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気づいて欲しかった  作者: 咲葵
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22話 馴れ初め

 小学生四年生の夏休み。私は両親に半ば無理やり連れ出され、いつもの海へとやってきた。

 車のドアが開くと、むっとするような熱気が流れ込み、ワンピースの裾をふわりと揺らした。私は顔をしかめ、手のひらをかざして光を遮る。

「暑い」

 短く呟くと、母が振り返り、微笑む。

「せっかくの海なのに、少しは楽しもうと思わないの?」

「いつでも来られるのに」

「そういう問題じゃないの」

 母は呆れたように言いながら、私の手を取ると、強引に車から引っ張り出した。

 裸足になり、サンダルを手に持ったまま堤防を上る。足元には、熱を帯びた砂がさらさらとこぼれ落ちていた。

 海岸には、色とりどりのパラソルが並び、波打ち際には無邪気な歓声が響く。子どもたちが浮き輪に身を預け、親たちは砂浜で日焼けを気にしながら談笑していた。

 こんなに人がいるのは、初めてかもしれない。普段はひっそりと静かなこの海も、今日はまるで別の場所のようだった。

 隣で立ち止まった父が、目を細めながら言う。

「いつもと違う雰囲気だろ?こういうのも、たまには悪くない」

「……別に」

 心が動いたわけではない。ただ、こんなふうに賑やかな海を見たことがなかったから、ほんの少しだけ新鮮に感じただけ。

 父の言葉に曖昧な返事を返すと、踵を返し、テントへ向かった。

 着替えを済ませ、水着の上から薄手のシャツを羽織る。浮き輪を片手に海へ戻り、波に揺られながらひとりで漂った。

 空を見上げると、青がどこまでも続いている。波に揺られる心地よさに身を任せていると、不意に目の前をビーチボールが転がってきた。

「お願い!取ってくれる?」

 明るい声が、波の音をかき消した。

 振り向くと、黒髪の少女が砂浜に立ち、裸足のままこちらを見ていた。肩まで伸びた髪が風に揺れ、日に焼けた頬が輝いて見える。

 私はそっと波をかき分け、ビーチボールを拾い上げる。そして、それを彼女へと差し出した。

「ありがとう!」

 彼女は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにボールを抱きしめる。

「私、南咲葵! あなたは?」

「……里見香織」

 名乗ると、彼女の瞳がぱっと輝いた。

「香織ちゃんね!よろしく!」

 そして、突然、小さな手を差し出してくる。

 戸惑う間もなく、その手は私の手を強引に掴み、ぎゅっと握りしめられた。

「これで友達だね!」

 その言葉が、あまりにもあっけなくて、驚いた。

 友達。そんな簡単に決めてしまっていいものなのだろうか。

 手の温もりを感じながら、小さな声でつぶやく。

「……強引」

 彼女は私の言葉を聞いていなかったのか、それとも気にしていなかったのか、何の反応も示さず、今度は砂浜の向こうに向かって大きく手を振る。

 つられて視線を向けると、咲葵と同じくらいの背丈の男の子が、こちらへ駆けてきた。

 黒髪は短く切りそろえられ、日に焼けた肌が健康的な印象を与える。水滴が肩にきらめき、まるで海と一体化したような少年だった。

 彼は咲葵の隣に立つと、ちらりと私に視線を向ける。

「里見香織ちゃんだよ! 今さっき友達になったの!」

 咲葵が楽しそうに彼を指差しながら言った。

 私は軽くお辞儀をする。

 すると、男の子——蒼は、一瞬だけ私の顔を見て、すぐに咲葵の方へ向き直った。

「早く行こう。まだ続いてるんだから」

 淡々とした口調で言うと、彼は振り返り、走り出した。

 咲葵は私の方を振り返ると、無邪気な笑顔を浮かべながら手を引いた。

「さ、行こー!」

「え、なんで?」

 疑問の声を上げるも、咲葵は聞く耳を持たず、ぐいぐいと腕を引っ張る。

 波の音が遠ざかる。

 見慣れた海のはずだった。

 けれど、この夏、この瞬間から、私の世界は少しずつ変わり始めていた。



 夏休みが明けたある日のことだった。休み時間、教室の隅で静かに本を読んでいると、不意に大きな声で名前を呼ばれた。驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある二人がいた。

 咲葵と——その隣には蒼が立っていた。

 咲葵は無邪気に笑い、手を振っている。対照的に、蒼は少し居心地悪そうに視線を逸らしていた。

 それからというもの、休み時間になると、わたしは咲葵と蒼と一緒に遊ぶようになった。咲葵が率先して誘い、わたしは自然とその輪に引き込まれた。けれど、放課後に遊ぶことはなかった。咲葵が誘うことはなかったし、わたしも自分から声をかけることはなかった。

 もし、迷惑だったら。もし、拒絶されたら——。

 そんな考えが先に立ち、足を踏み出せずにいた。

 咲葵は、わたしにとって初めての「友達」だった。

 蒼とも一緒に遊ぶことが増えた。けれど、それは咲葵がいる時だけだった。蒼とは友達なのか、わたしには分からなかった。彼はわたしとは違う世界の人間に思えた。活発で、運動が得意で、友達も多い。体育館の片隅で本を読んでいるわたしとは、あまりにも正反対だった。

 もし、二人きりになったら——何を話せばいいのか分からない。

 そうして、三人で過ごす時間が続き、わたしたちは五年生になった。

 新学期。クラス替えの発表を見て、少しだけ息をのんだ。

 咲葵と蒼はまた同じクラスになった。けれど、わたしだけが別のクラスになった。

 それでも、大丈夫だと思っていた。授業が終わればまた三人で遊べるし、休み時間になれば顔を合わせることができる。クラスが違ったところで、関係が変わるはずはない——。

 そう、思っていた。

 けれど、それはあまりにも幼く、甘い考えだった。

 クラスが変わってしばらくすると、わたしは「からかい」の対象になった。本ばかり読んでいることが気に障ったのか、わたしの存在は次第に教室の中で浮いていった。最初は冗談のようなものだった。けれど、それは少しずつ確実に形を変え、笑いの中に悪意が滲むようになった。

 クラスのどこを見ても、わたしの味方はいなかった。

 それでも、咲葵と蒼と過ごす時間だけが、わたしの唯一の救いだった。休み時間に二人といるときだけは、教室での出来事を忘れられた。だからこそ、わたしはこのことを誰にも話せなかった。

 迷惑をかけたくなかった。それに、もしも——このことを話して、二人まで離れていってしまったら。その可能性が怖くて、わたしは口を閉ざした。

 そんなある日、咲葵が家庭の事情でしばらく学校を休むことになった。

 教室の景色が、まるで色を失ったかのように思えた。

 咲葵がいない。ただそれだけのことなのに、学校がいつもよりも広く、どこまでも遠く感じられた。

 蒼と二人きりで遊んだことなんて、一度もなかった。だから、咲葵がいなくなった途端、わたしと蒼の間には、ぽっかりと距離ができてしまった。


 教室の空気が、ざわついた。いつものように床に座り込んで、嘲笑と軽蔑の視線を浴びながら、ただ耐えていた私の耳に、鋭く響く声が飛び込んできた。

「おい! やめろよ!」

 ——違う。いつもの声じゃない。

 驚いて顔を上げると、そこには蒼が立っていた。

 彼がどうしてここにいるのか、一瞬理解できなかった。同じクラスでもないのに、なぜ? けれど、蒼は迷いのない足取りで私のもとへと近づいてきた。

「大丈夫か?」

 低く落ち着いた声だった。

 私は何も言えず、ただ黙ってうなずいた。蒼の手が差し出される。私は、その手を取った。

 ——温かい。

 引き上げられると同時に、周囲の視線が一斉に蒼に向く。明らかに面白くなさそうな顔をした男子が、蒼の前に立ちはだかった。

「お前、邪魔。なに人のクラス入ってきてんだよ。こっちは仲良く遊んでただけなんだけどー?」

 後ろに控えていた三人の男子も、いやらしい笑みを浮かべながら同調する。

「なあ、ドブス女?」

 彼らの視線が突き刺さる。——耐えなきゃ。私は俯いたまま、スカートの裾を握りしめる。それが、いつもの「やり過ごし方」だった。

「里見、どうなの?」

 蒼の声がする。私は顔を上げられなかった。ただ黙り込むことしかできない。

「ほらなー、しゃべんないから。きもすぎー」

 嘲笑が広がる。笑いの渦に巻き込まれるような感覚に、体が震えた。——何も言わなければ、いつか終わる。そう信じて、ずっと黙っていた。でも。

「里見はこのままでいいの? はっきり言って!」

 蒼の声が、鋭く私の心を突いた。彼の視線は、ただの傍観者のものではなかった。ただの「同情」でもなかった。

「ばーか。無理に決まってんだろ。クチナシ女~」

 周囲の笑い声が響く。

 ——どうして、こんなにも怖いんだろう。どうして、こんなにも情けないんだろう。

「何をそんなに恐れてるの?」

 蒼の声が、私だけに向けられる。

「こんなバカたちよりも、里見はよっぽど頭がいいだろ。それに、俺がいるからさ。好きなように叫べ」

 ——叫べ?

 何を言っているのか、一瞬わからなかった。でも、蒼の表情を見たとき、胸がぎゅっと締めつけられた。彼は、笑っていた。それは、あの夏の日、初めて出会ったときに見せた無邪気な笑顔とは違った。

 強くて、まっすぐで——とても、眩しかった。

 私は、一度だけ深く息を吸った。そして——。

「……あんたたちと一緒に遊んでても、楽しくない」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。

「は? 何言ってんの」

「耳も聞こえなくて、日本語もわからない馬鹿と遊びたくない。赤ちゃんからやり直したら?」

「なに言ってるんだよ!」

「本当に分からないの?……あ、図星?」

 主犯格の男子の顔が、見る間に赤く染まった。その顔が怒りに歪んだ次の瞬間、彼は拳を握りしめて、私に向かって突進してきた。

 ——怖い。

 思わず体を強張らせたその時、蒼が私の前に立ちはだかった。そして、その拳を片手で受け止めた。

「……やめとけよ」

 低く、抑えた声だった。しかし、その声には、絶対に後戻りできない何かが宿っていた。

 蒼に挑みかかるように、他の三人の男子も飛び込んでくる。私は、その光景に耐えられなくなって、教室を飛び出した。

 ——先生を呼ばなきゃ。

 走る。走る。職員室のドアを開け、息を切らしながら先生を呼んだ。そして、やっと喧嘩は止められた。

 放課後、私は校門の前で蒼を待っていた。彼は片方の頬に絆創膏を貼り、少し照れくさそうな顔をしていた。

「……ごめん。ありがとう」

 顔を伏せたまま言うと、蒼は無言のまま私の前に立った。そして、私の頬にそっと両手を添えると、ぐいっと顔を持ち上げた。

「下ばっか見ないでさ、前見ようよ」

 驚いた私をまじまじと見つめる。

「せっかくの可愛い顔が、もったいない」

 それだけ言って、彼はすぐに手を離し、背を向けた。

「……!」

 心臓が、大きく跳ねた。私は、立ち尽くしたまま、蒼の背中を見送った。その瞬間、自分の中で何かが変わってしまった気がした。たぶん——これは、恋だった。


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