26話 漏れ出る愛
祭りのざわめきが、耳に心地よかった。提灯の灯りが、波のように風に揺れている。静かな水面に浮かぶ月のように、橙色の光が夜の道をそっと照らしていた。
人波に紛れるように歩いてくるサッカー部のメンバー。その中心に、樹の姿があった。すらりとした背中、周囲より少しだけ高いその身長が、否応なく視線を集める。
「やっぱり目立つな……」
誰に言うでもなく、つぶやいた言葉が喉の奥に引っかかった。
正面を向き直ると、咲葵と蒼がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。ふたりで笑い合いながら。咲葵の笑顔がまぶしくて、ちくりと胸が疼いた。
私はもう、蒼への想いを隠すことをやめた。自分の気持ちに嘘を付くのをやめた。でも――手放すことも、できないままだった。
今回、サッカー部の“イベント”という名目で、樹を夏祭りに引っ張り出したのは私。全部、咲葵のため。……そう言い聞かせた。だけど本当は、蒼と二人で抜け出すための、私自身の口実だったのかもしれない。
咲葵の姿を確認する。背筋を伸ばし、緊張した様子で私を待っていた。浴衣姿が妙に似合っていて、あの子の内にある素直さや真っすぐさがそのまま形になったようだった。
「咲葵」
「香織ちゃん!」
咲葵がぱっと表情を明るくする。その笑顔に、小さなざわめきが心の中に波紋を落とした。
でも、私は微笑み返した。今、咲葵の恋を後押しすることが、私にできる唯一の“やさしさ”だと信じていたから。
サッカー部のメンバーが近づいてくる。自然と私たちの輪に加わり、場がにぎやかになっていった。
「おー、咲葵さん、浴衣すごい似合ってるじゃん!」
「ほんと可愛いっすよ~」
いつもの軽口に、咲葵が恥ずかしそうに笑って返す。その横で、樹がそっと頷くのが見えた。
その静かな反応に、少しだけほっとした。
ここまでは、想定どおり。
「蒼」
私の声に、蒼が振り向く。少しだけ、不思議そうな顔をしていた。
「ちょうどよかった。付き合ってほしいことがあるの」
私は迷いなく、蒼の手を取った。驚いたように目を見開く彼の反応には目もくれず、そのまま人混みへと歩き出す。
「ちょっ……おい、香織? なに急に……」
「いいから。黙ってついてきて。ほら、早く」
手を引いて歩きながら、ちらりと後ろを振り返る。残された咲葵と樹が、ふたりだけで立ち尽くしていた。
その光景を見て、ようやく胸の重さが少しだけほどけた気がした。蒼には申し訳ないけど、これが――私にできる最善。
「……で、どこに行くんだよ」
「適当に屋台でも回ろうよ。どうせ、暇だったんでしょ?」
「はあ……まあ、否定はしないけどさ」
蒼がぼやきながらも、足を止めずに私の歩調に合わせてくれる。その横顔が、風に吹かれて揺れる灯りに照らされていた。
――あの夜、海辺で「香織」と呼んでくれた声が、ふいに蘇る。
ほんの少しでいい。この時間が、もう少しだけ続いてくれたら。そんなふうに願ってしまう自分が、今もどこかにいる。
心の奥の、小さなわがまま。この夏の夜だけは、それを見逃してほしいと願いながら――私は蒼の隣を歩いていた。
「うわ、うまそうだな、香織」
何の前触れもなくそんな声がして、私は隣にいる蒼を見る。
「なにが」
問い返すと、蒼は屋台の上に掲げられた大きな赤い文字を指さして答えた。
「やきそば」
その匂いに釣られるようにして、蒼は迷いなく列に並んだ。私はその背中をただ見つめる。――いつの間にか、こうして自然に蒼の隣にいることが増えた。少しだけ、それが怖い。
しばらくして戻ってきた蒼は、手にフードパックを掲げながら嬉しそうに笑っていた。
「ほら、見て。美味そうだろ」
「歩きながらは食べられないわよ」
「たしかに」
蒼が笑って頷いたのを横目に、私は少しだけ早足で歩き出した。置いていくように。だけど、ほんの数歩の距離で、蒼は追いついてくる。何事もなかったかのように、隣に立つ。
ベンチが見えたので私はそこに腰を下ろした。端のほうに、少しだけスペースを残して。
すぐに蒼も隣に腰を下ろすと、フードケースを開けて中の焼きそばを箸でつまみ、勢いよく頬張った。
「……うまっ。香織も食うか?」
予想もしていなかった提案に、思わず一瞬だけ目が泳ぐ。箸はひとつしかない。私は返事に迷っているというのに、蒼は気にする様子もなく、フードパックごと私に差し出してきた。
「無理にとは言わねーけどさ。……うまいぞ」
そう言い終えると、蒼は立ち上がり、どこかへ向かって歩き出す。
「トイレ。すぐ戻る」
残された私は、手にした焼きそばと蒼の使った箸をしばらくじっと見つめていた。身体が熱くなっていくのを感じながら、私はそっと箸を取り、焼きそばをひと口、口へ運んだ。
――だめ、意識しちゃう。……でも。私は、なんでこんなに必死に意識しないようにしてたんだろう。咲葵が恋をしてるから? それとも、私にはその資格がないと、勝手に思い込んでただけ?違う。関係ない。私が、好きな人は――蒼。
私は、蒼と一緒にいたい。恋をして、触れて、もっと近くに行きたい。そう、ずっと思っていた。その気持ちに、ようやく正直になれた。
口に含んだ割り箸は、淡く湿りを帯びて、生温かな肌触りを私の唇へ伝えていた。箸先に宿った僅かな粘りは、まるで触れてはいけない誰かの温もりを盗み取ったようで、舌が自然とその罪深さを味わおうと絡みついていく。
自分が今、どれほど恥知らずな真似をしているのか、心でははっきりと分かっているはずなのに、理性はすでに身体から切り離されていた。ありふれた屋台の焼きそばを口に運んだはずなのに、口内に広がるのは濃密な甘さばかり。そこに宿るのは、蒼の唇の感触——微かな残り香のような、儚くも鮮烈な甘美さだった。
胸の奥に押し込めて、見ないふりをし続けてきた感情が、唾液と一緒に喉の奥から溢れ出した。
「……っ、はぁ」
喉の奥で絡まった吐息を振り切るように、一気に息を吐き出す。視界が熱っぽくぼやけている。自分の頬が紅潮しているのが、見なくてもわかってしまった。微かに浮かんだ汗が頬を伝い、自分自身の熱を容赦なく突きつけてくる。
もう戻れない、戻らないと決めた。だから、この罪を抱えて生きることにした。
香織はもう一度、蒼が使った割り箸で焼きそばを絡め取り、自分の舌の上へとそれを導いた。蕩けるほど柔らかな麺が唇をすり抜けるその瞬間、甘く熱い罪が全身に流れ込み、彼女の心を深く掻き乱していくのだった。




