹は驚いたように一瞬私を見つめたけれど、何も言わなかった。


「あなたが恋をしないのは自由。でも、亡くなった彼女のために恋を封じてるのだとしたら……それは、ただの自己満足よ」


 返ってくるはずのない声を期待して、私は沈黙を受け入れた。言葉は降ってこなかったけれど、風がそっと頬をなでる。それだけで充分だった。


「……だから、私、自分の気持ちにちゃんと向き合うって決めたの。好きな人のために、頑張るって」


 沈黙のなか、樹は歩き続けていた。視線は遠く、でもその横顔に、ほんの少しだけ迷いが解けたような影が見えた気がした。


「あなたも、ちゃんと向き合って。過去にも、自分にも」


 強くそう言ったあと、私はふっと笑った。


「大丈夫。あなたなら、ちゃんと乗り越えられるよ」


 そのあとは、二人とも何も言わなかった。けれど、それでよかった。夏の終わりの風が、黙って私たちの背中を押してくれているようだった。歩く足取りは、どこまでも軽く、空も心も少しだけ澄んでいた。

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