白杖の転校生
4月8日、月曜日。春の陽射しが教室の窓から差し込む中、成田遙は新しい中学校の教室の前に立っていた。手の中の白い杖をぎゅっと握りしめる。
ドアの向こうから聞こえる生徒たちのざわめきが、彼女の耳に届くたび、胸の奥が締め付けられるようだった。
遙は中学2年生、14歳。生まれつき強度の弱盲を抱えていて、視界はいつもぼやけている。遠くのものはもちろん、近くの細かい文字さえもほとんど判別できない。医者からは「視力は0.01以下」と告げられていたが、遥にとってはその数字すら実感が薄い。ただ、目の前が常に霧に包まれたような感覚で、人の顔も、物の輪郭も、ぼんやりとした影にしか見えない。それでも、遥はなんとか自分の足で歩き、周囲の音や感触を頼りに生きてきた。
「転校か……」
遙は小さくつぶやき、深呼吸をした。前の学校では、視覚障害を理由に特別支援学級に通っていた。でも、新しい町に引っ越してきた今、両親は「普通の中学校でやっていけるはず」と判断したらしい。遙自身も、それを望んだ。普通の生活がしたい。友達を作って、笑い合って、みんなと同じ時間を過ごしたい。そんなささやかな願いを抱いて、この学校に来たのだ。
「じゃあ成田さん、少し待っててね」
教室まで遥を案内してくれた担任の春野梓がそう言い残して教室に入っていった。
「はい、みんな、席に着いて。今日はお知らせがあります」
教室のざわめきがやや収まった隙に、梓は言葉を継いだ。
「今日は転校生がいます」
再度ざわめきが大きくなったが、梓は構わず遥を呼んだ。
遙は意を決して一歩踏み出し、教室の中へ入った。白杖を手に持ったまま、ゆっくりと進む。足元が少し震えていた。視界はいつも通り、白く霞んでいて、数十人の生徒たちがどこにいるのか、どんな表情でこちらを見ているのか、まったくわからない。ただ、ざわめきが一瞬静まり、その後に小さな笑い声や囁きが聞こえてきただけだ。
「成田遙さんです。成田さんは弱視といって視力が弱いです。だから、みんな助けてあげてね」
担任の声が響き、遙は小さく頭を下げた。
「成田遥です、よろしくお願いします」
自分の声が、妙に小さく震えていることに気づいて、唇を噛んだ。
「よろしくねー」
誰かの声が返ってきたが、それはどこか投げやりで、すぐに別の声が被さる。
「杖持ってるじゃん。盲目?」
「あずあずが弱盲って言ってたじゃん、少しは見えるんでしょ」
「転校生でそういうの珍しいな。」
囁き声が教室のあちこちから聞こえてくる。遙には、それが誰の声なのか、どこから発せられているのかわからない。ただ、動く靄と、喧噪だけが鮮明に耳に届く。彼女は白杖を握る手に力を込め、なんとか平静を装った。
「成田さん、席はこっちです。窓際の前から4番目の席ね。」
梓の声に導かれ、遙はゆっくりと歩き出した。杖を床に軽く当てながら進んでいくと、何かが杖に引っかかるような感触があった。
「あ、ごめんごめん、鞄置いてたわ」
男子の声がすぐ近くで聞こえた。
「藤森君、荷物を床の上に置かない!ロッカーに入れるか机のフックにしっかりとかけておいてください」
梓の注意に藤森君と呼ばれた男子は「はーい」と投げやりに返事をして荷物をどけた
杖の感触から障害物がどけられたと分かった遙は立ち止まって何か言おうとしたが、何を言えばいいのかわからず、
「あ...ごめんありがと」
早口でお礼を言って歩き続けた。
席に着くと、杖を折り畳み、カバンの中にしまって一息ついた。
梓は教壇に戻り、話をつづけた。
「今までも何回も注意してきましたが、荷物はちゃんと整理してください。特に成田さんがこけたりしないように、床の上には絶対に置かないように!」
「はーい」
投げやりながらも全員が返事をしたように思えた。
でも、遙には別の声が聞こえていた。やや離れた席から聞こえる、ひそひそとした声だ。
「だりーって、あずあずマジでだりーって」
「はる先生いつもは怒んないのにね」
「障害者の転校生が来たからだろ、面倒くせぇ」
遥は耳がかなり良い方だ。生まれつき目に頼れない分、耳に頼って生きてきた。しかし、鋭い聴覚はいいことばかりではない。聞かなければよいことも多く聞いてきた。
今回もそうだ。誰が話しているのかはわからない。声の主が男子か女子かしかわからない。ただ、その言葉に混じるのは、転校生への歓迎ではないのは確かだった。