24話 波に攫われる
高校二年の春、咲葵が樹くんに恋をした。
その言葉を聞いたとき、驚きはしたけれど、不思議と納得もできた。樹くんは整った顔立ちで、クラスでも目立つ存在。なにより、咲葵の「好きそうな人」って、まさにこういう人だった気がしたから。
でも……それでも、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。その感情の正体を、私はそのとき、まだ知らなかった。
食堂で何気なく交わされた会話の流れで、私たちは四人で遊園地に行くことになった。春の風がまだ少し冷たくて、でも心のどこかが浮き足立っていた。
待ち合わせ場所に着くと、すでに樹がいた。私は軽く会釈をして、咲葵と蒼が合流するのを待つ。
「おはよう」
笑顔でやってきた咲葵と蒼に、自然と空気が和らぐ。
「結構朝早いのに、もう人がいるんだな」
蒼が言うと、樹がパンフレットを見ながら頷く。
「中も混んでるだろうね。早めに回ろう」
私は準備していたチケットを手渡した。咲葵はそれを受け取って、当たり前のように蒼に一枚を渡す。その何気ない一連の流れに、なぜか心が少しだけ揺れた。
「さて、最初にどこから行こうか?」
樹くんの問いかけに、自然と視線が蒼へと向かう。でも、蒼は少し距離を取った場所で、無表情にこちらの様子を見ていた。
私がちらりと蒼の隣を見ると、咲葵が無邪気な顔で言った。
「ジェットコースター‼」
その言葉に、樹くんがふっと笑ってパンフレットを確認する。
「開幕ジェットコースター、いいね」
咲葵が嬉しそうに頷いた。
——いつも思う。咲葵って、まっすぐで、迷いがなくて、全力で楽しもうとする。そんな咲葵の眩しさを、私はきっと、どこかで羨ましく思っていた。
列に並ぶと、自然と二組に分かれた。咲葵と樹くんが前、私と蒼が後ろ。ジェットコースターに乗り込むまでの短い時間が、やけに長く感じられる。
「楽しみだね〜!」
咲葵が楽しげに樹くんに話しかける。まるで子どもみたいに目を輝かせて。
その姿を、蒼は黙って見つめていた。どこか、遠くから物語を眺めているような目で。
その表情に、私は思わず声を漏らしていた。
「……五十嵐は、それでいいの?」
不意に出た問いに、蒼が驚いたように私を見る。気まずそうに笑って、ふっと視線を逸らした。
「え、なにが? ジェットコースター? まさか、怖いとかじゃないよ?」
そうじゃない。そんな話をしたいんじゃない。でも蒼は、わざと話を逸らすみたいに、言葉を重ねる。
「お前こそ大丈夫か? 無理だけはすんなよ」
その優しさが、なぜか苦しかった。
……どうして、そんな顔して、そんなこと言えるの。
思わず、問いかけるように言葉が漏れた。
「……なんで?」
蒼が不思議そうに首を傾げる。
「え? なんか驚いてた感じがしたから。心配になっただけ」
真正面から向けられたそのまなざしに、息が詰まる。
私がずっと、心の奥底に閉じ込めてきたものが、今にも溢れ出しそうだった。でも、そんなわけにはいかない。
私はそっと前を向いた。視線を落とし、小さな声で呟く。
「……ばか」
誰にも届かない声は、春のざわめきと遊園地の喧騒に、静かに飲み込まれていった。
遊園地のあと、咲葵の態度は明らかに変わった。部活に顔を出さなくなり、樹への態度もどこか淡白になった。まるで、自ら距離を取ろうとしているようだった。
その違和感は、日ごとに大きくなり、胸の奥に澱のように沈んでいった。気づかないふりをしていると、余計に不安が募った。だから、あの日、私はついに問い詰めてしまった。
放課後、誰もいない教室。雨音だけが静かに響いていた。
咲葵は俯きながら、曖昧な言葉を並べた。「疲れちゃったんだよね」と微笑んだその顔は、ひどく遠く感じた。
その言葉に、どうしても納得ができなくて、私は感情のままに声を荒げた。
「好きだったんでしょ、なら迷う必要ある?」
「わかってるよ、そんなことは!」
咲葵の瞳が滲む。自分でも驚くほど激しく感情をぶつけていた。胸の内に絡まった思いが、ほどけることなく、ただ荒々しくこぼれていく。
「香織ちゃんこそ、何も知らないじゃない!わたしの気持ち!」
「当たり前でしょ」
「香織ちゃんは、まじめに恋愛したことあるの?」
「あんたに何がわかるの?」
言葉が重なり、噛み合わないまま、最後に咲葵は「ごめん」とだけ呟いた。そのまま荷物を掴み、駆け出すように教室を飛び出していった。
雨音が、ひどく遠くに感じられた。
教室に残された私は、机に手をついたまま動けなかった。やってしまった、と頭では理解していた。けれど、後悔だけでは片付けられない感情が胸の中を渦巻いていた。
誰かがそこにいる気配がした。
「いるんでしょ」
雨にかき消されそうな声で、そう言うと、静かに扉が開いた。五十嵐が、いつもの無造作な歩き方で教室へ入ってくる。
「ばれてたのか」
そう言って、私の目の前で足を止めた。
「追いかけなくていいの?」
冷たく響く声が、自分のものとは思えなかった。
五十嵐は、しばらく私を見つめていた。何を考えているのか、表情からは読み取れない。そして、ぽつりと呟くように言った。
「今はお前の方が心配だよ」
何かを振り払うように、肩がわずかに震えた。力が抜けたように膝の力が抜け、前かがみに崩れそうになった瞬間、五十嵐がそっと支えてくれた。
その腕の中で、小さく呟いた。
「ほんと……ばか」
どちらの言葉だったのか、自分でもわからなかった。
部活が終わったあと、私は再び教室へ戻った。五十嵐はすでに来ていて、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「おつかれ」
彼が片手を軽く上げる。
「おつかれ」
同じ言葉を返したけれど、やけに喉が乾いていた。五十嵐は静かに教室の電気を消し、私の方を振り返る。
「それじゃ、行くか」
雨はまだ降り続いていた。
私たちは、言葉を交わさずに並んで歩き出した。
目的の場所へ向かうために——。
波の音が静かに響く。潮の香りが風に乗り、頬をかすめる。
コンクリートの堤防を越えた先には、闇に溶け込むように広がる海。夜空には星が散らばり、水平線の先でわずかに瞬いていた。
「久しぶり」
砂浜に足を踏み入れながらそう呟くと、隣を歩く蒼も小さく返事をした。
「ああ」
波打ち際まで歩き、ゆっくりと腰を下ろす。
「ここ、私が咲葵と五十嵐に初めて会った場所」
湿った砂の感触を確かめながら、遠い夏の日を思い出す。小学四年生の夏、両親に無理やり連れてこられた海。ここで、私は二人に出会った。
「小学四年生の頃だったか?」
「そう。最初は本当、乗り気じゃなかったんだけどね」
蒼は私の隣に腰を下ろし、水平線の向こうをじっと見つめている。
「それで、何があったんだ?」
静かに問いかけられる。私は少しだけ唇を噛み、夜の海に視線を落とした。
「遊園地の日から、咲葵が樹と一切連絡を取ってないみたい」
「咲葵が?」
驚いたような声が返ってくる。私が頷くと、蒼は砂を握りしめるように指を動かしながら、ぼそりと呟いた。
「あいつ、昔っから子供みたいで、わがままだからな。でも、その分、人一倍我慢してることもある」
穏やかだけれど、どこか遠い響きを持つ言葉だった。暗くて表情までは見えなかったけれど、優しさが滲んでいるのは伝わった。咲葵への想いが、きっとそこにあるのだと思った。
「……それにしても、本当に里見は優しいな」
その呼び方に、胸の奥で何かがひっかかる。ほんの少し、口を開きかけて——けれど、迷う。こんなことを言って、何になる?でも、言わなければ、この気持ちはどこにも行き場がないまま、また沈んでしまう。
「香織」
「え?」
蒼が驚いたように私を見る。
「私の名前は香織。だから、香織って呼んで」
自分で言ったくせに、喉が詰まる。
——今さら、何をしているんだろう。
だけど、止められなかった。咲葵の恋を応援することで、心の奥に閉じ込めていたものが少しずつ揺れ始めていた。それが、何なのかは分かっている。でも、向き合うには、まだ勇気が足りなかった。
「……わかったよ、香織」
名前を呼ばれる。たったそれだけなのに、心臓が跳ねた。
「うん、蒼」
ほんの少しだけ——手を伸ばした気がした。
蒼は照れくさそうに笑いながら肩をすくめる。
「言いなれてないから、なんかすっげー違和感あるな」
「それに、少し恥ずかしい」
こんなことを言う自分に、ますます恥ずかしくなる。
蒼は驚いたように私を見つめ、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「え、意外だ。香織も恥ずかしがるんだ?」
「当たり前」
「いやいや、全然そんなふうに見えないけど」
「そんなことない」
軽口を交わすうちに、蒼が突然こちらに向き直る。
「ちょっと、こっち向いて」
「え?」
そう言った瞬間、頬にそっと手を添えられた。顔が近い。
驚きに固まったまま、蒼の視線を受け止める。まじまじと見つめられて、息をするのさえ忘れそうになる。
しばらくして、蒼は何か納得したように手を離し、前へ向き直った。私もつられるように、慌てて視線を逸らす。——どうしよう。心臓の音が聞こえてしまいそう。頬がじわじわと熱を帯びていくのを感じる。
そんな私の動揺に気づくはずもなく、蒼は何でもないように言った。
「結局、真顔だったじゃねーか」
「……え?」
「暗くてよく見えなかったからさ。もしかして、レアな香織が見られるかと思ったけど、そんなことなかったわ」
私は咄嗟に両手で顔を覆う。——バカ、バカ、バカ。
必死に冷静になろうとするが、蒼の言葉が耳の奥で響いて離れない。そんな私を気にも留めず、蒼は続けた。
「でもさ、やっぱ香織はすっげー優しいよ。咲葵のために、そこまでできるんだから」
「それはこっちのセリフ」
「なんでだよ」
蒼は笑いながら夜空を見上げる。
「咲葵にはさ、夢を諦めないで、幸せになってほしいんだよ」
その声が、どこか儚く聞こえた。
本当に、それでいいの?蒼の夢は、諦めてもいいものなの?
問いかけそうになったけれど、その言葉を呑み込んだ。
おそらく、蒼も私と同じだったのだろう。
自覚しないように——。
二人はその思いを、言葉を、波が洗い流してくれる事に期待していたのかもしれない。




