18話 花火
しばらく蒼と一緒に歩いていると、人ごみの向こうから香織ちゃんの姿が見えた。そのすぐ隣には……樹くん。そして、バスケ部のみんな。
思わず足が止まる。
——本当に来てる……!やばい、心臓が……!
自然と目が樹くんに向いてしまう。一瞬だけ目が合った。でもすぐにそらされてしまった。
——……だよね。あの日のこと、きっと気まずいよね。って、あれ?ていうかさ……作戦って、わたし聞かされてなくない⁉
不安と混乱と焦りのトリプルパンチ。わたしは目で訴えるように蒼を見上げる。
——ぴえん顔全開で訴えてるのに、なんで見てくれないの……蒼……ぴえん。
「蒼、ちょうどいいところに。付き合って欲しいことがあるんだけど」
香織ちゃんが前に出て、なんの前触れもなく蒼の手をつかんで、そのまま人ごみに紛れていった。
「えっ、え? えええええ⁉」
驚きすぎて声も裏返る。わたしの前に残されたのは、ぽかんと立ち尽くすわたしと、樹くんだけ。
部員の何人かが空気を読んだみたいに「俺たち、いないほうがいいな」って言いながら、ぞろぞろと立ち去っていった。「おい、お前ら……」と止めようとした樹くんの声も、「いいって、いいって」と押し切られ、あっという間にみんな消えていった。
——え、ちょっと待って……これは、もしや……完全に二人きりの流れ⁉
頭が真っ白になる。急な展開についていけない。
——そりゃ、うれしいはずなのに……でも、気まずいよ……あんなLINEきて、それから一度も話してなくて……。
わたしは顔を上げることができずに、俯いたまま立ち尽くしていた。
すると、そっと肩に優しい手のひらの感触。
「顔、上げて」
低くて、でもやさしい声。
わたしはびくっとして、恐る恐る顔を上げた。目が合った瞬間、涙がにじみそうになった。
——ダメだよ、泣いちゃダメ。メイク……崩れちゃうよ……!
そのとき、樹くんの顔がゆっくり近づいてきた。息をのむほど距離が近くて、鼻先が触れそうなほど。
——ちょ、ちょっと待って……これって、もしかして……⁉
でも、唇が触れるその直前で、樹くんはふっと距離を取った。そして、わたしの手を静かに握る。
「咲葵、君、何も聞いてなかったんだよね」
「う、うん……」
「なら、僕と一緒だ」
樹くんはそう言うと、ぎゅっとわたしの手を引いた。
そのまま、わたしは樹くんの胸に、自然と体を預けてしまっていた。包み込むような腕。体温。脈。
——ああ……なんだろう、この安心感。
「僕と、一緒に回ってくれない?」
顔を上げた。すぐ目の前にあるのは、わたしの大好きな樹くんの顔。距離なんて、もう数センチ。目もそらせないし、息をするのも忘れてしまいそう。
——わたし、今、ちゃんと返事しなきゃ……するんだよ、咲葵……!
「……はい」
声が震えそうだったけど、ちゃんと返事できた。
顔が真っ赤になってるのは自分でもわかる。でも、この瞬間だけは、絶対に忘れたくなかった。
あれから、わたしは樹くんと手をつないでお祭りを回ってる。
——夢みたい……のはずなのに、ぜんぜん話しかけられない。
手のひらに広がっていくじんわりした汗が気になって、それどころじゃなかった。ちょっとの間ができるたびに、わたしの頭の中は「何話せばいい?」「今しゃべっても変じゃない?」って、言葉探しで大渋滞していた。
「咲葵、綿あめ好き?」
不意に話しかけられて、胸が跳ねた。
「うん、好き」
「わかった」
それだけ言うと、樹くんはふわっと手を離して綿あめ屋の列に並んだ。
——あっ……手、離れちゃった。
でも、そのタイミングで、こっそりわたしは自分の手のひらをスカートでそっとぬぐった。手汗のことなんて気にしないでいたいけど、こういうときってやっぱり、気になる。
戻ってきた樹くんは、あの優しい笑顔でわたしに綿あめを差し出してくれた。
「食べる?」
「うん、ありがとう」
ふわふわしたピンクの綿あめを、ちぎって口に入れる。ふわりと溶けて、甘い味だけを残して消えていった。
——恋って……この綿あめみたいだな。口に入れた瞬間は幸せで、でも気づいたらもう消えてて。
そんな考えが浮かんできて、思わず頭をブンブンと振った。
——ちがうちがう!今は楽しむ時間でしょ!
それでも、無言で並んで歩く時間が続いてしまう。樹くんは特に気にしていないみたいだけど、わたしの心臓はずっとバクバクしていて、今にも音が聞こえてきそう。
でも、蒼の言葉がふと頭をよぎった。
——「いつも通りでいいんだ」って……そうだよ、咲葵。いつものわたしで。
意を決して、口を開いた。
「咲葵は何かしたいのある?」
って、樹くんの方から言ってくれた。
「今は……特に思いつかないかな」
ほんの少し正直に、ほんの少しだけ控えめに言ってみると、樹くんがにこっと笑った。
「そっか。なら、付き合ってくれる?」
「うん!」
返事だけは元気よく。
「せっかくの祭り、花火大会なんだから。全力で楽しまないと」
その一言で、心の中が少し軽くなった気がした。樹くんに連れられて、いろんな屋台を回った。
ヨーヨーすくいや、輪投げ、わたあめ、たこ焼き。樹くんは本当に楽しそうに遊んでて、それを見てるわたしも、自然と笑顔になってた。
「よく食べるね」と言ってみると、たこ焼きを頬張ったまま答えが返ってくる。
「運動部だからね。たくさん食べないと」
「なるほど!」
「咲葵も、あの焼きそばパン二つ買ってたよね?」
「うん……」
「けっこう食べてる方じゃない?」
「わたしも……たくさん食べなきゃいけないんだ」
その理由までは言えなかったけど、それでいいって思った。
「僕と一緒だね」
屈託のない笑顔でそう言う樹くんの顔に、胸の奥がじんわりあったかくなった。
——こういうの、ずるいな。きゅん、って、なるじゃん。
まるで、ふだんは見せない少年っぽい顔。たぶん今の笑顔、わたしだけに向けられたものだって信じたい。
「……あ、もうそろそろ始まるね!おすすめの場所あるの?」
「うん、あるよ。穴場なんだ、教えてあげる」
「それはすごい楽しみ」
花火も楽しみだけど、今は……この“ふたりきり”の時間が、何よりも特別で、何よりも輝いていた。
「あ、もうそろそろ始まるね。おすすめな場所あるの?」
「うん、あるよ」
樹くんが軽く笑って答えてくれる。その柔らかい声が、胸の奥でそっと弾んだ。
わたしたちは、なんとなく自然に手をつないだまま、屋台の並ぶ通りを抜けて、ひと気の少ない川沿いへ向かっていく。くだらない話をしながら歩く時間も、なんだか特別に思えてきた。
静かな場所に着くと、わたしはスマホで時間を確認して、嬉しそうに樹くんの方を向いた。
「上がるよ!」
そう言って空を見上げた瞬間、夜の静寂を切り裂くように、ピュ~ッという音が響いた。光の玉が空高く昇っていき……途中で消えた。
「不発?」
樹くんがぽつりとつぶやいた。わたしは首を横に振って、黒い夜空から目を離さずに答える。
「ううん……咲くよ」
その瞬間、空に大きな音が鳴り響き、まるで夜の中に大輪の花が咲くように、ひときわ鮮やかな光が広がった。
ぱぁん、ぱぱんっ。次々と音を立てて咲いていく花火が、まるでわたしたちを包み込むみたいで、わたしはしばらく何も考えられなくなった。
——今年も、見れたよ……蒼。
ふと、いつもの癖で左を見てしまう。でも、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
隣から、やさしい声。わたしはすぐに笑ってごまかした。
「なんでもない!」
——樹くんがいるのに……どうして、わたしは。
自分の中の小さな裏切りに気づいて、胸がきゅうっとなる。ああ、最低だ。
「わたしさ――」
心の中にある想いを、どうにか伝えたくて口を開いた。でも、すぐに花火の音にかき消されて、樹くんが聞き返してくる。
「なにー?」
その声だけで、胸の奥が跳ねる。どくどくと、心臓の音が体の中で暴れて、声を押し戻してしまう。ちゃんと話したいのに。ちゃんと気持ちを伝えたいのに……どうしても言葉にならない。
花火は、わたしのためらいなんかお構いなしに、夜空にぱんぱんと咲いて、そして散っていく。
——だめだよ、咲葵。言わなきゃ、進めないのに……。
必死に声を出そうとする。でも、喉は硬く閉ざされたまま。唇を開いても、そこからは息しか出なかった。
そんなわたしの様子に気づいたのか、樹くんがスマホを手にしながら、少し距離をとって言った。
「ごめん、僕、そろそろ帰るね」
「……うん。付き合ってくれて、ありがとう」
「楽しかった。また今度ね。じゃあ」
樹くんは、いつもと変わらない微笑みを浮かべて、くるりと背を向けた。その姿を、わたしはただ静かに見送った。
——普通に、声が出るのに。
喉元に手を当てて、そっと確認する。さっきの震えは、もうどこにもなかった。
でも、それでも言えなかった。
残されたのは、手のひらの熱と、胸の奥に残る不甲斐なさ。
花火はまだ終わらない。夜空に次々と咲いては消える。だけど、そのひとつひとつが、どこか遠くて――わたしの中にぽっかり空いたものを、埋めてくれなかった。
わたしはひとり、その場に立ち尽くした。
きっと、わたしだけじゃない。樹くんもまた、何かから逃げていた。
あの横顔に、そんな影が見えた気がして、忘れようとすればするほど、目に焼きついて離れなかった。
樹くんと別れたあと、わたしは一人で人混みの中をふらふらと歩いていた。胸の奥がずっとちくちく痛くて、どこに向かってるのかも分からないまま、足が勝手に動いていた。
気づけば、屋台の灯りも薄れて、人の数も減っていた。街路樹の影が伸びていて、花火の音だけが遠くに響いている。
「ねえ、君、ひとり?」
背後から声がした。振り返ると、男の人が三人。ひとりが笑って、わたしとの距離を詰めてくる。
「友達とはぐれた? 浴衣似合ってるじゃん」
「せっかくだし、ちょっと話そ?」
「……すみません。待ってる人がいるので……」
そう言って立ち去ろうとするけど、足がすくむ。腕を引かれそうになって、わたしはとっさにスマホを握りしめた。
胸の奥が、ずっと冷たい。
蒼と香織ちゃんのグループトークを開く。指が震えてうまく打てない。でも、時間がない。必死で文字を打ち込んだ。
『変な人に絡まれちゃった。怖い』
それだけ。送信ボタンを押すと、すぐに画面を伏せた。
どうか、気づいて。来て……。そう祈るように、胸の中で二人の名前を呼ぶ。
「警戒しすぎじゃない? ちょっと喋るくらい、いいでしょ?」
「大丈夫、怖くないって」
「お祭りって、出会いの場だろ?」
男たちの声がじりじりと近づいてくる。笑ってるのに、全然優しくない。わたしの心臓は、さっきの花火よりもずっと早く脈打ってる。
指がまたスマホを握りしめる。でも、これ以上は何もできない。
助けなんて……やっぱり……間に合わない?
そのとき。
「……咲葵!」
名前を呼ぶ声が、空気を裂いた。
びっくりして顔を上げると、蒼が人混みをかき分けて走ってくるのが見えた。息を切らして、焦った顔で、まっすぐに。
「は? なにお前」
「こっちは話してただけなんだけど」
蒼は返事もせず、わたしの前に立って、かばってくれる。その背中が、壁みたいに大きく見えた。
「咲葵、大丈夫か?」
「……うん、ごめん」
震えた声しか出せなかったけど、蒼は静かにわたしの手を握った。そして、そのまま何も言わずに歩き出そうとする。
「キャッ……!」
後ろからまた腕を掴まれて、わたしは思わず声をあげた。
「あ? 変な声出してんじゃねぇ」
男のひとりがわたしに手を上げようとしたとき、蒼が反射的に腕を掴んだ。
「手、離せよ」
低くて、静かな声。なのに、怒気がにじんでる。蒼が本気で怒ったときって、こんな声なんだ……。
その時、わたしの目に香織ちゃんが見えた。少し離れた場所で、スマホを耳に当てて“電話してるフリ”をしてる。わざとらしく、相手に見えるように。威圧のように。
「やめとけ、やばいって」
「通報されたら終わりだろ、行くぞ」
男たちは舌打ちして、わたしの腕を放した。足早に、騒がず、でも確実にその場から離れていった。
わたしは脱力するように蒼の肩にもたれかかる。緊張で張っていた全身の力が、じわじわと抜けていく。
「咲葵!」
香織ちゃんが駆け寄ってきた。
「大丈夫……?」
「うん……でも、本当にありがとう、ふたりとも」
言葉にしようとしたけど、涙が出そうで喉が詰まった。蒼はわたしの手をそっと握りなおして、香織ちゃんはわたしの背中を軽くさすってくれた。
「ちょっと、人が多いとこ行こう。明るい方に」
「うん……」
わたしは二人に連れられ、花火の明かりのほうへ歩き出す。さっきまで怖かったはずの人混みが、今は少しだけ安心に見えた。
——ありがとう、来てくれて。ほんとに、助かったよ。




