8 次の狙い
黒く垂れた雲間から幾筋もの光が、山塊に振り注いでいる。
美しい光景に僕は見とれた。躑躅ヶ崎館からわずかな距離だが、煩わしい正室や側室から離れることができたため、見慣れた光景もより美しく見えるのだろう。
紗矢一人を連れ躑躅ヶ崎館の二里ばかり西の湯村山館に移ってからふた月になる。
名の通り出湯の里で館にも引き込んであった。美女としっぽりと温泉で癒す。
生まれて初めて最高の気分だった。
「御家老様方がお見えですが、如何取り計らいましょう」
家老衆では追い払うわけにもいくまいと、広間に通すことを命じた。
板戸を開けると山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が平伏していた。
「よく、ここがわかったな」
「御神代様が童のころ、何度もこの屋敷でお会いしましたが。あ、いやこれは失礼」
山県が顔をあげ答えた。馬場も内藤も何も言わない所をみると、記憶喪失は聞いているのだろう。
「酒を用意しよう。其の方らと一度、酌み交わしたと思っていたのだ」
「い、一度で、ございますか」
最古参の馬場は何度も勝頼と飲んでいるのだろう。隠していても顔に浮きでている。
「で、何のようだ」
おおよそは見当がついていた。織田と徳川への今後の攻め方についてだ。織田は多くの将を失ったとはいえ、美濃の大半、尾張、近江、伊勢、越前、、若狭を有している。一方、、徳川はわずか三河三郡、織田の援軍がなければ寝返った奥三河の領主らにも攻め滅ぼされかねないほど弱体していた。
「吉田城の原隼人佑より使いが来ました。三河加茂の地侍らが一揆を起こしたそうです」
内藤昌豊が裏で糸を引いているのだろう。敗戦後の徳川の力を試しているのだ。
「三河を獲り、尾張、美濃を突いては、いかがか」
馬場信春は、徳川に一揆を鎮める力はないと見ているようだ。織田が援軍を送るようなら別だろうが、下手をすれば織田に滅ばされかねないと危惧しているのだ。
ならいっそのこと徳川を滅ぼし、三河を手中に治めて織田領の尾張、美濃を攻めるべきだと考えているのだ。
「山県も、そう思うか」
むずかしい顔で酒を含んでいた山県に振ってみた。
弱体した徳川なら一揆の地侍と吉田城の原昌胤勢だけで充分勝負になる。織田信長の出方を見るのには丁度いいのだが、僕は迷っていた。
「織田は徳川を見捨てるでしょうな。信長は尾張、美濃の国境を固め同盟を破棄する」
信長がわずか三郡の領主に落ちた徳川に義理立てするはずがない。やはりそうなるか。
「内藤。どうだ。三河半国安堵、尾張切り取り次第で家康を引き込めぬか」
内藤は目を剝いた。
「徳川など滅びたも同然。今更引き込んでなんとなさる」
「岡崎を落とし、尾張を攻めるのが肝要と存ずる」
馬場も尾張切り取り次第が気に食わなかったようだ。だが、織田領を脅かすのは同盟の徳川でなくてはならない。山県に目をやると心得たとばかりに頷いた。
「何か、気にかかることがございますかな」
今までのように指示することはできない。
歴史を変えたのだから、本当に起こるかどうかはわからないのだ。今後すべてにおいてこうなる。長篠の大勝によって僕を認めたこの三人も、神託が外れ続ければどう態度を変えるかわからない。
「加賀での織田方と上杉方の動きだ」
曖昧に言うしかない。史実通りなら信長は越前の柴田勝家を大将に、本願寺の門徒一向宗の国といわれる加賀を狙う。越中を平定した上杉謙信は、宿敵の本願寺と講和を結ぶと能登を制圧。加賀に狙いを定める。
両者は加賀、手取川で戦となり謙信が勝ちを治める。一年後のことである。
「加賀? 三河ではござらぬのか」
内藤にすれば戸惑いは当然のことだろう。労せず手に入る三河を後回しにて北陸を睨んでいたのでは進言の意味はない。だが、先が分からなくなった僕にとっては重要なことだ。
「信長が、琵琶湖、いや、近江の海の近くに新しい城を築くという噂は聞いているか」
三人は顔を見合わせた。信長が、四年の歳月をかけ安土城を築き始めるのは、四ケ月先のことだ。山県配下の透破はまだ掴んでないらしい。
「そ、それは、例の神託でございますか?」
山県が身を乗り出して聞いて来た。馬場、内藤が食い入るような視線をむけた。
「前と違ってな、はっきりと聞こえぬのだ。確かめたい思ておる」
そう確かめなければならない。長篠の快勝でどう歴史が変わったのか。この先半年で起こるはずの出来事と比べなければならない。
「左様な事でしたら、仰せのままに」
三人が頭を下げた。武人であるがゆえに神仏の加護は絶対的なものなのだ。上杉謙信の刀八毘沙門の大旗しかり、徳川家康の厭離穢土欣求浄土の大旗しかり、信玄でさえ諏訪南宮上下大明神の大旗を用いている。諏訪大社大祝の血流の勝頼なら神託が聞こえても不思議に思わないのだ。