1話 出会い
ねぇねぇ、お願い。
止まって。
心臓止まって。
なんでこんなに焦るの。
なんでこんなにドキドキするの。
なんで素直に声が出てこないの。
なんで声の震えが止まらないの。
なんでこんなに顔が赤くなるの。
なんで なんで なんで なんで
こんな思いをしてまでわたしは……
あなたに恋してしまったの。
「ああ~、だる~い……」
窓の外をぼんやり眺めながら、机に突っ伏す。春の風がカーテンをふわりと揺らしていて、それがなんだか子守歌みたいで、ますます眠くなってきた。
わたしの席は 教室の最前列、一番左の窓際。朝は日がよく入るし、風も通るから、うとうとしちゃうんだよね。
すると、隣の席の五十嵐蒼が、呆れたような声をかけてきた。
「おい、咲葵。どーしたんだよ」
——わたしは南咲葵。蒼とは幼なじみで、小中高ずっと一緒。そして高校二年生になった今年も、また同じクラスになった。しかも、席まで隣同士。
窓際のわたしの隣、左から二番目の席が蒼の席。右を向けばすぐそこにいるし、ちょっかいを出してくる距離感が近い。
「え~、だって次、英語だよ~」
「咲葵は昔っから英語嫌いだよな」
——そう、わたしは英語がすっごく苦手。だから、英語の授業は昔っから嫌い! とっても単純な理由だけど、それで十分。……そんなことより、おなかすいたな~。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、思わず口に出てしまった。
「はぁ~、お昼ご飯食べたい~」
「またご飯かよ。咲葵、お前、太るぞ」
「太んないし!」
わたしは思わずムッとして睨む。すると、蒼は意地悪そうにニヤッと笑った。
「そっかそっか、もう太ってたな」
——ほらー! またそーいうこと言うー!
「太ってないし、太らない体質だし!」
ちょっと頭にきて、つい語気を強めてしまう。
その瞬間、蒼がすっと席を立った。
「……え?」
突然のことにびっくりして、わたしは思わず蒼を見上げる。
——怒らせちゃった……? ちょっと強く言いすぎちゃったかな?
心配になったけど、蒼は無言のまま、わたしの席の前まで移動すると、しゃがみ込んだ。
カーテン越しの陽ざしを背に、蒼の顔が近づく。きょとんと見つめていると、わたしの目線と同じ高さになった彼が、ふっと笑った。
「ごめんごめん、太ってなんかないよ。可愛いよ」
まっすぐ伸ばされた手が、わたしの頭をやさしく撫でる。
「…………」
カァッと顔が熱くなる。
——え、え、え!? 今、なんて!?!?
脳がフリーズして、体がカチコチに固まる。
——いやいやいや、待って待って!! これはダメ!! こんなの反則!!
わたしは慌てて視線を伏せる。顔が熱い。絶対真っ赤になってる。
そんなわたしを、蒼は優しそうな目で見つめていた。
「あ、もうそろそろ授業始まるぞ。用意しろよ」
蒼は何事もなかったように立ち上がり、自分の席に戻る。
「もう、わかってる!」
わたしは照れ隠しに少し強めの声で返した。
——……って、え!? なんか声、大きくなっちゃった!?
一瞬、クラスの空気が静かになったような気がする。
——はっ、やばっ!! もー蒼のバカー!!!
わたしは慌てて両手で口をふさぐ。
そんなわたしを横目に、蒼は席に着くと、顔を伏せたまま肩を震わせて笑っていた。
「ふ~、終わったぁ~!」
嫌いな英語の授業が終わり、待ちに待った昼休み。解放感で全身の力がふぅーっと抜ける。
机に突っ伏しながら、わたしはひと仕事終えたヒロインみたいに大げさに息をついた。
「お疲れ」
そんなわたしの様子を見て、隣の蒼がいつも通りの声で返してくる。
その声を聞いた途端、わたしはパッと体に力を入れ、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、行ってくる!」
そう宣言して、食堂に向かって走り出す。
——今日こそ、焼きそばパンをゲットするぞ!!
そんなわたしの背中に、蒼の声が飛んできた。
「太るぞー」
「太んないし!」
わたしは振り返りながら蒼に叫ぶ。
そのとき、なんとなく、彼の目がふっと細くなった気がした。
でも、いつもみたいに笑ってるし、気のせいかな?
そんな疑問も、一瞬のことで流れてしまう。
——それより、急がなきゃ!
すぐに前を向き、わたしは階段へと駆け出した。
「はぁ~、着いた~」
食堂にたどり着いたわたしは、軽く息を切らしながらつぶやいた。すでにたくさんの生徒が行き来していて、活気に満ちている。
校舎はロの字型になっていて、二年生の教室は南側。一年生と三年生の教室は西と東にあり、食堂は北側。つまり、二年生の教室は食堂から 一番遠い。
しかも、食堂は一階で、わたしの教室は三階。だから、わたしは授業が終わると同時に全速力で廊下を駆け抜けてきた。でも、すでにたくさんの生徒がいて、購買は混み始めている。
——うーん、でもまだマシかな。これ以上遅れたら、何も残らなくなるもんね。
気を取り直して、購買へ向かう。
——ん~、焼きそばパン、残ってるかなぁ?
期待を込めてパンの棚を覗くと——あった! まだたくさん並んでる!
——やったぁ! まだある! 早く来てよかった~!
「おばさん、焼きそばパン二つください!」
レジの前に立ち、ピースサインで「二個」のジェスチャーを送る。
その瞬間——。
ドドドドドッ!
まるで洪水のように後ろから生徒たちが押し寄せ、購買の前が一気に戦場と化した。
「メロンパンください!」
「カレーパン、ラストひとつ取らないでー!」
「コロッケパン、追加ないですか!?」
次々と飛び交う声。みんな、食べ物への執念がすごい。
購買のおばさんは慌てながらも、わたしの頼んだ焼きそばパンを袋に入れてくれた。わたしはポケットから小銭を取り出し、ちょうどの金額を渡す。
——よし、あとはこの人混みから脱出するだけ……!
そう思って振り返った瞬間——。
「あ……」
視界がぐらりと揺れた。
足元がふわっと浮いたような感覚。耳鳴りがして、周りの音が遠のいていく。体が重くなっていくのがわかる。
——あれ……? なんだか、力が入らない……。
次の瞬間、ふっと膝の力が抜け、わたしの体はゆっくりと床に向かって傾いていった。
「大丈夫?」
耳元でふわりと優しい声がする。同時に、どこか安心するような温かさに包まれた。
ゆっくりと目を開けると、目の前には 学校でも人気の二年生、長谷川樹くんの顔。
柔らかい髪、涼しげな目元、優しい表情。
——え、ちょ、えぇぇぇぇ!?!?
今の状況を整理する。
わたしは今、長谷川樹くんの腕の中にいる。
しかも、まるで少女漫画みたいに お姫様抱っこ 状態!!
——え、なにこれ、現実!? 夢!? わたし、今、どういう顔すればいいの!?
思考がパニックになり、アワアワと混乱していると、樹くんが心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫?」
優しい声が、すぐ近くで響く。
その距離の近さに、心臓がバクバクと暴れだした。
——や、やばい、顔が熱い!! 絶対真っ赤になってる!!!
わたしは バッ! と彼の腕から飛び退いた。
「だ、だ、だい……大丈夫ですっ!!」
——いやいやいや、全然大丈夫じゃないよ!?!?
噛み噛みの返事に、自分で自分が恥ずかしくなる。顔がさらに熱くなっていくのを感じた。
樹くんは目をパチパチさせたあと、ふっと微笑んで、くすくすと笑い出した。
「ふふっ。大丈夫? 南さん、面白いね」
——ちが~~う!! 面白いとかじゃなくて、今の忘れて~~~!!!
わたしは恥ずかしさで限界を迎えそうになり、必死に冷静を装って答える。
「う、うん。大丈夫……」
でも、このままここにいたら 恥ずかしさで死ぬ!!
なのに、樹くんはまだ何か言おうとして——。
「あの……」
「あ、わたし用事あるから!! じゃ、じゃあね!!」
わたしは完全にテンパりモードに突入し、彼の言葉を最後まで聞くこともな 猛ダッシュで食堂を後にした。
「咲葵、どーしたんだよ」
さっきの英語の授業前と同じように、わたしは机に突っ伏していた。まるで水分のなくなった花みたいにぐったりしていると、隣の蒼が少し気にかけるように声をかけてきた。
「うーん……べつに~」
——なんて言えばいいのかわからない。でも、なんか疲れたんだよー。泣きたい、いろんな意味で。
「そーいえば飯は?」
「食べた」
「はやっ」
驚いている蒼の反応をぼんやり聞きながら、わたしはさっきのことが頭から離れず、心ここにあらず状態。
「嬉しいよーな、悲しいよーな。はぁ~、なんか疲れたぁ~」
——あ、声に出ちゃった。
蒼はしばらくわたしを見ていたけど、何も言わずに自分の席へ戻り、椅子に腰を下ろした。そして、じっとこっちを見つめてくる。
……この態度、知ってる。話すまで待つつもりだ。
仕方なく、わたしは口を開いた。
「今日、購買のところで樹くんに助けてもらったんだよねー」
蒼の目が少し驚いたようにわずかに開かれる。そして、今度は険しい顔になって、ゆっくりと名前を繰り返した。
「……長谷川?」
——どーしたんだろー、蒼。
不思議に思いながら蒼の顔を見ていると、わたしの名前が呼ばれた。
「咲葵?」
その声で、我に返る。
「あ、うん。なんか購買であったの。焼きそばパン二つ買って……」
「二つ?」
蒼が驚いたように聞き返してくる。
「うん、食べた」
「たべたぁ!?」
「え?」
蒼の大げさな反応に、わたしも驚いてしまう。
——え? そんなに驚く?
購買の焼きそばパンは、普通のよりちょっと大きい。運動部の男子とかなら二つ食べることもあるけど、そんなにびっくりすること?
蒼はわたしをまじまじと見つめると、ごくりと唾を飲み込んだ。
……な、なに? なんか緊張感出てきたんだけど……。
わたしもつられて、ごくっと唾を飲む。
そして、蒼の唇がゆっくりと動いた。
「で」
「デブじゃないから! ならないから!!」
——蒼が何を言おうとしたのか、なんてすぐに分かる!! 絶対デブって言おうとしたよね!?!?
わたしは即座に叫ぶ。
蒼は少し笑ってから、元の顔に戻して聞いてきた。
「うん、わかった。で?」
「じゃないか……ら……あ、うん」
——もぉー、まぎらわしいなぁー! デブって言われるかと思ったじゃん!!
「それで、買ったあとね。なんか急にふらっとして……意識が飛んでいくのかな? なんかそんな感じになって、倒れそうになったんだけど、助けてくれたの」
「……」
返事がない。
さっきまで普通に話していた蒼が、突然黙り込んだ。
——え、なに? どしたの??
わたしは不安になって、思わず聞いてしまう。
「どーしたの?」
蒼は、さっきよりも確かに暗い表情になっていた。そして、低い声で聞いてくる。
「今は、くらくらしたり吐き気とかはないよな?」
「え、なに!? やだなぁ~、大袈裟だよ。全然大丈夫!」
——蒼、ちゃんとわたしのこと心配してくれてるんだ。やっぱり優しいな、蒼は昔から。
そう思うと、ちょっと嬉しくて、安心できる。
「た」
「食べ過ぎとかじゃないから!! それが原因なんかじゃないから!!」
「おお」
——安心できない!!
蒼は「おぉ」と変な声を出してから、ククッと笑った。
——もー、また笑ってるし! けど……なんかホッとしたかも。
そんなことを思った瞬間、わたしの心臓がちょっとだけドキッと跳ねた気がした。
——……ん? なにこれ。ま、いっか。
「はぁ~……」
家に帰ったわたしは、そのままベッドに倒れ込んだ。
——なんか、最近ため息ばっかりついてる気がする……。それに、めまいや立ちくらみも増えた。ちょっとした寝不足とか疲れのせいかな? まあ、そんな大したことじゃないよね。
「はぁ~……」
——あ、またついちゃった。
急いで口を押さえる。……けど、もう遅い。遅れて伸ばした手をそっと離して、天井をじっと見つめる。
——今日も立ちくらみ、あったなぁ。それに……樹くんに、抱きとめられちゃった。
「はあぁぁぁぁぁ…………ッ!!」
わたしはバフッと枕に顔を埋めた。
——かっこよかったよ~!! しかも、わたしに笑いかけてくれたよ!? こんなの今日一番の出来事じゃん!! 樹くん、好き~~!!
ふわふわした気持ちに浸っていると——。
「ごはんよー!」
母の声で思考が強制終了する。
わたしはバッ!と体を起こし、大きな声で返事をした。
「はぁーい!」
ご飯だぁー!
勢いよくベッドから降り、部屋のドアへ向かう。
そのとき、ふと樹くんに言われたことを思い出した。
「……あ、樹くんにお礼してなかったなぁ」
それと同時に、もうひとつ思い出す。
「蒼のやつ~、太ってないし!」
口に出しながらドアを開ける。
「心配してくれなくても、だ……い……」
——その瞬間、ふわっと視界が揺れた。
頭がぐらっと傾き、体の力が抜ける。
——あ、まただ。
今までより、ずっと強い。
遠ざかっていく意識の中で、わたしは最後に鈍い音を聞いた。
バタン。
……あれ? 体、動かない……。
痛い、って思ったはずなのに、よくわからない。
なんだか、すごく眠い……。
そう感じた瞬間、思考がふっと遠のいた。