14話 沈む太陽
気づいたら、あたりから人の声も車の音もしなくなっていた。代わりに、潮の匂いと波の音がどこか懐かしく響いている。
わたしはそのまま歩き、堤防をよじ登る。
潮風がふわりと頬をなで、わたしを出迎えた。胸いっぱいに深呼吸すると、少しだけ心が落ち着く。足元の砂の感触を確かめながら、靴と靴下を脱いで、カバンとそろえて砂浜に置いた。素足を砂に埋めると、指の隙間をくすぐるような感触がある。でも、すぐに慣れた。
波打ち際まで歩き、小さな波に足先を浸す。水は少し冷たいけれど、心地よかった。すでに呼吸は落ち着いている。でも、胸の奥に引っかかるモヤモヤは消えない。
左右の足を交互に動かし、軽く水を蹴って遊んでいると、不意に聞きなれた声が背後から響いた。
「咲葵!」
振り返ると、蒼が息を切らしながら立っていた。
——わたしのこと、追いかけてきたんだ……。
驚いたけれど、心配をかけたくなくて、わたしは精一杯の笑顔を作る。
「蒼~! 靴とカバンそこに置いて、さっさとおいで~!」
わざと明るく手を振ると、蒼は少し眉を寄せたまま、靴と靴下を脱ぎ、カバンをわたしの荷物の隣に置いた。そして、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。
その表情があまりにも真剣だったから、わたしはいたずら心をくすぐられた。
「えいっ!」
片足をあげて水を蹴ると、細かいしぶきが蒼の足元にかかる。
蒼は手で顔を覆いながら近づいてきた。
——なんか、こういう時の蒼ってすぐ真面目な顔するんだから。
そんなことを思ったら、ますますいたずらしたくなって、わたしは笑いながらもう一度水を蹴った。
「やめろって!」
そう言いつつ、蒼がわたしの目の前までやってくる。
そして、ふいにわたしの両肩に手を置いた。
途端に、胸がドクンと鳴る。
——……違う。今はこういうの、違う。
わたしは視線を落とし、小さな声で言った。
「やめて……後で聞くから」
本当は、ちゃんと蒼の話を聞かないといけないのに。わかっているのに。
でも、いま向き合うのが怖くて、わたしは俯いたままだった。
——その瞬間。
顔にバシャっと冷たい水がかかった。
「っっ⁉」
思わず顔を上げると、蒼が「してやったぜ」と言わんばかりの顔で笑っていた。
「仕返し」
悪びれる様子もなく、蒼はにやりと笑う。
——もぉ~! 目にも鼻にも入りそうだったじゃん‼
「手は反則‼」
わたしは両手で水をすくい、一気に蒼へとかけた。
「おい! 咲葵もやってんじゃん!」
「うるさい!」
わたしたちは笑いながら、水のかけ合いを続けた。
まるで、子どものころに戻ったみたいに——。
しばらく水をかけ合って遊んでいると、蒼が波の上を走りながら、わたしから距離を取る。
「えいっ!」
頑張って水を飛ばしてみても、蒼のところまでは届かない。わたしの必死な姿が面白いのか、蒼は口元を緩めて笑っている。
「この~!」
負けじと水をすくい、笑いながら駆け出した。それに合わせて、蒼も笑いながら逃げる。追いかけっこをしながら、波を蹴って走る。
——楽しい。すごく楽しい。
でも、その楽しい時間は一瞬で終わった。
「あっ」
波が不意に足をさらい、バランスを崩した。
次の瞬間、全身が海に投げ出される。
「咲葵!」
蒼の叫び声が聞こえ、バシャバシャと水をかく音が近づいてくる。
わたしはゆっくりと体を起こし、濡れた髪を払う。
「大丈夫」
そう言いながら立ち上がると、びしょ濡れになった制服が肌に張りついていた。
「わっ……最悪」
スカートの裾を軽く絞ると、ポケットの中で小さな振動が伝わる。
「あっ、スマホ!」
慌ててポケットから取り出し、液晶がちゃんと光るのを確認してホッとする。波打ち際から少し離れ、カバンの中からハンカチを取り出して水滴を拭った。
「大丈夫か?一応、防水なんだろ」
蒼が心配そうに尋ねる。
「うん」
そう答えながら空を見上げると、すでに赤みを帯びた夕焼けが広がり、太陽が水平線に向かって傾いていた。
「座ろ」
わたしが砂浜に腰を下ろすと、蒼も隣に座る。
波の音が静かに響く。
「大丈夫、わかってるから。わたしを安心させようとしたんだよね」
ゆっくりと口を開く。蒼は黙ったまま、ただわたしを見つめていた。
「樹くんって、学校の中でも結構有名じゃん。イケメンだし……。購買での出来事があって、運命だって感じて、一緒に遊園地も回れて……本当に幸せ者だなって思ってたの。でも、観覧車で見ちゃったんだ。恋バナの後、夕日が差してたあの時、樹くん……泣いてたの」
波打ち際を見つめながら、そっと言葉を紡ぐ。蒼は何も言わない。ただ、わたしの話を聞いてくれている。
「それが引っかかって、どうしたらいいのかわからなくなった。でもさ、悩んでても仕方ないしって、進むことにしたの。蒼にも香織ちゃんにも手伝ってもらってるんだし、それに甘えてないで、自分で行動しないとって。じゃないと、わたしの恋は実らないから……」
——そう、だから頑張ったんだ。
「部活にも参加して、大変だったけど、ちゃんとやろうって決めてた。でも……強化合宿の時、わたしが行けないことを、樹くん、先生に聞いたみたいで……」
小さく息をつく。
「病気とは言ってないみたいだけど、『特別な事情がある』って」
「なら、まだ決まったわけでもないし」
「部活に入ってない特別な生徒だよ? 初めて会ったのは、倒れかけた時だよ? それに……わたし自身、樹くんに病気のことを聞かれたくない」
——知られたくない。
「だから、樹くんが泣いてた理由、恋愛する気がない理由なんて、聞けないよ……」
声が震えそうになる。
「大丈夫だ」
「知られたくなかったよ……」
「大丈夫だよ。俺だって、咲葵が病気で体が弱いこと知ってるけど、離れてないだろ」
「だって、蒼は昔っからわたしと一緒にいたから、それに……」
「言ったって、離れていかないよ」
蒼の声はいつも通りだった。まるで当たり前のことのように、迷いなくそう言った。
わたしは泣きそうになるのをこらえて、ぎゅっと唇を噛む。
——どうしてそんなに簡単に言えるの?
震える声を必死に落ち着かせて、小さく囁く。
「……そうかな?」
「——ああ、きっと大丈夫だ」
蒼の声は、いつだって変わらない。
だから、わたしはその言葉に甘えてしまう。
「ああ、きっと大丈夫だ」
蒼の声が波音に紛れて、静かに消えていく。
いろんな思いが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
でも、考えたってどうしようもないことばかり。意味のない感情を抱え込んで、足元が沈んでしまいそうになる。
——考えないようにしないと。
自分に言い聞かせるように、無理やり意識を逸らした。
「…………そっか」
気持ちを振り切るように、ゆっくりと立ち上がる。
波が足首に絡みつき、じんわりと冷たさが染みる。
「香織にも言ってないんだろ。まずは香織に相談して、それから三人で——」
「かお……り?」
思わず聞き返す。
——今、明らかに『香織』って言った。今まではずっと『里見』だったのに。 そっか、わたしの知らないところで仲良くなってたんだ。
じわりと胸の奥に小さな痛みが走る。
「大丈夫か?」
蒼が不安そうにのぞき込んでくる。
「うん」
動揺を悟られたくなくて、無理やり笑う。思い出したようにスマホを開くと、未読のメッセージが目に入る。樹くんからだった。
——あの時の振動、これだったんだ。
画面には、短い言葉が並んでいる。ごめん から始まるメッセージに、指が止まる。
——開くの、怖いな。
でも、今見なくても、後でどうせ見ることになる。結果は変わらない。
——だったら、今見ちゃおう。
意を決してタップする。
『ごめん、気づけなくって。体あんまり丈夫じゃないんだよね。入部の件だけど、取り消しになったから。いろいろ大変だとは思うけど、しっかり休んで。もう来なくていいから』
——もう来なくていい。
その言葉が、ずっしりと心の奥に落ちる。
拒絶された。その事実だけが、痛いほど突き刺さる。
『わかった』
たった四文字だけ打ち込んで、送信する。
——不思議と、そこまでモヤモヤが強くなることはなかった。
でも、消えもしない。
何かが張りついたまま、ずっと取れない感じ。
「送れたか?」
蒼が心配そうにのぞき込む。
——ほんと、優しいね……蒼は。
「ううん」
「どうして?」
「樹くんからさっき連絡があって……クビになったの」
「え?」
蒼の顔が、一瞬強張る。
でも、わたしは笑った。まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
「大丈夫。まだ振られたわけじゃない。まだこれから」
——そう、まだ終わりじゃない。
「しかも、まだ出会って一ヵ月しか経ってないもんね」
必死に明るく言うけど、声が震えてる。
「諦めるにはまだ早いよね! わかってる……ッ」
——わかってる、はずなのに。
「咲葵……」
その時、ちょうど海の向こうに沈む太陽が、わたしたちを真っ赤に染めた。
風が吹いて、潮の匂いが鼻をかすめる。
「……だって、まだ二年生だよ。三年生になっても、諦めないから……」
堪えられなかった。震える声と一緒に、涙が零れる。
——やだ……沈まないでほしい。 沈まないで。
わたしの中のモヤモヤが、焦燥へと変わる。
時間はまだある。まだ、あるはずなのに。
なのに、焦る。
なぜか、焦ってしまう。
「……しず……まな……い…………で」
最後に見たのは、どこまでも沈んでいく夕日だった。音が消えて、世界がゆっくりと遠ざかる。方向感覚がなくなり、体がふわっと浮くような感覚に陥る。
——ああ、ダメだ。
どこまでも深く沈んでいくみたいだった。
そして、わたしの意識は、闇へと落ちていった——。




