25話 隠す恋
教室のど真ん中、人の目も気にせず、大きな声で――まるで世界に響かせるかのように「ごめんね」と叫んだ咲葵に、私は思わず手を伸ばした。視線が痛い。驚いたようにこちらを見るクラスメイトたちの視線から逃げるように、咲葵の手を引いて教室を出る。
行き先も考えず、足が勝手に向かったのは、いつもの女子トイレだった。
無言のまま個室に入ると、咲葵は私の胸元に顔をうずめてきた。ワイシャツ越しに伝わるぬくもりと、鼻先がくすぐったいほどに私の体に触れている感覚が、不意に胸を締めつける。
あたたかい。やさしい。懐かしい。そして、どうしようもなく、ずるい。純粋で、素直で、どこまでも無防備で、まるで子犬のようなその仕草に、どうしてこんなにも心が揺れるのか。
咲葵のことを嫌いになったわけじゃない。むしろ、好きだ。大切で、大事で、守りたくて……だからこそ、今、この子の顔を正面から見られなかった。
胸の奥にしまっておいた感情が、彼女の涙の温もりにふれて、じわりと溶け出していく。喉の奥が熱くて、言葉がせき止められる。無理に声を絞り出した私の言葉は、どこか歪だった。
「……咲葵のためとか、そんなの、別に……私、そんなに優しくなんてない」
瞬間、自分の声がひどく空虚に聞こえた。何かを隠すときの、人の声ってこんなに震えるんだ――そう思った。本当は、私はずっと欲しかった。咲葵の笑顔も、蒼の名前も、あの夜の空気も。
欲しかったから、差し出しただけ。優しさなんかじゃない。ただの利己的な感情。
でも、それを言ってしまえば、全部が崩れてしまう気がした。
「そんなことないもん。香織ちゃんは、優しいもん」
咲葵はそう言って、私をまた包んでくれた。やさしい声で、やさしい手で、あっさりと、私の嘘を許してしまう。どれだけ醜い感情を抱いていても、咲葵はきっと笑ってくれるんだろう。そう思うと、逆に苦しかった。
許されるたびに、私はますます自分を責めてしまう。咲葵の言葉がやさしいほど、それは刃物のように胸に刺さった。
どうして、こんなにも心が痛むのだろう。
ようやく女子トイレを出て、朝のホームルームが始まる直前に教室へ戻る。足取りは重かった。机にたどり着いても、座るのがひどく億劫だった。
何をしていたんだろう――そんな問いが、頭の中をぐるぐると回る。
昨夜のことを思い出す。あの海で、蒼と隣り合って座っていた時間。名前で呼び合って、少しだけ心の距離を縮めてみた。あれは無意識なんかじゃない。意識して、わざとだった。咲葵には気づかれないように、あえて咲葵のいないところで、こっそり自分の欲を満たそうとした。
名前を呼ばれた瞬間の蒼の顔が、今も鮮明に思い浮かぶ。嬉しそうに笑ったあの顔に、私は胸が詰まった。
だけど、今日の咲葵の顔を見たとき、私はどうしても目を合わせることができなかった。彼女が何かを察したらどうしよう、と思ってしまった。もし、すべてを気づかれたら、私はもう咲葵の隣にいられない気がした。
あのときのやさしさは、咲葵のもの。蒼の笑顔も、本当は、咲葵のものだった。それを、私は一瞬でも欲しがった。名前ひとつで、蒼を引き寄せようとした。
罪悪感が、胸の奥に重たくのしかかる。咲葵の優しさに触れるたび、自分のずるさだけが浮き彫りになる。
こんなふうに隠しながら接していて、私は本当に、正しいのだろうか。咲葵のため、と言いながら、本当は自分のためだったんじゃないか。
その問いの答えは、今もまだ、見つからないままだった。
部活が終わる頃には、もう空がすっかり茜色に染まっていた。咲葵は今日も疲れていたようで、樹にカラオケへ誘われていたけれど、すぐに断っていた。
無理をしてまた倒れでもしたら……そんな彼女の遠慮がちの笑顔を、私は少し遠くから見ていた。
「お待たせ」
職員室から戻ると、咲葵がこちらを振り返った。
「どこ行ってたの?」
「職員室。……先生が樹を呼んでた」
目線を自然に咲葵の背後へ向け、樹に鍵を手渡す。彼は頷いて、他の部員に声をかけていた。
そのまま咲葵と一緒に校門を出る。夕暮れの風が、夏の匂いを運んできていた。
「最近、暗くなるの遅くなったね」
「……もうすぐ夏休みだし」
会話の端々に、少しの沈黙が混ざる。
「そういえば、職員室で……何話してたの?」
「咲葵は知らなかったんだね。明後日から、強化合宿。県外の山の中で」
「そうなんだ……。大変だと思うけど、頑張ってきてね」
「……やっぱり、咲葵は来られないのね」
咲葵は静かに頷いた。それ以上、何も言わずに。歩く速度が少しだけ遅くなる。分かれ道の前で、咲葵が笑って手を振る。
「じゃあね」
「……私も、恋……できる日、くるかな」
ふと漏れた問いに、咲葵は笑顔のまま頷いた。
「うん、きっとできるよ」
たわいのない会話を交わして、咲葵と分かれた。
手を振る彼女の姿が、夕焼け色に染まりながら遠ざかっていく。いつも通りの、何気ない日常のひとコマ。けれどその背中を見つめる私は、どこか、息がつまるような気持ちを抱えていた。
風が頬を撫でていく。夏の入り口。熱を帯びはじめた空気の中に、心だけが取り残されたまま、ゆっくりと沈んでいく感覚があった。
――不思議だった。高校生になってからというもの、無性に恋に焦がれる。どうしてこんなにも、人を想うことが苦しいのか。それが「恋」と呼ばれるものだと、頭では理解していても、心はずっと迷っていた。
咲葵もきっと、あの頃の私と同じだったのだろう。純粋で真っ直ぐな気持ちを胸に、初恋に心を委ねていた。樹のことを話すときのあの嬉しそうな顔、あれが全部、本物なら――。
けれど、ほんのわずかに浮かんでしまう疑念が、どうしても心から離れなかった。
咲葵は、本当にそれでいいの?
口に出すことなどできない。自分の中に芽生えてしまった、この曖昧で、曇った感情を誰かに知られたくはなかった。けれどそれは、咲葵への想いというより、自分自身への問いかけだったのかもしれない。
私はゆっくりと足を止めて、遠くなった咲葵の背中を見つめた。
小さくて、けれどまぶしい存在だった。彼女が進んでいくその先に、私はもう並んで歩けないような気がしていた。ほんの少し前まで、あんなにも近くにいたのに。
声にならない気持ちを、そっと胸の奥に沈める。
ねえ、咲葵。あなたの笑顔の裏にあるものを、私はどこまで知っているんだろう。そして、自分の中にあるこの気持ちの正体に、私はいつまで目をそらし続けられるんだろう――。
立ち止まったまま動けない自分に、少しだけ腹が立った。けれど、背中に語りかけるように、私はそっと呟いた。
「……いいな、咲葵は」
その声は風に紛れて、誰にも届くことはなかった。




